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第四十二話「記憶の旋律」



牢獄の冷たい石床に座り、ニイナは狭い空間を見回していた。何もない。ただ壁と、透明な檻と、わずかな食事の跡だけ。体が鈍っていくのを感じる。筋肉が衰え、反射が鈍る。戦士として致命的だ。


腕立て伏せでもしようかと体を動かそうとした時、あの声が響いた。


「聞いたわよ」


振り返ると、透明な壁の向こうに、自分と同じ顔の女が立っていた。アザリア。産んだと主張する女。


「そんなことをしてたら、外に出るのが遅くなるでしょうね」


その顔は本気だった。冷たく、計算された表情。自分と同じ顔なのに、その瞳には自分への関心など微塵もない。


――この女の関心は別にある。


ニイナは理解していた。あの男、メルベルへの狂信的な何か。それは、自分がイザベラに、母に持っている感情と同じ。全ては愛する者のため。この女の行動は、全てあの男が喜ぶため。


腕立て伏せはできない。体がどんどん弱くなっていく。筋肉が落ち、持久力が失われる。どうすればいい? 焦りがイライラに変わり、それが怒りへと……


##


監視室で、ナブはアザリアに進言していた。


「牢の中での運動は、緊張の緩和にも悪くはないことです。そのくらいは……」


「それで?」


アザリアが冷たく遮った。


「腕立て伏せをさせてどうするの? 建前で話さないで、ナブ」


振り返り、真っ直ぐにナブを見つめる。


「体を鍛えさせて、また脱走の力を蓄えさせるの? また巫女を襲わせる?」


言葉が鋭く突き刺さる。


「そろそろ理解しなさい。見た目は私だけど、あれは違う生き物。殺人機械」


一呼吸置いて、静かに付け加える。


「それを私に言わせないで」


ナブはショックを受けた。アザリア様がここまで冷徹に、自分の娘を……いや、これが現実なのか。


「緊張を緩和させる方法はある。もう少し頭を働かせて」


「どうしろと言うんですか?」


ナブが少しムッとして聞き返す。


アザリアは小さくため息をついた。


「普段、他に何をしているの?」


「特には何も……座ってじっとしているだけです」


「何もないの?」


アザリアが首を傾げる。その仕草さえ、計算されているように見える。


「何も……」


ナブが思い出そうとする。


「ああ、鼻歌を歌って座っているくらいで……」


「してるじゃない!」


アザリアの顔が急に明るくなった。


「何をです?」


「鼻歌よ! 何の歌なのか聞き出しておいて!」


その日のうちに、見張りが透明なガラスの檻にマイクを設置した。小さな集音装置。最新の魔法技術を使った盗聴器具。設置の様子を、ニイナは無表情で見ていた。何をされても、もう驚かない。全ては、あの女の掌の上。


##


監視室にマイクからの音が流れ始めた。かすかな呼吸音、衣擦れの音、そして……


「これです」


ナブが音量を上げる。低く、か細い鼻歌が聞こえてきた。メロディーは単調で、同じフレーズを何度も繰り返している。


「何でしょうか、これ? 聞き覚えがないですね」


若い職員が首を傾げる。


「エリドゥで聞かされた曲? ルカヴィの……」


「なるほど」


アザリアがすぐに事情を察した。そして、意外そうに呟く。


「ちょっと意外」


「どうしたんですか?」


ナブが心配そうに聞く。


「今まで散々獣のように思ってたし、一生檻の中だと思ってたけど」


アザリアが複雑な表情を浮かべる。


「案外、何とかなるかも」


「どういうことですか?」


「これはメルベルがニイナに歌ってた曲よ」


衝撃的な事実が告げられた。


「エクリスの作った曲なんだけど……ほら、前にあなたが広めた曲」


「まさか……」


「詩人たちが別の曲に編曲して、ほとんど面影がないけど、これはあれの原曲よ」


アザリアが確信を持って言う。


「十三年前の記憶があるんだわ」


ナブはすぐに耳をマイクに近づけた。確かに、どこか聞き覚えがある。そういえば、昔遊びに行った時、小さなニイナがメルベルの膝の上で、この歌を聴いていたような……あの幸せだった頃の記憶が、かすかに蘇る。


「ちょっと風向きが変わってきたわ」


アザリアが立ち上がる。


「話を少しさせて」


##


再び、アザリアはニイナの独房の前に立った。


ニイナは身構えた。また来た。自分と同じ顔の女。今、全てがこの女の手の上にある。自分が何をして、何をしてはいけないのか。どうすればいい? どうすればここから逃げ出せる? 必死に考えるが、答えは出ない。


「今日はちょっとしたプレゼントを持ってきたわ」


アザリアが紙の束を取り出した。何枚もの紙。そこには奇妙な記号が並んでいる。


「これ、何かわかる?」


差し出された紙を、ニイナは凝視した。五本の線。その上に黒い丸が続いている。意味が分からない。だが、その下には……


――文字!


文字の方は分かった。自分が唯一知っている、あの歌の全文だ。断片的にしか思い出せなかった歌詞が、ここには全て書いてある。


『孤独な戦士の子守唄』


父を殺したあの男を讃える歌。なぜか好きな歌。理由は分からないが、心が落ち着く歌。


アザリアが、その歌を歌い始めた。


「その剣は炎、その瞳は深淵……」


美しい声だった。自分と同じ声のはずなのに、全く違って聞こえる。優しく、温かく、まるで本当の子守唄のように。


ニイナはじっと聞いていた。記憶の奥底で、何かが蠢く。遠い昔、誰かがこの歌を……でも、思い出せない。


歌が終わると、ニイナは呟いた。


「この歌は……有名なのか?」


「残念ながら、そうでもないわ」


アザリアが肩をすくめる。


「有名な編曲もあるけどね。酒場で演奏されているのは、いわばパチモノ。これは原曲よ」


「これが……」


ニイナの目が見開かれた。何もない独房の中に、自分が知っている、ほとんど唯一の役に立たないものがある。


「音符の読み方は、まあ、自分で考えなさい」


そう言い残して、アザリアは立ち去った。


##


牢屋に戻ったニイナは、すぐに紙を広げた。


――全文と、その音程を表したものがここにある!


解析を始める。この五本の線には見覚えがある。酒場で食料を買う時に見た、あの大きな楽器――ピアノの上に乗っていた紙。演奏者はこれを見て弾いていた。


――上下に連続している黒い丸は、単純に音の高低。


――横に連続しているのは、音の繋がりと間隔を示している。


しかし、よく分からない記号がたくさんある。丸の中が白いもの、黒いもの。棒が上に伸びているもの、下に伸びているもの。旗のような印がついているもの。これらは何を意味するのか?


自分の知っている断片的な歌詞と、それに合う音程を口ずさむ。


「眠れ、疲れし戦士よ……」


どこがどれに合致するのか、必死に考える。この部分の音符は……ここか? いや、違う。もっと高い音のはず。


時間を忘れて、紙と格闘する。これは暗号解読のようなもの。自分は得意だ。本を読んで剣技を習得したように、これも必ず理解できるはず。


「お前の戦いは……終わった……」


少しずつ、音符と歌詞の関係が見えてくる。黒い丸は長い音、白い丸は短い音? いや、逆か? 旗のようなものは、もっと細かい音の動き?


独房の中で、一人の少女が必死に楽譜を解読していた。それは、十三年前に失われた記憶への、小さな扉だった。


夜が更けても、ニイナは紙から目を離さなかった。これが何の役に立つのか分からない。でも、なぜか夢中になっていた。まるで、大切な何かを取り戻そうとしているかのように。


監視室では、マイクから聞こえてくる小さな歌声を、ナブとアザリアが黙って聞いていた。


「本当に、何とかなるかもしれないな」


ナブが呟く。


「かもね」


アザリアが小さく微笑んだ。それは、母親の顔だった。

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