第三十四話「練習台」
月のない夜だった。星明かりだけが街道を照らしている。ニイナは目撃情報を撹乱するため、日没と共に移動を開始していた。右腕の痛みはまだ残っているが、歩くには支障がない。鎖骨の接合も順調に進んでいる。
――あと二日、いや、軽い動きなら今でも。
街道の先に、焚火の明かりが見えた。酒臭い笑い声が風に乗って聞こえてくる。ニイナは足を止めることなく、そのまま進んだ。
男たちは五人いた。薄汚れた革鎧を身に着け、腰には錆びた剣や棍棒をぶら下げている。傭兵崩れか、山賊の類だろう。空になった酒瓶が、焚火の周りに転がっていた。
「おや、こんな時間に巡礼かい?」
リーダー格らしい髭面の男が、にやりと笑った。その視線が、ニイナの巫女服を舐めるように這う。昼間、村の祠で浄化作業をしていた少女だ。報酬の銀貨を持っているはずだ。
「危ないぜ、お嬢ちゃん。こんな夜中に一人で歩くなんてよ」
別の男が立ち上がった。手にしていた酒瓶を地面に投げ捨てる。ガラスが砕ける音が、静かな夜に響いた。
「護衛が必要なんじゃないか?」
「そうそう、俺たちが守ってやるよ」
男たちが次々と立ち上がり、ニイナを取り囲んだ。獲物を狙う野犬のような目。その意図は、あまりにも分かりやすかった。
「なあ、お嬢ちゃん。火を売るよりも、春を売った方が稼げるぜ?」
下卑た笑い声が響く。
「俺たちが買ってやろうか? なあ、みんな」
「おお、それはいいな」
男たちがじりじりと距離を詰める。ガードもいない、か弱い巫女が一人。これほど都合のいい獲物はない。彼らの血が、本能が、欲望が騒いでいた。
ニイナは立ち止まった。月光に照らされた横顔には、何の感情も浮かんでいない。瞳は、まるで人形のように無機質だった。
――こんなこと、何度も経験してきた。
ルカヴィに育てられた十三年間。このような場面は日常茶飯事だった。最初は母のイザベラが処理していた。やがて自分が処理するようになった。男たちの末路は、いつも同じだった。
腕を吊っていた布を、ゆっくりと外す。鎖骨がズキリと痛んだが、表情一つ変えない。
――練習台。
頭の中に浮かんだのは、その言葉だけだった。彼らは敵ですらない。憎しみも、怒りも、恐怖もない。ただの動く藁人形。剣技を試すための、少し貴重な練習台。
「おにいさんたち」
ニイナが初めて口を開いた。鈴を転がすような、澄んだ声。
「ちょっといい?」
振り返りざま、巫女服の裾がふわりと翻った。その一瞬の動きで、全てが決まっていた。
最初の男は、何が起きたか理解する前に、右手首から先を失っていた。ずるりと手が落ち、鈍い音を立てて地面に転がる。
「あ……ああ?」
男が自分の腕を見下ろした時には、ニイナの剣は既に次の軌道を描いていた。
――カット5、右下から左上。でも、もう少し腰を落とした方が……
脇の下から肩にかけて、斜めに切り上げる。血飛沫が月光に煌めいた。男が悲鳴を上げる間もなく、地面に崩れ落ちる。
「て、てめえ!」
残りの男たちが、慌てて武器を抜いた。錆びた剣、欠けた斧、曲がった短刀。どれも手入れの行き届いていない、三流の得物ばかり。
「化け物か!」
「殺せ! 殺しちまえ!」
恐慌状態に陥った男たちが、一斉に襲いかかった。
ニイナは静かに剣を構えた。それは、メルベルが見せた構えとほぼ同じ。わずかな違いは、彼女なりの解釈と工夫。
――受け流して、重心を移動させて、そのまま反撃。
最初の男の剣を、ティアースで受け流す。刃と刃が触れ合う一瞬、相手の力の流れを読み取る。そのまま体を開き、流れるような動きで喉元を切り裂いた。
血が噴き出す。男が喉を押さえて倒れる。だが、ニイナの意識は既に次の相手に向いていた。
――カット2、左上から右下。あの男はもっと肘を引いていた気がする……
斧を振り上げた男の攻撃を、クォートで防ぐ。重い一撃だったが、受け流すことで衝撃を逃がす。返す刀で、男の胸を袈裟懸けに斬った。
「ひっ……」
四人目の男が、腰を抜かして後ずさった。目の前で仲間が次々と倒されていく。まるで舞うような動きで、少女は死を振りまいている。
「ば、化け物……」
男が背を向けて逃げ出そうとした。だが、気がつけば正面にニイナが立っていた。いつ移動したのか、全く分からない。
「さあ」
少女が微笑んだ。それは、子供に勉強を教える教師のような、優しい笑顔だった。
「打ってきて」
男は恐怖に震えながらも、生存本能で剣を振り下ろした。必死の一撃。だが、ニイナにとってそれは、あまりにも遅く、あまりにも単純な動きだった。
――カット7を受けてから、そのまま突き。でも、もっと肘は引いた方が……
剣を受け流し、そのまま流れるような動きで突きに転じる。切っ先が男の喉を浅く切り裂いた。深くはない。だが、確実に致命傷だ。
「がっ……ぐえっ……」
男が喉を押さえて地面に倒れ、のたうち回った。血が気管に流れ込み、溺れるような苦しみが男を襲う。即死ではない。だが、もう助からない。
必死に足掻く男の手が、ニイナの脚を掴もうとした。最後の抵抗か、助けを求める動きか。だが、ニイナはすいっと軽やかに、その手を避けた。まるで地面の石ころを避けるような、何気ない動作。
「浅く、隙を出さないように……」
ニイナは独り言のように呟いた。これは工夫の結果だった。今までは深く突き込んでいた。大きく踏み込み、確実に殺すために。だが、メルベルとの戦いで、それが隙になることを学んだ。深く突き込んだ瞬間、腕を打たれてしまった。
「あの時は、突きが深すぎた」
剣を構え直し、素振りを始める。男がまだ喉を押さえてもがいている横で、淡々と型の練習を繰り返す。
「もっと肘は引いて、でも突きは浅く、すぐに引けるように……」
カット1、カット2、カット3……先ほどの戦いの動きを、一つ一つ検証していく。あの男――メルベルの動きを思い出しながら、自分なりの解釈を加えていく。
「重心の移動も、もっと小さく。大きく動けば、それだけ隙ができる」
のたうち回る男の呻き声が、徐々に弱くなっていく。それでも男は必死に地面を這い、逃げようとしている。だが、ニイナの意識には全く入っていない。彼女にとって、男はもう存在していないも同然だった。
「脚の運びも、もう少し……」
月が雲に隠れ、辺りが闇に包まれた。血の臭いが夜風に乗って流れていく。
やがて、男の呻き声が止んだ。
ニイナは剣を鞘に納めた。地面に散らばる死体を一瞥もせず、何事もなかったかのように歩き始める。
――まだ足りない。
頭の中で、メルベルとの戦いを反芻する。あの圧倒的な強さ、洗練された動き、無駄のない剣技。父の仇と信じる男の技術を、完全に自分のものにするまで、あと少し。
――次は、完璧に。
夜道を歩きながら、ニイナは無意識に口ずさんだ。
「眠れ、疲れし戦士よ……お前の戦いは終わった……」
『孤独な戦士の子守唄』の一節。なぜこの歌を知っているのか、誰が教えてくれたのか、思い出せない。でも、この歌を口ずさむと、なぜか心が落ち着く。
――おかしいな。父を殺した男を讃える歌なのに。
疑問は一瞬で消えた。考えても仕方がない。今は、ただ強くなることだけを考えればいい。
朝になれば、街道に転がる死体が発見されるだろう。山賊の仲間割れか、獣に襲われたか、適当な理由をつけて処理されるはずだ。どのみち、カタギでない連中の死など、誰も真剣に調べはしない。
ニイナは夜の闇に溶け込むように、北へと歩いていった。その足取りは、まだ完全ではないが、確実に回復に向かっている。
あと二日。
いや、もしかしたら明日にでも。




