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第四十話「崩壊する世界」



石牢の冷たい床に座り込み、ニイナは屈辱に震えていた。石膏で固められた左腕が重く、まるで自分の体の一部ではないかのようだった。


だが肉体の苦痛より、頭の中で渦巻く思考の方が彼女を苦しめていた。あの女――私を産んだと言う女。母親ではない。私と同じ顔をした、私の分身のような何か。あの冷たい笑顔、私を見透かすような瞳。まるで鏡を見ているようで、吐き気がする。


――私の母はイザベラだ。イザベラ以外にいない。


記憶を辿る。最果ての岬、切り立った崖の上に建つ石造りの砦。潮風が常に吹き付け、波の音が絶えることのない場所。そこで母は私に本を与えた。戦うための知識を。古い羊皮紙に書かれた剣術の極意、人体の急所、毒の調合法。文字を学び、言語を覚え、そして……


――初めて人を殺したのは、五歳の時だった。


朧げな記憶が蘇る。若い女性だったような気がする。栗色の髪をしていた。何か怖かったような……泣いていたような。でも、もう顔も声も思い出せない。


母がナイフを渡した。象牙の柄の、小さな短刀。子供の手にはちょうどいい大きさだった。


「刺しなさい、ニイナ」


イザベラの声は優しかった。まるで、花に水をやるように言うかのように。


少し悩んだ。女は縛られていて、鞭で打たれた跡が背中に無数にあった。目が合った。助けて、と唇が動いた気がした。でも、母の笑顔を見たくて、刺した。


肋骨の間から、心臓に向けて。本で読んだ通りに。


女は大きな声を上げて、すぐに動かなくなった。血が、思ったより多く流れた。自分の小さな手が、真っ赤に染まった。今思えば、あれは誰かの母親だったのかもしれない。誰かの娘だったのかもしれない。


――その後、石の壁に囲まれた部屋に閉じ込められた。


何日も、何週間も。いや、もしかしたら何ヶ月だったかもしれない。時間の感覚が失われていく。わずかな食事と水。黒パンと薄い粥。暗闇の中で一人。ネズミが走り回る音だけが聞こえる。恐怖と孤独に押しつぶされそうになった。声を出しても、誰も来ない。泣いても、叫んでも、壁が音を吸い込んでしまう。


そして、限界を迎えた時、母が笑顔で現れて、私を抱きしめてくれた。


「よくやったわ、ニイナ。あなたは強い子。私の誇り」


温かい腕。香水の匂い。それだけで、全ての苦痛が報われた気がした。イザベラの笑顔。それだけが、私の世界の全てだった。


徐々に外に出されるようになった。太陽が眩しすぎて、最初は目が開けられなかった。人がたくさんいることを知った。街道を行く商人、巡礼者、傭兵。母は言った。


「あの男を殺しなさい。理由は要らない。ただ殺すの」


幼い私は知恵を絞った。疲れたふりをして近づいた。転んで泣いてみせた。相手は優しい商人だった。水をくれて、パンまで分けてくれた。その晩、彼が寝込んだ隙に、首を切った。


――後ろから、密かに、音もなく。


彼は私に優しくしてくれたのに。でも、母が喜ぶなら、それでよかった。


母が連れてきた人間同士が戦っているのを見た。剣技というものがあることを知った。美しくて、残酷で、魅力的だった。本を読まされ、自分で考え始めた。なぜこの角度で切るのか、なぜこの構えを取るのか。


最初は苦戦した。相手は大人の戦士。私はまだ七歳だった。でも、本当に最初だけ。すぐに相手の動きが読めるようになった。呼吸のリズム、重心の移動、筋肉の緊張。全てが手に取るように分かった。そして、殺せるようになった。


八歳の時には、訓練された兵士を倒せるようになっていた。十歳で、小隊長クラス。十二歳で、精鋭と呼ばれる者たちも。


永遠にそれを繰り返した。朝起きて、訓練して、殺して、また訓練。私は強くなった。何にも動じない心と、圧倒的な強さを手に入れた。感情は必要ない。ただ、母の期待に応えればいい。


――私に勝てる者はいなかった。この十五年間、ずっと。


「隊長」と呼ばれる髭面の大男を連れてきた時のことを覚えている。母は言った。


「勝ったら、彼の部下たちを解放してあげる。負けたら、全員処刑」


男は必死だった。仲間のために戦った。泣きながら私に向かってきた。それでも、私の方が強かった。彼の剣技は粗く、隙だらけだった。喉を切り裂いて終わり。部下たちも、順番に全員……解放? もちろん嘘。全員、私の練習台になった。


しかし。


――たった数十秒。なぜあの数十秒で、こんなに心を乱されたのか?


メルベルとの戦い。夕暮れの光の中での対峙。完璧だったはずの私の技が、通用しなかった。いや、通用したはずだ。肩に剣を突き立てた。でも、その後……


私はなぜあの男に負けた? いや、負けてない。焚火の灰を使った卑怯な手段。いや、負けた。完敗だった。手加減? 嘘だ。でも、今思えば動きが確かにおかしかったような……峰打ちばかり。なぜ殺さなかった? いや、気の迷いだ。あの女は本当のことを言っているのか?


思考が無限ループする。一瞬で千の考えが頭を駆け巡り、答えは出ず、そしてまた最初に戻る。ぐるぐると、壊れた歯車のように。


――私はあの剣技を全て理解したはずなのに。


「嘘だ!」


気がつけば、狭い牢の中で立ち上がって叫んでいた。石膏の腕が壁にぶつかり、鈍い音を立てる。慌てて座り直す。看守に見られていたら、また何か言われる。いや、もう見られているかもしれない。透明な壁の向こうで、戦士たちがこちらを見ている。哀れみと恐怖の混じった目で。


――間違いない。あの女は私だ。


私だから、私のことが分かるんだ。私の急所を、私の弱点を、私が何を考えているかまで、全て見抜いている。あの笑顔の裏で、私を解剖しているのだ。


――では、母親とは何だ?


イザベラは母なのか? 血の繋がりはない。でも、育ててくれた。私を強くしてくれた。いや、母親だ。私には母親はイザベラしかいない。でも、あの女は「攫われた」と言った。十三年前に。だったら私は何だ? 誰の子だ? いや違う、十五年が嘘だったわけがない。この傷が、この技が、この記憶が、全て嘘だったわけがない。


ふと、男の姿が脳裏に浮かんだ。メルベル・ボム。最初に会った時、靴屋での出会い。優しい顔をしていた。あの男は私を殺せる機会が、記憶を辿れば七回はあったはず。闇夜の大通りでの戦い。全て峰打ちで、骨を折られた。痛かった。でも、死ななかった。


何と言っていた? あの月夜の決闘の時。


『お前の父親は、この俺だ』


馬鹿な。ありえない。


――私の父親はギシュガル。偉大な男のはず。千年を生きた最強の戦士。


偉大な男は、あの男に殺された。母はそう言った。だから仇を討て、と。それが私の使命だと。


イザベラは母? 母はあの女? 一瞬で私を看破した、年上の私。同じ顔、同じ瞳、同じ髪。あれが母親? 嘘だ……でも、血の繋がりは感じた。認めたくないが、感じてしまった。


灰で目潰しを食らった時、あの男は何でもできたはず。首を落とすことも、心臓を貫くことも。でも、手首を切り落とし、私を締め上げただけ。首を折ることもできたのに、気絶させただけ。なぜ?


――いや、違う。私の父親は……


今までの人生が嘘だったなんて、そんなはずがない。私はギシュガルの娘で、イザベラの愛娘で、最強の戦士になる運命で……


永遠に、思考が続いた。答えの出ない問いが、頭の中で踊り狂う。


##



ナブは腕を組んで、戦士たちの報告を聞いていた。


「時折、独り言を言ったり、急に立ち上がったりしますが、思ったより大人しいですね」


若い戦士が報告する。まだ二十歳そこそこだろうか。この任務に就いてから、すっかり顔が青白くなっている。


「ただ、食事を取りません。もう三日です。そろそろ限界では……」


別の戦士が心配そうに付け加える。


「水は少し飲んでいるようですが、このままでは……」


「体を洗うのも危険です」


ベテランらしい戦士が苦い顔で言った。


「先日、近づいた新人が、法力を封じる手錠と足枷をしているにも関わらず、掴みかかられて怪我をしました。鼻を折られて、今も医務室です」


「小さいが、猛獣だな」


ナブが深いため息をついた。


「裸締めを決めようとしても、あの俊敏さでは……果たして効果があるかどうか」


「下手に近づけば、噛みつかれるかもしれません」


誰かが冗談めかして言ったが、誰も笑わなかった。実際、その可能性は十分にあった。


そこへ、扉が開いた。


「どう?」


アザリアが軽い調子で入ってくる。まるで散歩でもしているかのような気軽さだった。ナブは慌てて立ち上がり、周りの戦士たちも直立不動の姿勢を取る。


「アザリア様、困ります」


ナブは意を決して言った。


「この前のようなことをされては……」


今回はきつく視線を向ける。前回の面会での、娘への精神的な攻撃を思い出したのだ。あれは教育ではない。虐待だ。いや、弄んだだけだ。


アザリアは肩をすくめた。その仕草さえ優雅だった。


「私の娘に、ちょっと叱っただけよ。内容も別に問題ない。私の夫の方が、ニイナより強かった。それを言っただけ」


平然とした顔で言い放つ。まるで天気の話でもしているかのように。


「事実でしょう? 何か問題でもある?」


ナブは苦い顔をした。確かに事実だ。だが、あの言い方は……


「今回は何を?」


諦めたように聞く。


「ご飯食べないんですって?」


アザリアが小首を傾げる。


「その通りですが……もう三日になります」


「あら、それは大変」


全く大変そうでない口調で言う。


「私が一言言えば、食べるわよ。何でも食べるようになる。がつがつと、まるで餓えた狼のように」


にっこりと微笑む。


「ちょっと一分くらいかしら? どうする? このまま餓死させる?」


「それは……」


「あなたの心配も減るんじゃない?」


アザリアが畳みかける。


「メルベルにニイナがご飯を食べないなんて言ったら、あの人心配しちゃうでしょうし。また憔悴して倒れるかもしれない。それより、冷静な私の方がいいんじゃない?」


そして、牢獄の方を顎で示す。


「あの人がこれ見たら、牢屋を突き破って娘を抱きしめるかもよ? それとも自分を責めて、また寝込むか。どちらがいい?」


――この人は……


ナブは内心で呆れながらも、確かに一理あると思った。メルベルの精神状態は、まだ完全に回復していない。これ以上の負担は避けたい。


「では、五分。お願いします」


「一分でいいのに」


アザリアは笑いながら、牢屋の前に立った。カツカツと靴音を響かせて、透明な壁の前で立ち止まる。


ニイナはアザリアを見て、目を見開いた。また来た。この女が。自分と同じ顔をした悪魔が。


「どう? いい子にしてた~?」


アザリアが手を振る。


「ママが来たわよ~? 会いたかった~?」


その調子は、まるで幼稚園児に話しかけるようだった。周りで見ている戦士たちは、この反応が正しいのか判断しかねて、顔を見合わせた。これが母親の態度なのか? それとも何か別の……


「あ~、お残ししてる~」


アザリアが置かれた食事のトレイを見て言った。パンも肉も、手つかずのまま固くなっている。


「悪い子ねぇ~。ママ、悲しいわ~」


にっこりと笑うアザリア。その笑顔は、天使のようで悪魔のようだった。光の加減で、表情が変わって見える。


「嘘だ……」


ニイナが呻く。憎悪と驚愕を混ぜた表情。まだ混乱から抜け出せていない。


「何が?」


アザリアが無邪気に聞き返す。まるで本当に分からないかのように、首を傾げてみせる。


「私は負けてない……私は正しかったはずだ。技は完璧だった。理解していた。全て理解していたんだ。嘘を言うな」


言葉が次々とあふれ出る。


「ああ、そのこと?」


アザリアは楽しそうに言った。むしろ、待っていたかのように。


「何度も言ってるけど、あなたの才能なんて大したことはないわ」


瞬間、ニイナが透明な檻の壁にへばりついた。


ドン! ドン! ドン!


壁を叩く音が響く。石膏の腕も使って、全身で壁にぶつかる。睨みつける目は、まさに獣そのものだった。兵士たちが慌てて武器に手をかけた。強化された壁にヒビが入るのではないかと思うほどの衝撃。


「落ち着きなさい」


アザリアは涼しい顔で言った。


「別に、大したことは言ってないわ。誰もが通る挫折の道よ」


壁越しに、まるで教師が生徒に教えるように。


「自分の才能が通用しないと知った時、人は二つの道を選ぶの。他の道を探すか、現実を受け入れて下方修正するか」


指を立てて、講義を続ける。


「でも、まだいいじゃない。負けたのがあの人なのだから。メルベル・ボム」


その名前を、わざとゆっくりと発音する。


「伝説の戦士、偉大な剣士、最強の法力使い。ギシュガルを倒した英雄。負けても恥じゃない」


そして、残酷な笑みを浮かべる。


「まあ、いい勝負をする子もいるけど? 十三歳でもね。あなたは特別じゃなかった。ただそれだけよ」


笑顔は崩さない。むしろ、より輝かせる。


「これも母親の務めかしらね~。甘やかしてばかりじゃいけないわよね。褒めて伸ばすのにも限度はある。限界を知ることも大事な教育」


「誰だ……」


ニイナが低い声で言った。壁から離れ、震える声で。


「ん?」


「私より強いのは誰だ? あの男以外で私より強いのは……」


アザリアは振り返り、指を向けた。考える素振りもせずに、即座に。


「とりあえず、あの人かしら?」


指の先にいたのは、ナブだった。


「えっ!?」


ナブが仰天した。なぜ俺? ニイナが恐ろしい目で――アザリアと全く同じ瞳で、ナブを凝視した。野生の猛獣のような、いや、それ以上に危険な何かを宿した目。殺意? いや、もっと別の、値踏みするような視線。


「メルベルのお友達のナブさん」


アザリアが楽しそうに説明を続ける。


「メルベルがいろんな頼み事をするくらい立派な人。信頼できる相棒。あなたなんて、たぶん十秒持たないわね」


「アザリア様!」


ナブが抗議しようとしたが、アザリアは無視して続ける。


「あとは~、メルベルの部下の皆さんも。精鋭部隊の面々。ああ、私もそう」


手をかざすと、聖火の炎が現れた。六つの聖火が生み出す、圧倒的な炎。部屋全体が明るくなり、熱気が広がる。


「あなたなんて私にかかれば、パリパリの姿焼きの出来上がりよ」


ニイナはその炎を見た。圧倒的だった。自分の三つの聖火など、蝋燭の火のようなもの。何倍どころではない。次元が違う。予想を遥かに超えていた。


――これも彼女にとって衝撃だった。


自分こそが最強の聖火を宿した人間だと思っていた。イザベラもそう言っていた。「あなたは特別」だと。自分以上の人間など、見たことがなかった。いや、見せられなかったのか?


「才能がないなら、ないなりに、いろんな人に教わった方がいいわよ」


アザリアが優しく、そして残酷に言う。


「頭を下げて、教えてくださいって。プライドなんて捨てて。それが私から十三年越しの教育よ」


さらに追い討ちをかける。


「いきなりメルベルと遊んでもらえて勘違いしたわね。天狗になっちゃった?」


くすりと笑う。


「メルベルにとって、あなたは可愛い娘。本気を出したくても出せないの。手加減に次ぐ手加減。それでもコテンパンもいいところだけどね」


炎を消して、腕を組む。


「メルベルは、似たようなルカヴィなんて、数えきれないくらい殺してるわ。あなたより強い化け物を、山ほど。朝飯前に」


そして、急に話題を変える。


「そういうわけで、ご飯はちゃんと食べることね」


母親のような、そうでないような口調で。


「空腹抗議なんてしても、出してはもらえないわ。むしろ牢屋暮らしが伸びるだけ。ここで一生過ごす? それとも、少しは外に出たい?」


身を乗り出して、囁くように。


「できないなりにできた筋肉が、どんどん衰えていくわよ? 三日も食べなければ、もう取り戻せないかも。育ち盛りなのに、ご飯を抜いて体を維持できるの?」


さらに付け加える。


「手の傷の治りも遅くなるかもね~。下手したら腐って落ちちゃうかも?」


ニイナははっとした。


置かれていた食事に、初めて気がついたような顔をした。もう冷めきっているが、食べ物は食べ物だ。慌てて手づかみで口に運び始める。がつがつと、まるで獣のように。パンを千切り、肉を齧る。味など分からない。ただ、栄養を摂取する。


「そうそう」


アザリアが満足そうに頷く。


「いい子ね。ちゃんと食べれば、強くなれる。まあ、私には永遠に勝てないけど」


最後に小さく毒を吐く。


「いい子にしてたら、もっと美味しいもの持ってきてあげるから。みんなの言うことをちゃんと聞くのよ。反抗なんてしても無駄。あなたには選択肢なんてないの。従うか、朽ちるか。二つに一つ」


そして、明るい声で締めくくる。


「ママが必ず出してあげるからね~。いつか、ね」


振り返って、ナブに向かって。


「じゃあ、あとはよろしくね~。ちゃんと食べさせてあげて」


軽やかに立ち去っていく。その後ろ姿は、まるで上機嫌な貴婦人のよう。


ナブと戦士たちは、顔を見合わせた。誰も言葉が出ない。


「……なんて人だ」


ようやく、誰かが呟いた。


別の戦士が震え声で言う。


「聖女になるには、ある種の……その……」


言葉を濁す。


ナブが苦い顔で結論づけた。


「口を慎め」


戦士たちは、恐ろしいものを見るような目で、アザリアが去った方向を見つめていた。


牢の中では、ニイナがまだ必死に食事を詰め込んでいた。涙が出そうになる。屈辱で。怒りで。そして、理解できない感情で。


生きるために。強くなるために。そして、いつか――


いつか、何を?


分からない。もう、何も分からない。


ただ、食べ続けた。

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