第四十八話「要塞の中の自由」
新しい部屋は、透明な檻とは比べものにならないほど普通だった。
小さいながらも本物のベッド、簡素な机と椅子、窓からは中庭が見える。監視の目は相変わらず厳しく、扉の外には常に戦士が立っているが、それでも人間らしい空間だった。
ニイナは扉が閉まるや否や、ファイルから楽譜を取り出した。紙の端が少しよれているのを丁寧に伸ばし、机の上に広げる。
そして、歌い始めた。
「その剣は炎、その瞳は深淵……」
声が部屋に響く。何度も歌ってきたが、普通の部屋で歌うのは初めてだった。音の響きが違う。より深く、より優しく聞こえた。
扉の外で、若い戦士が鼻をすすった。
「なんだよ、この歌……泣けてくるな」
「仕事中だぞ」
隣の年配の戦士が窘める。だが、その戦士も目元をごしごしと擦っていた。
「でも、いい歌じゃないか。『孤独な戦士の子守唄』……俺も昔、酒場で聞いたことがある」
「ナブ様も言ってただろ。まだどう転ぶか分からない。油断するな」
「分かってるよ。でも……」
若い戦士は言葉を濁した。あんな美しい声で歌う少女が、本当に危険な殺人者なのだろうか。
一方、別室では対策会議が開かれていた。
「さて、どうしたものか」
ナブが頭を抱えている。
「本人が正規の書類を提出した以上、編入手続きは自動的に進む。早ければ一週間で適性試験が始まる」
「筆記試験もあるのよね」
アザリアが眉をひそめた。
「ちょっと軽率だったかしら。まさか本当に登録が通るとは」
アジョラが静かに口を開く。
「問題は安全面です。イザベラがニイナを口封じのために攻撃してくる可能性がある」
「どこかに隠すべきでしょうか」
ナブの提案に、アジョラは首を横に振った。
「いいえ。むしろ学校の方が安全かもしれません」
「学校が?」
「考えてみてください。巫女部門の学校は、基本的に関係者以外立ち入り禁止。ある意味、学校全体が監視された要塞のようなものです」
確かにその通りだった。神殿の学校は厳重に警備されている。不審者は即座に発見される。
「昔は内部に裏切り者もいましたが、粛清は終わっています。人間の協力者たちは今、裏街道で細々と生きている。こんな都の真ん中の神殿学校に侵入できるはずがありません」
アザリアも頷く。
「それに、男の戦士を護衛につけるより、目立たないやり方があります」
アジョラが微笑んだ。
「生徒の中に、協力者を作ればいいのです」
「有力な家の娘たちですか?」
アザリアが尋ねると、アジョラは首を横に振った。
「いいえ、むしろ貧乏な家の娘の方がいいでしょう」
意外な答えに、ナブとアザリアが顔を見合わせる。
「彼女たちに援助を約束するのです。『実はニイナはやんごとなき家の娘だが、事情があって身分を隠している』と」
アジョラの瞳が冷たく光る。
「将来のために、彼らは必死になるでしょう。秘密が漏れたら援助は打ち切り。そう脅しておけば、完璧な口止めになります」
「なるほど……」
「まあ、実際本当にメルベルとあなたの娘なのですから、嘘ではありませんけどね」
アジョラは肩をすくめた。
「彼女が学生のうちに、エリドゥに乗り込んでイザベラを抹殺する。それまでの時間稼ぎです」
アザリアも納得した。
「確かに、金持ちより貧乏人の方が必死になりますね。教官の中にも、生活に困っている者が何人か……」
「彼女たちにニイナを見守らせる。不審な動きがあれば即座に報告。表向きは普通の学校生活、実際は完璧な監視網」
ナブも感心した。
「確かに、巫女の学校自体が天然の要塞ですね」
「そういうことです。では、準備を始めましょう」
アザリアは立ち上がった。すでに頭の中で、協力者のリストを作り始めている。
その頃、ニイナは歌い疲れてベッドに横になっていた。
柔らかいベッド。清潔なシーツ。人間らしい環境。
だがニイナにとって重要なのは、そんなことではなかった。
ここでなら、存分に眠れる。
夢の中の巨人の腕に、好きなだけ会いに行ける。
目を閉じると、すぐに夢が始まった。
大きな手。温かい腹。優しい歌声。
回るモビール。木漏れ日。リュートの音色。
夢は日に日に鮮明になっていく。まるで、失われた記憶が少しずつ蘇るように。
「あったかい……」
寝言を呟きながら、ニイナは幸せそうに微笑んでいた。
夢の中で、巨人が語りかけてくる。
「大きくなったな」
その声は低く、優しい。ニイナは巨人の指にしがみつく。
「離さないで」
「離さないさ。ずっとここにいる」
嘘だと分かっている。夢だと分かっている。
それでも、この温もりだけが真実のように感じられた。
目が覚めると、また歌う。
歌い疲れたら、また眠る。
それがニイナの新しい日常だった。
三日が過ぎた。
「歌、上手くなってるな」
扉の外で、若い戦士が呟いた。
「最初は震えてたのに、今は堂々としてる」
「まるでプロの歌手みたいだ」
年配の戦士も認めざるを得なかった。あの歌声には、人の心を揺さぶる何かがある。
「でも、なんで同じ歌ばかり歌うんだろう」
「さあな。でも……」
二人は顔を見合わせた。
あの歌を聴いていると、なぜか自分の子供の頃を思い出す。
父親に肩車されたこと。
母親に抱きしめられたこと。
もう戻れない、温かい記憶。
ニイナは歌いながら思っていた。
この歌が、自分と巨人を繋ぐ唯一の糸。
歌えば歌うほど、夢が鮮明になる。
夢が鮮明になるほど、現実が遠のいていく。
それでよかった。
現実には、自分の居場所などない。
あるのは、夢の中の巨人の腕だけ。
「明日から学校か……」
窓の外を見ながら、ニイナは呟いた。
学校。また新しい檻。
でも、そこでも歌えるだろうか。
夢を見ることは許されるだろうか。
不安はあった。
だが、楽譜さえあれば大丈夫。
この紙切れさえあれば、巨人とつながっていられる。
ニイナは楽譜を胸に抱いて、また眠りについた。
夢の中で、巨人が優しく歌っている。
その歌声に包まれて、ニイナは安らかに眠った。
明日何が起ころうと、この夢だけは奪われない。




