第四十一話「親たちの嘘」
朝の光が神殿の廊下に差し込んでいた。メルベルは重い足取りで、ナブの執務室へと向かった。妻と母から、娘への面会は絶対に禁止されている。理由は分かっていた。冷静でいられるはずがない。
――もし目の前で娘が苦しんでいたら。
頭の中で、不穏な想像が渦巻く。牢屋の鉄格子を素手でへし折り、娘を抱きかかえて逃げ出す自分。馬を奪い、国境を越えて、どこか遠い場所で静かに暮らす。娘に剣を教え、普通の生活を……
「馬鹿な考えだ」
自分で呟いて、首を振る。そんなことをすれば、どれだけの人に迷惑がかかるか。アザリアも、アジョラも、ナブも、みんなを裏切ることになる。理性では分かっている。
だが、冷たい石の床に、妻と全く同じ顔をした娘が横たわっている姿を想像すると、胸が締め付けられた。あの小さな体が、鎖に繋がれて……
「メルベル」
ナブが廊下の向こうから声をかけてきた。いつもの人懐っこい笑顔。だが、その奥には心配の色が見える。
「ニイナのことか?」
単刀直入に聞いてくる。メルベルは頷いた。
「どうなってる?」
ナブは少し考えてから、正直に答えた。
「案外落ち着いてる。少し不安定なこともあるが、食事もしっかり食べてるし、最近は特に大人しい」
書類を脇に抱えながら、歩き始める。メルベルもそれに付いていく。
「場合によっては、もう少しプライバシーのある場所に移すことも可能かもしれない。普通の部屋とまではいかないが、今よりはましな環境に」
「本当か?」
メルベルの顔が少し明るくなる。
「ああ。そのくらいになったら、お前も冷静に会えるかもしれない」
「そうか……」
返事はしたものの、内心では落胆していた。やはり今すぐは会わせてくれないのか。肩が少し落ちる。
ナブは廊下の窓から外を眺めながら、ぽつりと言った。
「たまにアザリア様が面会に来るんだが」
「アザリアが?」
意外だった。あの妻が、娘に会いに行っているとは。
「ちょっと意外なんだが、彼女が来た後、どんどん言うことを聞くようになるんだ」
ナブが苦笑いを浮かべる。
「やり方はちょっと……変わってるがな」
「何をしてるんだ?」
メルベルが身を乗り出して聞く。ナブは言いにくそうに口ごもった。精神的に追い詰めているとか、手加減の話で打ちのめしているとか、そんなことは言えない。
「まあ、二、三分ちょっと話すだけだ。親子の会話というか……」
言葉を濁してから、付け加える。
「顔だけじゃなくて、内面も似てるんだろうな。だから、何を言えば効くか分かるんだろう」
その話を聞いて、メルベルの表情が明るくなった。
――アザリアが何かしてくれている。
あの妻が動いてくれているなら、きっと大丈夫だ。今まで何度も、不可能を可能にしてきた女だ。ニイナに改善が見られるなら、未来は明るい。自分の人生の道標だった妻なら、この厳しい状況からも何とか逆転してみせてくれるのではないか。
「みんなに迷惑をかけるな。いつもすまない、ナブ」
メルベルが深く頭を下げる。
ナブはかなり微妙な顔をした。十三年育てた息子が、たった一ヶ月で全部目の前の男に塗り替えられている。その事実が、奇妙な嫉妬の渦を生んでいた。
「いや、いいんだ。俺にできることがあったら、何でも言ってくれ」
それでも、友のためなら何でもする。それがナブという男だった。
メルベルは少し元気を取り戻したようだった。そういえば、と思い出したように言う。
「ガレスのやつに、稽古の続きをつけてもいいか?」
「いや、今はやめてくれ」
ナブが即座に断った。
「士官のための試験が控えてるからな。今は勉強の方を優先させてやりたい」
嘘だった。試験などまだ先の話。自分の中で暴れ回る奇妙なプライドが、そう言わせた。息子を取られたくない、という小さな抵抗。
「そうか……じゃあ仕方ないな」
メルベルが残念そうに言う。それから、何か思いついたように。
「そういえば、いや、ちょっと気になるんだが」
「何だ?」
「あいつの巫女はどうするんだ? アルマにするのか?」
その言葉に、ナブは固まった。
「それは!」
言いかけて、言葉に詰まる。
――兄妹として育った。だが、血は繋がっていない。
本当のことを言うべきか。ガレスはメルベルとアザリアの息子で、アルマは自分とリーナの娘。いつかは言わなければならない。だが、今言うべきか? 黙っていた方がいいのか?
巫女とガードの関係は、多くが結婚に至る。子供を作る関係になることも多い。アルマとガレスが?
――何か間違っているような気もする。でも、すごく正しいような気もする。
血の繋がりがない以上、問題はない。むしろ理想的かもしれない。しかし、兄妹として育った二人が……倒錯した話のような気もする。
「考えたことなかったな……」
ナブが呟く。
メルベルも自分で言ったことを反芻して、何か違和感を覚えた。
「ちょっとおかしいか?」
「まあ、そうかもしれない」
ナブが曖昧に答える。それから、ふと本音が漏れた。
「でも、俺はいいと思ったんだがな」
「ん?」
「俺の息子とお前の娘がそうなってくれたら、俺とお前も親戚だ。俺はありがたいんだがな」
素直な言葉だった。複雑な事情を抜きにすれば、理想的な関係かもしれない。
ナブは深いため息をついた。
「本当のことを言うには、イザベラを何とかしないと。ガレスにも本当のことは言えないんだ。話はそこからだ」
「そうだな」
メルベルが頷く。
「ナブ、俺はいつでも戦う準備ができてるぞ」
拳を握りしめる。最後の戦いへの決意は固い。
「分かってる。じゃあ、また」
二人は別れた。
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昼になり、メルベルは母との約束を思い出した。アジョラとの昼食。最近は、こうして母と過ごす時間が増えていた。昔と違って、特に急ぐ仕事もない。ぷらぷらと、まるで隠居した老人のような日々。
高級な料理店の個室。アジョラは既に待っていた。窓から差し込む光が、母の銀髪を美しく照らしている。
「遅くなってすみません、母さん」
「いいのよ。座って」
テーブルには既に料理が並んでいた。前菜のサラダ、温かいスープ、そしてメインの肉料理。昔と違って、メルベルのテーブルマナーはかなり改善されていた。もう、手づかみで肉を齧ることもない。ナイフとフォークを正しく使い、ナプキンで口を拭く。普通の人の食事。
「ナブと話してきたんです」
メルベルが切り出した。
「ニイナのことで」
アジョラの表情が少し曇る。
「もしかしたら、普通の環境に移せるかもしれないって」
希望に満ちた声で続ける。
「アザリアが面会に行ってくれてるみたいで、改善が見られるそうです」
アジョラは悲しそうな笑顔を浮かべた。息子を悲しませまいと、精一杯の笑顔。
「きっと全て良くなるわ。あなたのおかげよ」
優しく微笑む。だが、心の中では別のことを考えていた。
――アザリアから聞いている。
あの娘は、普通の生活など望めない。せいぜい、矯正をして普通の人のフリをするのが精一杯だろう。人を殺すことに慣れすぎた心は、もう元には戻らない。
でも、そんなことを息子に言って何になる? これ以上の心労をかけて、何の意味がある?
「美味しいわね、このスープ」
アジョラが話題を変える。
「ええ、本当に」
メルベルが頷く。親子の穏やかな時間が流れる。
アジョラは、スープをすすりながら、息子の横顔を見つめていた。
――可愛い息子。偉大な息子。
ギシュガルを倒し、英雄と呼ばれる男。でも、母親にとっては、いつまでも小さな子供のまま。守ってやりたい。これ以上、苦しませたくない。
「メルベル」
「はい?」
「あなたは十分頑張ったわ。もう少し、自分を大切にしなさい」
「母さん……」
「約束して。無理はしないって」
アジョラの瞳に、深い愛情と心配が宿っていた。
「はい、約束します」
メルベルが頷く。でも、その約束が守られるかどうか、二人とも分かっていた。
食事は続いた。親子の会話は他愛もないものばかり。天気のこと、街の噂話、新しくできた店のこと。重い話題は避けて、ただ穏やかな時間を過ごす。
でも、二人の心の奥には、同じ不安が渦巻いていた。
エリドゥへの道。イザベラとの対決。そして、ニイナの未来。




