第三十五話「夕暮れの子守唄」
朝露が草木を濡らす頃、ニイナは祠の前に立っていた。右腕を動かしてみる。まだ完全ではない。わずかな鈍さが残っているが、戦うには支障がない程度まで回復していた。
祠の浄化作業は手慣れたものだった。聖火の力を込めて、澱んだ気を払い、清浄な空間を作り出す。村人たちは遠巻きに見守っている。もぐりの巫女だと分かっていても、正規の巫女の五分の一の報酬で同じ仕事をしてくれるなら文句はない。
「ありがとうございました」
村の代表らしい若い男が、金貨一枚を差し出した。通常なら五枚は取られる仕事だ。だが、ニイナにとって金額など、どうでもよかった。
「お役に立てて何よりです」
冷たい愛想笑いを浮かべて、その場を後にする。振り返ることはなかった。
若い職員は、巫女が見えなくなるまで笑顔で見送った。それから、すぐに建物の中に戻る。彼は真面目な職員だった。連絡を欠かさない、気の利いた男。まだ若いが、上司からの信頼も厚い。
机の引き出しから、一枚の手配書を取り出す。特徴が完全に一致していた。黒髪、若い巫女、削り取られた認識票。間違いない。
通信機を手に取り、静かに報告を入れる。
「こちら第七管区。例の人物と思われる者を確認。現在、南西に向かって移動中」
返答はすぐに来た。
「了解。すぐには動くな。危険人物だ。本部から精鋭を向かわせる」
バビロン周辺の神殿関係者の間では、既に対策が練られていた。普通の戦士では歯が立たない。下手に動けば犠牲者が増えるだけだ。時間はかかるが、確実な方法を取る。凄腕の戦士たちが、静かに網を絞り始めていた。
夕暮れ時、ニイナは夢を見た。
自分が夕日を背に、あの男と対峙している。剣を構え、男の肩に刃を突き立てている自分の姿。鮮明な予知夢だった。
――夕暮れに戦えば、勝てる。
目を覚ますと、既に太陽は西に傾いていた。立ち上がり、北へと足を向ける。何かに導かれるように、足が自然と動いた。
メルベルも夢を見ていた。
廃れたリュートを手に、娘に『孤独な戦士の子守唄』を聞かせている自分。そして、その直後に娘の手首を切り落とす場面。血飛沫、悲鳴、転がる小さな手。
――もう、運命は避けられない。
安宿の裏手に、埃を被ったリュートが転がっていた。弦は錆び、胴には傷がある。だが、音は出る。黙って持ち去り、村から少し離れた街道の脇に腰を下ろした。
倒木に座り、夕日が沈むのを待った。橙色の光が、世界を優しく染めていく。風が止み、鳥の声も消えた。まるで世界が、これから起きることを静かに見守っているかのようだった。
視線を感じた。
振り返ることなく、リュートを持ち上げる。錆びた弦を調律し、前奏を奏で始めた。不協和音が混じるが、構わない。野太い声で、歌い始める。
「その剣は炎、その瞳は深淵……」
茂みの向こうで、ニイナが身を潜めていた。
――隙だらけだ。
剣の柄に手をかける。今なら背後から一撃で仕留められる。ナイフを投げてもいい。どちらにしても、確実に殺せる距離だった。
だが、歌声が耳に入った瞬間、手が止まった。
――この歌……
知っている。誰に教わったわけでもない。でも、知っている。酒場で聞いたことがあるような、ないような。曖昧な記憶の中で、この旋律だけは妙に鮮明だった。
「恐れ逃げまどう、民の叫び声……」
男の声が続く。低く、優しく、どこか懐かしい響きを持った声。なぜだろう。初めて聞くはずなのに、ずっと前から知っているような気がする。
ニイナは無意識に立ち上がった。枯れ枝を踏む音が、静寂を破る。それでも男は歌い続けた。振り返りもせず、ただ夕日に向かって歌っている。
「父の剣は折れ、名誉は地に落ちた……」
近づいていく。一歩、また一歩。剣を抜けば届く距離。でも、手が動かない。ただ、歌を聴いていたかった。
――なぜ、この男がこの歌を?
父を殺した男が、なぜ父を讃える歌を歌うのか。当てつけか。嘲笑か。それとも……
「眠れ、疲れし戦士よ、お前の戦いは終わった……」
最後の一節が、夕闇に溶けていった。メルベルはリュートを置き、ゆっくりと立ち上がる。背中を向けたまま、静かに言った。
「お前に聞かせていた曲だ。十三年前……」
「馬鹿なことを」
ニイナが鼻で笑った。だが、声に力がない。
「またその話?」
メルベルが振り返った。夕日を背に、大きな影が地面に伸びている。その顔は逆光で見えないが、声だけは聞こえた。
「あの時の小さな手……この手のために、何でもしようと思った」
一歩前に出る。ニイナも剣の柄を握り締めた。
「でも、もうその手を守ることはできない」
メルベルが剣を抜いた。刃が夕日を反射して、赤く輝く。
「この街のあちこちに、もう武装した戦士が集まり始めている。お前はもう助からない」
「悪いわね、わざわざ教えてくれて」
ニイナも剣を抜いた。黒い炎が、刀身を包み始める。
「でも私の目的はあなただけ。他の連中なんて、どうでもいいのよ」
二人の間を、冷たい風が吹き抜けた。
「他の剣にかかるくらいなら」
メルベルが構えを取った。鉄嵐流の正式な構え。
「法力銃で撃ち殺されるくらいなら、俺がお前の罪を償ってやろう」
「父を殺しておいて、よく言うわ」
ニイナも構えた。それは、メルベルとほぼ同じ構え。わずかな違いは、彼女なりの改良。
「それ、全部私の台詞よ」
夕日が地平線に触れた。世界が赤く染まる中、父と娘は対峙した。
遠くで、馬の蹄の音が聞こえ始めている。神殿戦士たちが、包囲網を狭めてきているのだろう。でも、二人にとってそんなことは、もうどうでもよかった。
「来い、ニイナ」
父が呼んだ。
「望むところよ、メルベル・ボム」
娘が答えた。
最初に動いたのは、ニイナだった。




