第四十三話「温もりの記憶」
数日間、ニイナは楽譜と格闘し続けた。
石の床に座り込み、紙を前に置いて、一つ一つの記号を解読していく。旗のついた丸。最初は意味が分からなかったが、試行錯誤を繰り返すうちに法則が見えてきた。
「旗の数が増えると、音が短くなる……」
独り言のように呟く。
「一つなら半分、二つならさらにもう半分……横にある点は、半分の長さを付け足す」
自分の知っているメロディーが解析の鍵だった。断片的に覚えている音程と、楽譜の記号を照らし合わせる。何度も何度も歌い、確認し、修正する。
そしてついに――
「分かった!」
全ての意味を把握した瞬間、体が震えた。完璧なものを手に入れたのだ。暗号を解いたような達成感。いや、それ以上の何か。
牢獄の中に、歌声が響き始めた。
「その剣は炎、その瞳は深淵……」
最初はたどたどしかった音程も、繰り返すうちに確信を持ったものになっていく。数十分歌い、一時間歌い、少し休んでは、また歌い始める。喉が痛くなっても、声が枯れそうになっても、止まらない。
看守たちは、その歌声に複雑な感情を抱いていた。
「綺麗な声だな……」
若い看守が呟く。
「まるで、本物の巫女みたいだ」
別の看守が頷く。寂しさと安堵感が入り混じった、不思議な歌声。危険な暗殺者のはずなのに、今はただの少女に見える。
ナブが見回りに来ると、緩んだ空気を感じ取った。
「気を抜くな」
厳しい口調で警告する。
「歌が上手いからといって、危険な相手なのは何も変わっていない」
だが、看守たちの心には既に変化が生まれていた。歌が上手い女の子。しかも見た目はアザリア様と全く同じ。そんな子を牢屋に閉じ込めておくことに、罪悪感を覚え始めている。
「でも、隊長……」
「でもも何もない。油断は禁物だ」
ナブは釘を刺したが、自分でも揺れている部分があった。あの歌声は、確かに人の心を動かす何かがある。
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ニイナは歌を歌いながら、ふと疑問を抱いた。
――どこでこれを覚えたのだろうか?
小さい頃から知っていた。でも、小さい頃の記憶といえば……
石の壁。冷たく湿った石造りの部屋。手に握らされたナイフ。響き渡る叫び声。宙に舞う首。天井の隅の蜘蛛の巣。床を走り回るネズミ。見開かれて淀んだ瞳。腐った血液の臭い。床に広がる鮮血……
――そこに歌は出てこない。
いつだった? どこで覚えた?
譜面を見つめて考える。紙が汗で湿り、端が破れそうになって慌てた。
「だめ!」
急いで地面に置く。これを失ったら、何もかもが消えてしまう。大切に、慎重に紙をずらして、音符を見つめる。この黒い点の並びの中に、何か大切なものが隠されている気がする。
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監視室では、アザリアとアジョラがモニター越しにその様子を見ていた。
「これは、ちょっと可能性があるわね」
アジョラが少し驚いた様子で言う。
「アザリアのやり方が噛み合ったのね」
聞いた話では、娘をいたぶっているように思えたが、結果的に自分の感情と向き合い始めたように見える。
「あれは狙って?」
若干の間があった。
「当然そうです」
アザリアが澄まして答える。
アジョラは内心で思った。
――多分違うわね。いや、絶対にただいじめてただけね。
言えないことではあるが、さすが世界を滅ぼす微睡の魔王になる可能性があった女だ。自分の息子の嫁なのだが、ものすごいいじめっ子だな、と苦笑する。
「これで、メルベルの腕の中にいたことを思い出してくれるといいんだけど」
希望を込めて言うアジョラ。
「無理でしょう」
アザリアが即座に否定する。
「ニイナから聞き出した彼女の受けていた教育は、凄惨、凄絶、残酷。普通の育ち方じゃありません」
指を組んで、冷静に分析を続ける。
「少し人間らしい片鱗が見えたというだけで、たったあれだけ。紙をいくつか渡して、すぐに人間に戻れるわけはありません」
アジョラはため息をついた。
「息子が、たまに言うのよ。『ニイナはいつ出れるんでしょうか』とね」
目を瞑る。
「メルベルが可哀想で仕方がないの」
沈黙が流れる。それから、アジョラが思いついたように言った。
「じゃあ、目の前でメルベルが演奏してみるとか!」
「やめてください」
アザリアが即座に却下する。
「メルベルが目の前に来たら、ガラスにへばりついて喚き散らすんじゃないですか?『もう一度戦え』とか何とか言いそうです」
苦い表情を浮かべる。
「メルベルが寝込みますよ。また」
アジョラは額に手を当てて、さらに大きくため息をついた。
「難しいわね……」
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その夜、ニイナは歌を口ずさみながら眠りについた。
「眠れ、疲れし戦士よ……お前の戦いは終わった……」
いつの間にか、意識が沈んでいく。
そして、夢を見た。
大きな手だった。自分の何倍もある、見上げるような巨大な生き物。温かくて、優しい何か。
小さな自分は、それをよじ登り、その生き物に体当たりをした。遊んでいるのか、甘えているのか、自分でも分からない。
大きな手が自分を抱き上げる。軽々と持ち上げられ、腹の上に置かれた。柔らかくて、温かい場所。
目の前には木の板。そして太めの糸が並んでいる。リュートだ、と何故か分かる。
大きな手が糸を弾く。指は硬く、皺が寄っている。職人の手。戦士の手。でも、その硬質な質感の指に触れると、それが異常に柔らかく感じた。矛盾した感触。優しさと強さが同居している。
振動音が響く。
――あの曲だ。
自分の上から、その生き物の声が聞こえてきた。低い、深い声。自分の腹の中で、じんわりと振動している。生き物の腹が呼吸で揺れて、自分も一緒に上下する。
「ああ、心地いい……」
夢の中の小さな自分が呟く。
「ああ、暖かい……」
眠くなってきた。陽だまりの中にいるような、絶対的な安心感。守られている。愛されている。そんな感覚。
夢の中で眠ると――
目が覚めた。
冷たい壁に取り付けられた簡素なベッドで、体を丸めて震えていた。
「寒い……」
呟く。寒さなど慣れていたはずなのに。エリドゥの凍てつく冬も、石牢の冷たさも、全て耐えてきた。なのに今は、本当に寒い。
空調の機械音が耳障りだった。ゴォォという低い唸り。さっきまでの優しい振動音とは全く違う、無機質な音。
耳を塞いだ。顔をベッドに押し付けて、必死に目を閉じる。
――もう一度。
何とか、あの夢の続きを見ようとした。
――もう一度、あの夢を。
あの大きな手を。あの温かさを。あの安心感を。
でも、夢は二度と来なかった。
だが、現実は容赦なく彼女を引き戻した。
冷たい石の壁。錆びた鉄格子。薄汚れた天井。全てが無機質で、生命を拒絶するような空間。ここには温もりのかけらもない。
「違う……」
ニイナは首を振った。
「ここじゃない。私がいるべき場所は、ここじゃない」
必死に目を閉じる。もう一度、あの夢の世界へ戻ろうとする。あの巨人の腕の中へ。あの温かさの中へ。あの歌が響く場所へ。
現実を否定したかった。この冷たい牢獄が真実だなんて、認めたくない。あの夢こそが本当で、今この瞬間が悪夢なのだと、そう信じたかった。
ベッドに爪を立てる。布団を頭から被り、小さく体を丸める。胎児のような格好で、必死に意識を夢の世界へ向けようとする。
「戻して……」
誰にともなく呟く。
「あそこに、戻して……」
でも、無情にも朝の光が、透明な壁を通して牢獄を照らし始めた。夢は終わり、現実が始まる。逃げ場のない、冷たい現実が。




