第四十九話「鶏頭となる」
試験会場は、神殿学校の大講堂だった。
百人近い少女たちが、緊張した面持ちで席に着いている。ニイナは後ろの方の席を選んで座った。目立たない場所。それが重要だった。
配られた試験用紙を見て、ニイナは内心で確信した。
これは振り分けのための試験だ。
簡単な読み書きの問題。基礎的な計算。神殿の歴史についての初歩的な知識。どれも、本当に学力を測るためのものではない。教育を受けてきたか、そうでないかを判別するだけのもの。
周囲を見回す。前の方に座った少女たちは、すらすらとペンを走らせている。おそらく家庭教師がついていたのだろう。中ほどの席の少女たちは、時々手を止めながらも着実に解答を埋めていく。
そして後ろの方――
隣の席で、見覚えのある少女が唸っていた。マヤだ。家を追い出されたと言っていた、あの少女。
ペンを握る手が震えている。問題用紙を見つめる目には、絶望の色が浮かんでいた。文字が読めないのだろう。
ニイナは再び自分の試験用紙に目を落とした。
全ての問題に答えることは、簡単だった。イザベラに叩き込まれた知識がある。戦術書を読むために覚えた文字。効率的に殺すために学んだ計算。
だが――
筆が止まる。
どうするべきか。
高得点を取れば、上位グループに入れられる。そこには名家の娘たちがいるだろう。レイチェルのような、プライドの高い少女たち。彼女たちの中で過ごすのは、息が詰まる。常に監視され、評価され、競争を強いられる。
下位グループならどうか。
マヤのような、行き場のない少女たち。彼女たちなら、過度な期待もしないだろう。目立たず、静かに過ごせる。
そして何より――あの年上の自分は、私が読み書きできることを知らないはずだ。
ニイナは決断した。
名前の欄に、丁寧に「ニイナ」と書く。
それ以外は、全て空白のまま。
これなら、全く書けないわけではないが、教育は受けていないと判断されるだろう。
牛の尻につくより、鶏の頭になる。
下位グループの中で、ひっそりと過ごす。それが、巨人の腕に戻るための最短距離かもしれない。
試験時間はまだ半分以上残っていたが、ニイナは用紙を提出した。
試験監督の教官が驚いたような顔をしたが、何も言わなかった。
廊下に出ると、静かだった。他の受験生はまだ必死に問題と格闘している。
ニイナは窓辺に立ち、外を眺めた。
これでいい。
目立たず、静かに、時が過ぎるのを待つ。
そして夜になれば、夢の中で巨人に会える。
***
神殿の一室で、試験結果が集計されていた。
「これは……」
ナブが絶句している。手に持った紙には、ニイナの適性検査の結果が記されていた。
「法力の数値が……人間の範囲を超えてますね」
「聖火の適性も異常よ」
アザリアも困惑していた。六つの聖火を宿す自分でさえ、ここまでの数値は出なかった。
「人間なのかも疑わしいわね」
アジョラが結果を見て、眉をひそめる。
「改造でも受けているのでしょうか?」
「いや、そんな技術は存在しません」
ナブが首を振る。
「まあ、血は争えないということでしょう。メルベルとアザリア様の娘なのだから、当たり前と言えば当たり前ですが……」
苦笑しながら続ける。
「ガレスはここまでじゃなかったですけどね」
アジョラが思い出したように言った。
「メルベルが言っていました。ニイナに襲われた時、技を一瞬で盗まれたと。天才肌だと評していましたね。かなり苦戦を強いられたそうですから、この結果も真実なのでしょう」
「でも、このままでは不自然すぎます」
アザリアが提案する。
「数値を少し改ざんしましょう。目立ちすぎては、かえって危険です」
皆が頷いた。
そして、筆記試験の結果を見る。
「……真っ白ですね」
ナブが呆れたように言う。名前だけが、美しい文字で書かれていた。
「まあ、彼女の育った環境を考えると、名前が書けるだけでもマシな方かもしれません」
「いいえ」
アザリアが首を振った。
「これだけ達筆で名前を書いて、他が真っ白なのは意図的よ」
アジョラが苦笑する。
「あなたが考えそうなことですね、アザリア」
そして続けた。
「『牛の尻につくより、鶏の頭になる』ということでしょう」
アザリアも頷く。
「どうせ最終的には、聖火の受領能力と法力の強さでしか巫女の価値は測れません。筆記試験は、将来職員として働く者を選別するためのもの。この段階では、正直あまり意味がないことを、幹部なら誰でも知っています」
ナブが笑った。
「では、読み書きから始める下位グループに編入ということで。ちょうど、援助を約束した貧しい家の娘たちもそこにいるでしょうから、手間が省けました」
「どうせ成績が良くても、下位グループに入れる予定でしたし」
アザリアが付け加える。
「本人も我々の意図を先読みしているのかもしれませんね」
ナブは感心したように言った。
「十五歳にして、この洞察力。やはり只者ではありませんね」
アジョラは黙って書類に判を押した。
これで、ニイナは正式に神殿学校の生徒となる。
下位クラスの、目立たない一人の生徒として。
だが全員が知っていた。
彼女は鶏の頭として、静かに爪を研いでいるのだと。
その頃、ニイナは部屋で窓に毛布をかけていた。
カーテンの隙間も塞ぎ、扉の下の隙間にも布を詰める。完全な暗闇を作り出すために。
光は邪魔だ。
音も邪魔だ。
全てが、偽りの現実。
ベッドに横になり、楽譜を胸に抱く。そして目を閉じた。
暗闇の中で、意識が沈んでいく。
偽りの現実から離れ、真実の世界へ。
夢の中の巨人の腕。
その感覚は、かつてイザベラが与えた麻薬を思い出させた。痛みを排除するための訓練。骨が折れても戦い続けるための薬。あの時の陶酔感。
だが、巨人の腕の中で感じる安らぎは、あの麻薬の何百倍も強烈だった。
全身が溶けていくような快感。
意識が拡散していくような浮遊感。
そして何より、完全な安心感。
ここだけが真実。
この温もりだけが本物。
「もっと……もっと深く……」
ニイナは呟きながら、さらに深い眠りへと落ちていく。
現実など、どうでもよかった。
学校も、試験も、全てが幻想。




