第三十七話「鏡像の母娘」
神殿の地下、冷たい石造りの刑務所。関係者たちが集まっていた。メルベルは壁に寄りかかり、憔悴しきった顔をしていた。頬はこけ、目の下には深い隈ができている。肩の傷は治療されているが、それ以上に心の傷が深いことは誰の目にも明らかだった。
「手首の接合手術は終わったそうだ」
掠れた声で、メルベルが報告した。
「でも、医者の話では……完全に元通りにはならない。訓練次第では、スプーンくらいは持てるようになるかもしれない、と」
その言葉を言い終えると、メルベルは顔を伏せた。娘の手を切り落とした感触、自分の腕で首を絞めた時の、あの小さな体の必死の抵抗。それが頭から離れない。
アザリアが近づき、そっとメルベルの頭を抱き寄せた。
「いつも辛い思いをさせるわね」
メルベルは無言で、アザリアの背中に手を回した。震える手で、妻にすがりつくように。
アジョラも歩み寄り、息子の体を優しく抱きしめた。
「辛かったわね。あなたは少し休みましょう。顔、まだ炭で真っ黒よ」
「すみません、母さん……」
声が掠れて、ほとんど聞き取れないほどだった。
「いいから。とにかく休みなさい」
アジョラは息子に付き添って、休憩室へと向かった。メルベルの足取りは重く、まるで老人のようだった。一歩一歩が、千斤の重さを引きずっているかのようで、アジョラは何度も立ち止まって息子を支えなければならなかった。
残されたアザリアが、ナブに向き直った。
「それで? ニイナは?」
「こちらです」
ナブが案内した先には、透明な強化ガラスで仕切られた独房があった。プライバシーなど一切ない、完全監視下の空間。
そこにいた。
金髪の少女が、壁に背を預けて座っていた。アザリアと全く同じ顔、同じ瞳、同じ髪の色。まるで鏡を見ているようだった。
瞬間、アザリアは息が詰まるような感覚に襲われた。血の繋がりを、これほど強く感じたことはなかった。それは親しみなどではない。もっと原始的で、もっと本能的な何か。まるで自分の内臓を、自分の魂の一部を、目の前で見ているような感覚だった。
――これは私だ。
そう思った瞬間、強烈な嫌悪感が湧き上がった。そこにいるのは、かつての自分だった。メルベルに出会う前の、全てを諦めて自暴自棄になっていた頃の自分。家が破産し、希望を失い、世界を憎んでいたあの頃の自分が、まるで時間が止まったかのように、そのまま目の前にいる。
――私があの時のまま成長したら、こうなっていた。
少女の瞳には、同じ冷たさがあった。同じ鋭さ、同じ観察眼、そして同じように何かが欠落している。それは共感だった。他者への思いやりが、決定的に欠けていた。
少女の左腕は石膏でがっちりと固定され、手首には特殊な手錠がはめられている。法力を封じるための、最高級の拘束具。足枷も同様だった。まるで猛獣を封じ込めているかのような、過剰なまでの警戒態勢。
「ナブ」
アザリアが唐突に言った。
「あれって、どうやってお尻拭くの?」
我が娘の無残な姿を前にしての、あまりにも無関心な一言。ナブは目を丸くした。
「さ、さあ……女囚のことはあまり……」
リーナも困惑の表情を浮かべていた。だが、アザリアは本当に興味がなかった。一目見て分かった。自分と同じ優れた素質、鋭い観察眼、そして何かが決定的に欠落した表情。
独房の中で、ニイナは必死に頭を働かせていた。
――自分は勝っていた。間違いなく、あの男に勝っていた。
肩に剣を突き立てた。予知夢の通りだった。だから、これは負けではない。負けていない。ただ、焚火の灰という卑怯な手を使われただけだ。
いや、違う。戦いに卑怯などない。自分が甘かった。環境を利用することも、戦術の一つ。それを見落とした自分の未熟さが敗因だ。認めたくない。だが、認めなければ次はない。
――自分は完璧だ。
そう信じて疑わなかった。絶対に最後は自分の才能と執念の前に、全員が死ぬはずだと信じている。今まではそうだった。これからもそうだ。今回は、ただ一時的な挫折。準備不足。それだけのことだ。
――もう一度やれば、必ず勝てる。
初めての敗北。いや、これは敗北ではない。人生で誰にも負けたことがなかった。全員が自分の前で死んでいった。母のイザベラからも「あなたに勝てる者はいない」と言われ続けてきた。「父の血を引くあなたは、最強の戦士になる運命」だと。
石膏で固められた左手を見つめる。指を動かそうとすると、何も起きない。神経が切断されているのか、それとも接合がうまくいっていないのか。医者は何と言っていた? スプーン? たったスプーンを持つために、どれほどの訓練が必要だと?
――剣は? 剣は握れるのか?
いや、握れなくても構わない。右手がある。片手剣術もある。自分の才能なら、それも習得できるはずだ。
顔が屈辱に歪んだ。喉の奥から、獣のような唸り声が漏れそうになる。だが、これは一時的な感情だ。最後には必ず自分が勝つ。それが運命だから。
「本当に似てますね……」
ナブが呟いた。その声には、ある種の恐れが混じっていた。アザリアの若い頃を知る者として、この相似は不気味でさえあった。
リーナも同じような感想を漏らす。だが彼女の場合は、もっと複雑だった。この娘は、本来ならガレスの姉だ。家族として育つはずだった子供。それが今、籠の中の獣のようになっている。
「そう?」
アザリアは興味なさそうに答えた。だが、内心では激しく動揺していた。あまりにも自分に似すぎている。顔だけではない。その仕草、目の動き、思考のパターンまで。まるで自分のもう一つの可能性を見ているようだった。
「彼女の犯罪歴は不明ですが、少なくとも巫女を一人殺害しています」
ナブが説明を始めた。
「とはいえ、幼少期に攫われたことを考えれば、彼女に責任はない。私はそう思います。今からでも社会復帰を目指すために、更生施設に入れるべきです」
アザリアは娘を見て、すぐに理解した。あの顔は絶対に言うことを聞かない。自分と同じ負けず嫌い。人格破綻者。信じる者にしか心を開かない。
――自分がああならなかったのは、メルベルに出会ったからだ。
あの大きな手が、壊れかけていた自分を支えてくれた。優しくて、不器用で、でも誰よりも強い男。彼がいなければ、自分も確実に壊れていた。人を殺すことに何の躊躇もない、この獣のような娘と同じになっていた。
アザリアは、この目の前の少女がどう考え、どう過ごしたのか想像した。メルベルの話では、一週間前とは全く違う、きわどい勝負だったという。おそらく、逃げ回っている間、考え抜いたのだろう。メルベルの姿を思い出し、影を虚空に懸命に映し出して、自分の才能の全てを動員して、乏しい環境で努力したに違いない。
――怪我の苦痛にも負けずに。
折れた骨、裂けた肉、流れる血。それらを抱えながら、この少女は諦めなかった。強靭な精神力。何をしても動じない。何があっても諦めない。
だからこそ、許せない。メルベルの憔悴した顔が脳裏に浮かぶ。あの優しい夫を、ここまで追い詰めた存在。自分の分身のような存在が、夫を苦しめている。
――夫の献身を受けて、なんて生意気な。
この澄ました顔を崩してやりたい。身の程を思い知らせてやりたい。アザリアの中で、普段は抑えている暗い感情が湧き上がってくる。この少女は、自分から生まれた。間違いない。だからこそ、どうやって傷つければいいか、手に取るように分かる。
「気をつけて。しばらく落ち着くまでは、檻から出さないで」
警告の言葉には、実感がこもっていた。この娘は危険だ。自分と同じ血が流れているからこそ、分かる。追い詰められた時、何をするか分からない。
それから、ふと思いついたように付け加えた。いや、思いついたのではない。この瞬間を待っていたのだ。この自分の分身のような存在を、完膚なきまでに破壊する機会を。
「ちょっとだけ、話してもいい?」
ナブは慎重に頷いた。横でリーナが心配そうな顔をしている。
「アザリア様、危険では……」
「大丈夫よ。私の娘だもの」
その言葉に、氷のような感情が混じっていた。誇りでも愛情でもない。獲物を見つけた捕食者の喜び。アザリアの中に眠る嗜虐性が、ゆっくりと目を覚まし始めていた。
囚人の移動が始まった。完全武装の戦士たちが、特殊な手錠と足枷をつけた少女を、武器を構えながら慎重に移動させる。異様な光景だったが、これでも危険すぎる任務だった。
面会室。机を挟んで、アザリアとニイナが向かい合って座った。
ニイナはアザリアの顔をじっと見つめ、少し考えてから口を開いた。
「私?」
「そうよ」
アザリアは淡々と答えた。
「覚えてないでしょうけど、私はあなたを産んだ女。この顔、分かる? この顔をあなたに分けたの。髪の毛と目玉も」
自分の目を指差しながら、まるで物について説明するような口調だった。
ニイナは薄く笑った。
「馬鹿なことを。どこの世界に、娘の腕を切り落とす男親と、屑として見る母親がいる? 私の母親はイザベラ・カーカラシカ。お前じゃない」
「そうよ」
アザリアはあっさりと認めた。
「産んだってだけで、母親じゃない。父親の肩に剣を突き刺したりする娘は、私もいらないわ」
明確な拒絶。ナブとリーナは、この異様な会話に息を呑んでいた。これは母と娘の再会ではない。まるで取引か、交渉のようだった。
「いったい何の用?」
「とはいえ、あなたの運が最悪なのは確か。十三年前、あなたを守れなかった私にも咎はある」
アザリアは事務的に続けた。
「あなたには更生の機会が与えられる。前科者として、しかし運の悪かった者として、今は施設で慎ましい生活をして、社会性が認められれば多少の自由も認められる。その融通をしてあげてもいいわ」
ニイナは「ふうん」と相槌を打ちながら、頭を高速で回転させていた。
――このままでは、あの男への復讐を果たす機会は永遠に失われる。
てっきり処刑が確定していると思っていたが、まだ見込みがあるらしい。ならば、今は従順を装うべきだ。
表情を変え、不安そうな顔を作る。泣きそうな表情まで用意した。
「お母さん……私はどうなるの? 殺されるの?」
アザリアは吐き気がした。まだ虚勢を張るならかわいげがあった。だが、この女の中には打算しかない。プライドも、感情も、何もない。あるのは命令と目的だけ。肉でできた殺戮人形だ。
「そのまま待っていなさい。逃げずに言われたことをこなすの。そうすれば、もう少しましな所に移されるでしょう」
ニイナの内心は歓喜に満ちていた。
――なんと簡単なんだ! まだチャンスがある!
自分は負けていない。次なら勝てる。不意打ちの重要性も学んだ。自分から仕掛けなかった未熟さも克服できる。
アザリアはその内心を瞬時に見抜いた。なぜなら、自分が考えそうなことだからだ。だから、自分が言われたら一番嫌なことを言ってやることにした。
「そうそう」
アザリアが身を乗り出し、囁くような声で言った。
「メルベル、すごーく手加減したそうよ」
にっこりと、天使のような笑顔を浮かべる。
ニイナの演技が崩れ、無表情になった。
「あなたの首を叩き落とすか、最初から隙だらけのあなたの顔が……ほら、私と同じだから、すごく迷ったらしいわ。全然なってなかったって!」
「嘘だ……」
ニイナが無表情のまま呟いた。
「あなたよりも筋のいい子が、いっぱいいる。自分の技が悪用されているのが許せなかったから、仕方なくね」
アザリアは残酷な笑みを浮かべた。
「でも、もうその腕だと剣も握れないでしょ? 父親の精一杯の愛情ってところかしら?」
「嘘だ!」
ニイナが動揺した声で叫んだ。
「全部理解したはずだ! あの動きも! 意図も理解した! 今なら互角のはずだ!」
「十五の女の子が、あの人に勝てるわけないでしょ?」
アザリアは冷たく微笑んだ。その笑みは、まるで自分自身に向けているかのようだった。
「一ヶ月かそこらで根を詰めて、一人で練習して勝てるなら、みんな勝てるわ。あなたとは素質が違うの」
言いながら、アザリアは奇妙な満足感を覚えていた。これは娘への言葉ではない。かつての自分への言葉だ。思い上がっていた自分、世界を見下していた自分への。
「うああああああ!」
ニイナが激しく暴れ始めた。手錠と足枷が金属音を立てる。机が揺れ、椅子が倒れそうになる。その姿を見て、アザリアは確信した。
――ああ、やっぱり私の娘だ。
血の繋がりを、これほど強く感じたことはない。この激情、この屈辱への反応、全てが自分と同じ。まるで十五年前の自分が、そのまま目の前で暴れているような錯覚さえ覚える。
戦士たちが慌てて部屋に入ろうとするが、アザリアは手で制した。
「大丈夫よ。私の娘だから、このくらい当然」
立ち上がり、最後の一撃を放つ。これも、自分が言われたら一番傷つく言葉だった。
「女の子らしく大人しくしてなさい。女だてらに剣なんて振るって、みっともない。変な親に育てられたものね」
ニイナの絶叫が、面会室に響き渡った。壁が震えるほどの叫び声。それは憎悪と屈辱と、何より理解できない感情の爆発だった。
――なぜだ? なぜこの女の言葉が、こんなに……!
初めて会ったはずの女。母親だと名乗る女。その言葉の一つ一つが、なぜこうも正確に自分の急所を突いてくるのか。まるで自分の内側を全て知っているかのように。
「じゃあ、大人しくしてるのよ。ママがすぐに出してあげるからね」
アザリアは優雅に部屋を出た。だが、扉を閉める瞬間、振り返ることはしなかった。もし振り返れば、そこに見えるのは娘ではなく、過去の自分だと分かっていたから。笑顔で出てきた彼女を、ナブとリーナは恐ろしいものを見るような目で見つめていた。まるで微睡の魔王を見ているかのように。
「じゃあ、メルベルの様子を見てくるわ」
アザリアは何事もなかったかのように言った。
「絶対に逃がさないようにね。色々ありがとう」
そう言い残して、アザリアは立ち去っていった。
面会室では、まだニイナの叫び声が響いていた。




