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第三十八話「最後の戦いへ」



神殿の休憩室は薄暗く、窓から差し込む午後の光だけが部屋を照らしていた。メルベルは簡素な寝台に腰かけ、アジョラの手を握ったまま、虚ろな目で床を見つめていた。母の温かい手が、彼の大きな手を包み込んでいる。


「メルベル、顔を洗ってきなさい。まだ炭で真っ黒よ」


アジョラの優しい声に、メルベルは力なく頷いた。立ち上がろうとするが、足に力が入らない。娘の首を絞めた時の感触が、まだ両手に残っている。あの小さな体が必死に抵抗した記憶が、彼を苦しめ続けていた。


扉が開き、アザリアが入ってきた。夫の憔悴した姿を見て、胸が締め付けられる。あの強いメルベルが、まるで抜け殻のようになっている。


――あの澄ました顔の小娘のせいで。


先ほど叱りつけてやったことで、多少は気が晴れた。だが、夫の苦しみを思うと、まだ足りない気がした。


アザリアは静かにメルベルの隣に座り、その広い肩をそっと抱いた。


「ナブが言ってたわ。社会復帰はまだ可能だって」


声を明るくして、希望を込めて話し始める。


「私も話したけど、なんとかなるかもしれない。聞いたでしょう? あの子、巫女の浄化作業をして逃走資金を稼いでいたのよ。ちゃんと仕事はできるってことじゃない」


メルベルがゆっくりと顔を上げた。妻の顔を見る。


そこには、いつもの天使のような微笑みがあった。十五年前、全てを失いかけた時も、この笑顔に救われた。あの頃の旅、人生に疲れていた俺に微笑んでくれたあの笑顔。いつもこの笑顔に救われてきた。


「しっかりと教えれば、なんとかなるわ。また家族になれるのよ」


その言葉に、メルベルの目に少しだけ光が戻った。そうだ、アザリアがそう言うなら、きっと何とかなる。今まで何度も、不可能を可能にしてきたじゃないか。


「そうだな……」


掠れた声で、メルベルが呟いた。


「あの子も、きっと……」


アジョラが頷きながら、重要な情報を伝え始めた。


「孫を攫って洗脳した女について、調べがつきました」


メルベルとアザリアが同時に顔を向ける。


「イザベラ・カーカラシカ。ルカヴィの幹部の一人で、あなたが倒したギシュガルの巫女だった女です」


アジョラの声が、静かに響く。


「ギシュガルがまだ人間だった頃から共にいた、いわばギシュガルの妻のような存在。当然、あなたに深い恨みを抱いているでしょう」


メルベルの顔が険しくなった。ギシュガルの妻……だから、ニイナはギシュガルの娘だと信じ込まされていたのか。


「あなたの娘を使って、ギシュガルの仇を討とうとした」


アジョラの分析は冷徹だった。


「彼女にとって完璧な復讐劇です。あなたの存在を否定するための、十三年越しの計画でしたが、何とか阻止できました」


一瞬の沈黙。それから、アジョラの声に鋼のような決意が宿る。


「次は反撃の時です」


部屋の空気が変わった。慰めの時間は終わり、戦いの話が始まる。


「ガレスをナブの息子として育てましたが、イザベラを殺すことができれば、ガレスを家に呼び戻すことができます。本来あるべき姿に戻れるのです」


アザリアが息を呑んだ。ガレスを本当の家族として迎える日が来るかもしれない。メルベルも、息子のことを思い出していた。一週間の訓練で、あんなに成長した息子。もっと教えてやりたいことが、山ほどあった。


「ギシュガルが死んだ今、エリドゥは危険地帯とはいえ、侵入は容易です」


アジョラが地図を思い浮かべながら説明する。


「最後の聖火、エリドゥの聖火を手に入れる時が来ました。攻略戦を、今こそ進めるべきなのです」


メルベルの目が、徐々に生気を取り戻していく。そうだ、まだ終わっていない。最後の戦いが残っている。


「城よりもさらに向こう、最果ての岬に聖火があります」


アジョラの声が続く。


「イザベラは、そこにいます。ニイナも、そこで育てられたのです」


最果ての岬。世界の端。そこで全てが始まり、そこで全てを終わらせる。


メルベルが立ち上がった。まだふらつくが、先ほどよりは力強い。


「もう一度、戦わなければいけないな」


声に、決意が宿り始める。


「今度こそ、最後の戦いだ」


アザリアが夫の手を、ぎゅっと握った。その手は温かく、震えていた。


「でも、まず今日は休みましょう」


優しく、しかし有無を言わせない口調で言う。


「まだまだ準備が必要です。ナブと私たちで準備を進めます」


それから、夫の顔を真っ直ぐ見つめた。


「メルベル、あなたはちゃんと心と体を癒して。お願い」


その瞳には、深い愛情と心配が混じっていた。この男を失いたくない。もう二度と、あんな憔悴した姿を見たくない。


メルベルは妻の手を握り返した。


「分かった。少し、休む」


アジョラも立ち上がり、息子の頭を優しく撫でた。


「よく頑張ったわ。本当に、よく頑張った」


その言葉に、メルベルの目から涙が一筋こぼれた。母の前で泣くなんて、何年ぶりだろう。いや、初めてかもしれない。


「母さん……」


「いいのよ。休みなさい」


三人は、しばらくそのまま寄り添っていた。


窓の外では、夕日が沈み始めていた。あの娘と対峙した時と同じ、赤い光。だが今は、それが希望の色に見えた。


最後の戦い。エリドゥへの道。イザベラとの決着。そして、家族を取り戻す戦い。


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