第三十九話「父たちの影」
夕暮れの光が、ナブ家の庭を橙色に染めていた。
ガレスは庭の中央に立ち、師匠から貰った剣を抜いた。刀身が夕日を反射して、冷たく輝く。神殿で支給される量産品の直剣とは、明らかに違う。重さ、バランス、そして何より、剣が放つ気配が違った。
「カット一……」
呟きながら、右上から左下への斬撃を放つ。空気を切る音が、静かな庭に響く。
「カット二……」
今度は逆方向。左上から右下へ。メルベル先生が教えてくれた動きを、一つ一つ確認するように振るっていく。七つの斬撃を終えると、今度は防御の型に移る。ティアース、クォート、セコンド、プリム……受け流しから反撃への流れを、何度も何度も繰り返す。
二階の窓から、ナブがその姿を眺めていた。
「はあ……」
思わずため息が漏れる。あの偉大な友人の小型版。まるでメルベルの動きをそのまま縮小したような、そんな剣の振り方だった。
――十三年だぞ、十三年。
赤ん坊の頃から育ててきた。文字を教え、剣を教え、正しい生き方を教えてきた。メルベルを出し抜いてやろうと、内心では思っていた。実の父親にはなれずとも、それ以上の父親になってやろうと。
――なのに、たった一週間で……
完敗だった。息子の心は、完全にメルベルに奪われてしまった。寂しさと悔しさが、胸の奥でくすぶる。
ふと、メルベルの憔悴した顔を思い出した。娘の手を切り落とし、首を絞めた男。もし自分が同じ立場だったら?
――アルマの手を……
想像して、すぐに首を振った。絶対に無理だ。できるわけがない。そもそも、話に聞く限りでは、ニイナと戦ったら普通に負けそうだ。戦闘力でも、精神力でも、何もかも負けている気がする。
「うーん……」
男として、父親として、戦士として。色々な意味で負けた気分に浸っていると、背後で扉が開いた。
「お茶、入れたわよ」
リーナが、湯気の立つカップを持ってきてくれた。いつもの紅茶。砂糖は二つ。完璧な温度。
「ありがとう」
二人で並んで、息子の練習を眺める。リーナも、ガレスの変化に気づいていた。背筋が伸び、動きに迷いがない。まるで別人のようだった。
「兄さんがあ!」
突然、アルマが部屋に飛び込んできた。頬を膨らませて、明らかに不機嫌そうだ。手には、流行りのボードゲームが握られている。
「全然遊んでくれなくなったんだけど!」
ドンと音を立てて、ゲームを机に置く。明らかに「遊んで」という無言の要求だった。
「これ、今学校で流行ってるらしいんだけどさあ、友達とやるのに練習したいから付き合ってって言って、うんって言ったのに!」
アルマが窓の外を指差す。
「明日になったら忘れてるの! 朝から晩まであれよ!」
庭では、ガレスが見えない敵と戦っているかのように、剣を振り続けていた。汗が飛び散り、息が上がっているのに、止まる気配がない。
「じゃあ、私と遊びましょう」
リーナが優しく言って、ゲームの箱を開け始めた。アルマは少し機嫌を直して、ルールを説明し始める。
ナブは、まだ窓の外を見ていた。息子の姿が、どんどん遠くなっていくような気がして。
「ねえ、お父さん」
アルマが突然言った。
「別に仕方ないじゃない」
「え?」
振り返ると、娘が真っ直ぐにこちらを見ていた。その瞳は、母親譲りの鋭さを持っている。
「兄さんの話じゃ、メルベルさんって大酒飲みで、書類仕事は苦手で、字もろくに書けなかったんでしょ?」
アルマがゲームのコマを並べながら、さらりと続ける。
「お父さんは総合力なら勝ってるよ。圧勝。単に腕っ節で勝てないってだけじゃない」
ナブの口が、ぽかんと開いた。
「あの頃の年頃の男の子って、何か夢見がちなのよ。メルベルさんは、その夢見がちな妄想そのままの感じの人じゃん。カッコいい師匠、強い戦士、そういうの」
アルマがサイコロを振りながら、淡々と分析を続ける。
「大人になったら、ちゃんとお父さんの方がすごいってわかるわ。現実見えてくるもん」
「ぶふっ!」
リーナが紅茶を吹き出した。慌ててハンカチで口を押さえるが、肩が震えている。明らかに笑いをこらえている。
ナブは、ものすごく傷ついた。十三歳の娘に、ここまで見透かされているとは。しかも慰められている。これは慰めなのか? それとも追い討ちなのか?
「いや、私はそんなこと思ってない!」
慌てて否定し、紅茶を一気飲みした。熱い。舌が焼けそうだ。
「あ、けど!」
アルマが思い出したように言った。
「メルベルさん、リュートがすごく上手いらしいわね! そこは得点高そう!」
「リュート?」
ナブが聞き返す。
「そうそう! 兄さんが言ってた。酒場で『臆病メルベルの大脱走』歌ったんだって! 本人が!」
「ああ、そういえば……」
リーナが笑いながら思い出す。
「メルベルさん、逃げ回ってる時に吟遊詩人に化けてましたもんね。エクリスって偽名使って」
「え?! なにそれ?!」
アルマの目がキラキラと輝いた。
「どういうこと?! あの人が吟遊詩人?!」
「メルベルさん、しばらくみんなの勘違いで、すごく悪者扱いされてた時があったの」
リーナが説明を始める。
「だから偽名を使って、あちこちでリュート演奏してお金を稼いでしのいでた時があったのよ。結構人気だったらしいわよ」
「うわあ! 想像できない!」
アルマが大興奮している。
「あの怖そうな人が、リュート弾いて歌うの?! ギャップすごい!」
「今度来たら、何か歌ってもらおうよ!」
母娘が盛り上がっている横で、ナブは密かに考えていた。
――楽器か……何も弾けないな、俺。
剣術でも負け、カリスマでも負け、今度は芸術面でも負けるのか。いや、待て。今からでも遅くない。何か習おう。リュートは難しそうだから、笛とか……いや、太鼓なら……。
「お父さん、何考えてるの?」
アルマが不思議そうに見上げてくる。
「いや、何でもない」
「まさか、楽器習おうとか思ってない?」
娘の洞察力は恐ろしい。
「思ってない!」
「絶対思ってる」
「思ってない!」
親子の言い合いを聞きながら、リーナは窓の外を見た。ガレスはまだ練習を続けている。夕闇が迫る中、一心不乱に剣を振る少年の姿は、確かにメルベルの影を宿していた。
でも、とリーナは思う。この子の本当の父親は、ここで楽器を習おうか悩んでいる、この不器用で真面目な男なのだ。いつか、ガレスもそれに気づく日が来るだろう。
「じゃあ、ゲーム始めるわよ」
アルマがサイコロを転がした。コロコロと音を立てて、六が出た。
「やった! 最高!」
少女の歓声が、温かい家庭の空気を作り出していく。
外では、ガレスの剣が最後の一振りを終えた。汗だくになりながら、剣を鞘に納める。振り返ると、家の窓に明かりが灯っている。家族の笑い声が、かすかに聞こえてきた。
「明日も頑張ろう」
少年は呟いて、家に向かって歩き始めた。




