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第四話「神殿への帰還」



馬車の中で、メルベルは何度目かの『孤独な戦士の子守歌』を歌い始めた。弦を爪弾く指はもう疲れ切っていたが、ナブとリーナの要求は止まらない。


この歌は酒場ではほとんど人気がなかった。客たちは笑える歌、軽快な歌を好む。だから、これは本来、家族だけに聞かせるつもりで覚えた歌だった。しかし、なぜかナブとリーナは妙に気に入ったらしい。


歌が進むにつれ、二人の表情が柔らかくなっていく。特に「名誉は地に落ちた」「それでも彼は微笑んだ、家路を歩みながら」の部分で、ナブは目頭を押さえた。隣でリーナも静かに涙を拭っている。


「いい歌だ」ナブが呟いた。声が震えている。「戦士が家に帰って安寧を得る……名誉を失っても、家族の元へ帰る。これは……」


「これ、明らかにメルベルさんの歌ですよね」リーナも感動した様子で頷く。「エクリスは、メルベルさんのことをよく理解していたんですね」


「もう一度歌ってくれ」


「え、また?」


メルベルの声はもう枯れかけている。


「特に最後の部分を。頼む」


ナブの真剣な表情に、メルベルは溜息をつきながらまた歌い始めた。喉が焼けるように痛い。もう何時間歌い続けただろうか。朝から今まで、ずっとだ。


歌っている最中でも、ナブとリーナは小声で感想を言い合っていた。


「エクリスの奴、こんな歌を残したとは」ナブが感心する。「奴はメルベルの相当なファンだったんだな。いや、理解者というべきか」


「これを都の吟遊詩人たちに歌わせましょう」リーナが目を輝かせて提案した。「金を握らせて、あちこちで歌ってもらえば、きっと民衆の認識も変わります」


「それだ!」ナブが膝を打った。「メルベルの噂を解決するのにうってつけだ。エクリスも、まさか自分の歌がこんな使われ方をするとは思わなかっただろうな」


二人は興奮気味に計画を練り始める。メルベルはまるで召使いの詩人のように、ただ歌い続けるしかなかった。


「歌の宣伝というのは馬鹿にできない」ナブがきつい笑顔をメルベルに向けた。「どこかの誰かさんが広めたおかげで、メルベルは臆病者と評判になったからな」


「客が聞きたい歌を歌うのは当然だろ」メルベルが憮然として言うと、リーナが鋭い視線を向けた。


「もう一度、最初から」


「はい……」


都に着いた頃には、メルベルの声は完全に掠れていた。水を飲んでも、喉の痛みは取れない。


「ほら、これを被れ」


ナブが大きな帽子と、度の入っていない眼鏡を渡した。帽子は顔の半分を隠すほど大きい。


「今はまだ誤解が解けてないからな。石を投げられると面倒だ。最悪、暴動になりかねない」


「お前は神殿に着くまでは、俺たちのお付きの吟遊詩人だ」リーナが疲れた声で付け加えた。「弁明を聞くまでは、絶対にばれないようにしておけ」


街を歩き始めると、すぐに人々がナブとリーナの姿を認めて声をかけてきた。


「ナブ様!リーナ様!」


「今日もお美しい!」


「千年王を倒した英雄!」


「神殿の誇り!」


華やかな言葉が飛び交う。しかし、その中に混じって、小さな声も聞こえてくる。


「本当にナブ様が倒したのかしら」


「最近、変な噂もあるし」


そんな囁きに、ナブの顔が引きつる。


「おや、吟遊詩人をお連れですか?」


太った商人が興味深そうに聞いてきた。


「珍しいですな。何か演奏してもらえませんか?」


「そうだ!」別の市民が声を上げた。「『臆病者メルベルの大脱走』を聞きたい!あの歌、最高に面白いんだ!」


メルベルは反射的にリュートを構えかけたが、背後から恐ろしい殺気を感じて手を止めた。振り返ると、ナブとリーナが鬼のような形相で睨んでいる。


しかし、市民たちの期待の目は変えられない。メルベルは仕方なく、景気良く歌い始めた。


歌が終わると、市民たちは大喜びで拍手をした。


「最高だ!」


「やっぱりこの歌は面白い!」


しかし、ナブとリーナの顔は真っ青を通り越して、真っ黒になっていた。


市民たちが去った後、二人は恐ろしい笑顔でメルベルを見た。


「リーナ」ナブが静かに言った。「これから条例を作って、あの歌を歌った奴は罰金を払うことにしよう」


「そうですね」リーナも恐ろしい笑顔で頷く。「金貨一枚。いえ、二枚でもいいかもしれません」


「歌うだけじゃなくて、聞いた奴からも取るか」


「それは名案です」


メルベルは冷や汗を流しながら、二人の後をついて歩いた。


神殿の前に着くと、ナブが深く息を吐いた。


「ふーっ」


長い溜息だった。まるで、これから戦場に向かうような顔だ。


リーナも若干げっそりとした表情で、大きな扉を見上げている。


「今日で最後だよ」ナブが彼女の肩に手を置いて励ます。「あの会議室に行けば、すべて誤解が解けるんだ。もう少しの辛抱だ」


「そうですね……もう少し……」


メルベルは二人を見て、本当に悪いことをしたと思った。こんなに苦労をかけていたとは。


神殿の中に入ると、空気が急に重くなった。


新人たちは明るい笑顔で敬礼し、おべっかを使う。


「ナブ様!今日もお疲れ様です!」


「リーナ様、今日も素敵です!」


「ご指導、ありがとうございます!」


しかし、廊下の奥に立つベテランたちの視線は、まるで氷の刃のようだった。


「ちっ」


誰かが大きく舌打ちをした。


「詩人なんか連れて何考えてるんだ」


「遊び半分か、これだから成り上がりは」


「アジョラ様なら、こんなことは」


聞こえよがしの悪口が飛び交う。リーナは背を丸めて、まるで小さくなろうとするかのように歩いた。その姿があまりに痛々しくて、メルベルは思わず声をかけそうになった。


ナブがメルベルを睨んだ。


「これが今の神殿だ」


その声は苦々しい。額に青筋が浮かんでいる。


「正直、まだ敵の信奉者は残っているからな。俺が連中から仲間のように見られているのは、最高に愉快だったよ。毎日が祭りさ」


「そ、そう……それはなんとも……」


メルベルは何も言えず、ただ後ろについていくしかなかった。


幹部たちが集められている広間に入ると、雰囲気はさらに悪化した。


大きな円卓を囲んで、神殿の幹部たちが座っている。皆、露骨にやる気のない顔をしていた。


「めんどくさ」


誰かが小声で呟いた。


「あーあ、アジョラ様の時代はよかったわよね」


年配の巫女が溜息をつく。


「メルベル様もいたし、活気があった」


「今じゃ、偽物の英雄と、その取り巻きの支配だもんな」


あからさまな悪口が飛び交う。


「おい、今日はあいつ来てないのか?」


「誰が?」


「ゴードンだよ。あいつ、最近さぼりまくりだろ」


「俺も次からそうしようかな。どうせ意味ないし」


完全に規律が崩壊している。


ナブとリーナが入ってくると、幹部たちは大きく、これ見よがしに溜息をついた。愛想笑いを向けるのは、元から評判の悪かった日和見主義者たちだけだ。


「皆さん」


ナブが重い声で口を開いた。


「今日集まってもらったのは他でもない。やっと、皆さんの懸念、私への不信任案に対する回答の準備が整いました」


「またか」


ベテラン戦士が露骨に嫌な顔をした。


「もう聞き飽きたよ、その言い訳」


「そんなことしてないで、もっとまともに仕事したらどうです?」


巫女の一人が鼻で笑った。


「メルベル様を探すとか、やることあるでしょう」


「諸君ら、罷免されたいのか?」


ナブの信奉者の一人が威圧的に言う。


「不敬罪にあたるぞ」


「ああ、上等だよ」


ベテラン戦士の幹部、バルガスが立ち上がった。筋骨隆々の大男だ。


「お前とは一度決闘したいと思っていた。偽物の英雄さんよ」


今にも剣を抜きそうな雰囲気だ。広間の空気が一触即発の緊張に包まれる。


「では」


ナブが静かに合図をした。


メルベルがおずおずと前に出る。大きな帽子と眼鏡を外した。


最初、幹部たちはきょとんとしていた。


「誰だ、こいつ」


「吟遊詩人が何の用だ」


しかし、次の瞬間――


「め、メルベル様!?」


全員が一斉に立ち上がった。椅子が倒れる音が響く。


「本当に!?」


「帰ってきた!メルベル様が帰ってきた!」


幹部たちが殺到してきて、メルベルの手を取り始める。感極まって涙を流す者もいる。


「みんな、久しぶりだな」


メルベルは困ったような愛想笑いを浮かべた。


「メルベル様、今の神殿は最悪です!」


「ナブの奴が威張り散らして!」


「毎日が地獄でした!」


「やっと、やっと帰ってきてくださった!」


口々に不満と喜びをぶちまける。敵の信奉者と呼ばれていた者たちは、顔を青ざめさせて後ずさりしている。


メルベルは手を上げて、皆を静めた。


「待て、待て。落ち着け」


広間が静まり返った。


「実は、俺がナブに責任を押し付けたのは、ちょっと事情があったんだ」


「事情?」


「ナブには秘密を守ってもらうために、憎まれ役をしてもらった」


幹部たちの顔が困惑に変わる。


「ギシュガルを倒した直後は、まだ敵の暗殺者がたくさんいた。世論も悪かったから、身を隠して、落ち着くまではアザリアとアジョラ様にも隠れてもらうように手筈をしておいたんだ」


メルベルは淡々と嘘を並べた。しかし、幹部たちは真剣に聞いている。


「ナブとリーナには、俺の身代わりになってもらった。悪役を演じてもらったんだ」


「そ、そんな……」


バルガスが呆然とした。


「今はその問題も落ち着いたから、ナブやリーナに申し訳ないと思って出てきた。二人には、本当に苦労をかけた」


幹部たちは一斉にナブとリーナの方を見た。顔が真っ赤になっている者、俯いている者、様々だ。


「あ、あの……ナブ様……」


バルガスが口ごもった。さっきまでの威勢はどこへやら、しょんぼりとした子供のような顔をしている。


「その……申し訳ありませんでした」


他の幹部たちも、次々と頭を下げ始めた。


「誤解していました……」


「ひどいことを言って……」


「本当に、申し訳ございません」


皆、恥ずかしそうに、申し訳なさそうに謝罪する。特に激しく批判していた者ほど、深く頭を下げていた。


ナブとリーナは顔を見合わせた。そして、同時に深い溜息をついた。安堵の溜息だった。


「やっと……」リーナが涙ぐむ。「やっとこれで、針の筵から解放される」


「長かった」ナブも目頭を押さえた。「本当に、本当に長かった」



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