第四十四話「初めての涙」
ガラスの壁を叩く音が響いた。
今までのような激しい音ではない。ドンドンと壁を破壊しようとする音でもない。何かを知らせるための、控えめな音だった。
見張りの若い戦士が振り返る。
「何だ?」
壁越しに声をかけると、ニイナが小さく呟いた。
「寒い……」
見張りは首を傾げて、自分の周りの空気を確かめた。特に何も感じない。空調は正常に作動している。室温も適切なはずだ。
「風邪でも引いたのかもしれんな」
呟いて、監督に報告することにした。
監督室では、複数の戦士たちが難しい顔で相談していた。
「毛布は?」
「渡していません。危険だと判断されて」
ベテランの戦士が説明する。
「あの力なら、毛布を引き裂いて紐にできる。紐は危険です。用途が多い。攻撃にも使える、自殺にも……何も渡せません」
若い見張りが報告すると、監督は苦い顔をした。
「何もするな」
「それはあまりにも……」
見張りが抗議しかけた。見た目は可憐な少女を閉じ込めて、寝る時には毛布も渡さない。トイレは丸見えの場所。人として、これでいいのか。
良識ある者のみが、ここに出入りできる。だが、その良識が今、自分たちを苦しめていた。
「何も渡すな」
監督は繰り返した。命令は絶対だ。
少女の方を見ると、ベッドに丸くなって震えていた。金髪が乱れ、顔色も悪い。見ていられなくて、看守たちは次々と交代を申し出た。誰も長くは耐えられない。
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たまに様子を見に来たナブに、監視たちは悲鳴を上げた。
「流石に毛布くらいはいいでしょう! どうせ何もできません!」
若い戦士が懇願する。
「本当にそう思うか?」
ナブが冷静に問い返す。
「じゃあ、彼女の部屋の掃除をする時に近づいて、首を紐で絞められて、助かる見込みがあると思うか?」
看守たちは項垂れた。間違いなく絞殺される。それも一瞬で。
「あれが演技の可能性もある」
ナブは厳しく言った。
「虐待するために毛布を渡さないんじゃない。空調はちゃんと機能している。安全のためだ」
だが、内心では揺れていた。本当にこれでいいのか。
アザリアと相談することにした。
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アザリアが様子を見に来た時、彼女は驚きを隠せなかった。
今までと違う。ニイナの表情は困惑と憔悴、そして絶望に満ちていた。本当に震えている。演技ではない。
――人間になりつつある。
アザリアは理解した。あの楽譜を渡して、歌を歌わせたことで、自分の立場を知ったのだ。歌い続けて、自分の立場を考え抜いた。
――絶望とは、望みが絶たれること。
彼女には望みがあるのだ。記憶の中の歌を再現したことで、望みが生まれた。そして、その望みが絶たれていることを知ったのだ。
「話を聞いてみる必要があるわね」
早速、面会室へ向かった。
ニイナは、年上の自分の顔を見た。
――こいつは私のことを、私より知り抜いている。
母のイザベラより、誰よりも。もうそのことは疑いようがない。
「プレゼントは気に入った?」
アザリアが微笑む。その笑顔が確信に満ちている。全て知った上で聞いているのだ。
「あれは何?」
ニイナが聞き返す。
「前に話したわ。あなたの鼻歌の曲。その原曲よ」
「私は……」
ニイナが言いかけて、声を震わせる。
「どこであれを聴いていたの?」
「前に言ったでしょ。メルベルがあなたに歌ったの」
アザリアが肩をすくめる。あまりにも当然のことのように。
「嘘だ!」
ニイナが叫んだ。だが、声に力がない。
アザリアは叫びを無視して、話題を変えた。
「最近寒いそうじゃない」
にこやかに続ける。
「空調の温度はちょうどいいわよ。風邪でも引いたんじゃない? 薬でも差し入れましょうか?」
笑顔が残酷だった。
「本当に寒い……」
ニイナが急に思い出したように、身を縮めて椅子の上で丸まった。
「お願い、寒いのよ……」
目の前の自分に懇願する。プライドも何もかも捨てて。
「だったら、口の聞き方に気をつけなさい」
アザリアが冷たく言う。
「毛布をあげてもいいけど、あれを破ったりしたら、あの紙は破り捨てます」
ニイナの顔が青ざめた。
「嫌だ!」
必死の叫び。
「牢屋に水を撒いたら、紙は滲んで破れる。二度と元には戻らない。いいわね」
ニイナは必死に頷く。
「返事は?」
「はい……」
か細い声で答えた。
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牢屋に毛布が放り込まれた。厚手の、灰色の毛布。
ニイナはすぐにそれにくるまった。まるで繭のように、全身を包み込む。饅頭のような姿になって、ベッドに横たわる。
眠りにつこうとする。あの夢の世界へ戻るために。しかし、照明が明るすぎる。眩しくて眠れない。
「照明を暗くして」
起き上がって頼むが、看守は首を振った。
「ここは完全消灯のできない区画だ。無理だ」
やむを得ず、毛布を頭からかぶる。暗闇を作り出して、歌を口ずさみながら眠ろうとする。
「眠れ、疲れし戦士よ……」
あの本当の自分の世界に行くために。数十分後、ようやく寝息を立て始めた。
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夢の中は、やはりあの巨人の腕の中だった。
――やっと戻って来れた。
安堵が全身を包む。巨人は自分を抱えて、また歌を歌う。
目の前には、回転するものがある。黄色、緑、赤、桃色。丸い動物の形をしたおもちゃが、ゆっくりと回っている。モビールだと、何故か分かる。
陽だまりの中で、巨人の腕に抱かれている。暖かい。全てから守られている完璧な世界。穏やかで、静かで、安全で。硬いはずの巨人の腕は、無限の柔らかさを持っている。
眠くなってくる。瞼が重い。
――いや、だめだ。
必死に抵抗する。
――寝てしまったら、またあの世界に取り残される!
嫌だ、嫌だ、嫌だ。睡魔に逆らって、何とか泣いて暴れる。
「眠りたくない! ここにいたい!」
叫ぶが、巨人はあの歌を歌い始めた。
「やめて! このままでいたいの!」
懇願する。
「その歌を聞いたら、眠ってしまう……」
でも、優しい低い声は止まらない。叫び声は優しく、そして無慈悲に包まれていく。抵抗も、願いも、全て飲み込まれて……
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目が覚めた。
毛布の中。ベッドは硬い。空調の耳障りな機械音が響いている。ゴォォォォという無機質な唸り。
「帰りたい……」
呟く。
「帰りたい……」
もう一度。
初めて、自分の目から水滴が流れてきた。頬を伝い、顎から落ちる。喉がひくひくと震えている。呼吸が乱れる。
――これは、泣いているんだ。
理解した。今まで殺した者たちも、これをしていた。帰りたいと泣いていた。家族の名前を呼んで、母を、父を、子供を呼んで泣いていた。
――私は帰れないんだ。
そう思うと、一層声の震えが止まらなくなった。嗚咽が漏れる。初めての涙。十五年間、一度も流したことのなかった涙が、止まらない。
毛布の中で小さく丸まり、ニイナは泣き続けた。
帰りたい場所がどこなのか、分からない。あの夢の中の巨人が誰なのか、分からない。でも、そこが自分のいるべき場所だということだけは、痛いほど分かった。
監視室のモニターに、毛布の中で震える少女の姿が映っている。




