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第三十三話「別離の剣」



朝霧が街道に立ち込める中、一台の馬車がバビロン近郊の宿場に到着した。御者台から降り立ったナブの表情は、いつになく複雑だった。後ろからリーナとアルマが続く。


「兄さん!」


アルマが真っ先に駆け寄ろうとしたが、その足が止まった。わずか一週間。たったそれだけの時間で、兄の佇まいが変わっていた。


ガレスは宿の前に立っていた。顔と腕のあちこちに青痣と切り傷の痕。しかし背筋はまっすぐに伸び、瞳には以前にはなかった光が宿っている。それは、自分の道を見つけた者だけが持つ輝きだった。


「ガレス……」


リーナが息子の名を呼んだ。学校を卒業してから巡礼の旅に出て、わずか二ヶ月。その短い期間で、息子はこんなにも変わってしまった。母親として、痣だらけの顔を見れば胸が痛む。けれど同時に、その瞳の輝きを見れば、何か大切なものを掴んだのだということも分かる。


「母さん」


ガレスが微笑んだ。その笑顔は、以前のような子供っぽさが薄れ、少し大人びて見えた。


ナブは黙って息子を見つめていた。十三年間、自分が育てた息子。文字を教え、剣を教え、正しい道を歩めるよう導いてきたつもりだった。だが今、目の前に立つ少年を見て、心の奥で静かに認めざるを得なかった。


――結局は、勝てなかったな。


血の繋がりというものか、それとも魂の相性というものか。たった一週間で、メルベルはガレスにこれほどの変化をもたらした。それは悔しさではなく、ある種の諦念に近い感情だった。


「よく頑張ったな」


ナブがそう言って、ガレスの肩に手を置いた。その手の下で、少年の筋肉が以前より引き締まっているのを感じる。


メルベルが宿から出てきた。その手には、布に包まれた長い何かを持っている。


「ガレス」


師匠が弟子の名を呼んだ。ガレスが振り返ると、メルベルは布包みを差し出した。


「これを持っていけ」


布を解くと、そこには一振りの曲刀があった。柄にはナックルガード、鞘には鉄嵐流の紋章が刻まれている。メルベルが使っているものと全く同じ形状の、真新しい剣だった。


「先生、これは……」


「訓練を怠るなよ」


メルベルはそう言うと、不意にガレスを抱き寄せた。大きな腕が、まだ細い少年の体を包み込む。一瞬のことだった。すぐに離れたメルベルの顔に、複雑な表情が浮かんでは消えた。


「毎日素振り百回。型の練習も忘れるな。次に会う時、なまっていたら容赦しないぞ」


「はい!」


ガレスが力強く答えた。その声に、もう迷いはなかった。


リーナが近寄ってきて、息子を優しく抱きしめた。痣だらけの顔を見上げ、そっと頬に手を当てる。


「痛むでしょう?」


「大丈夫だよ、母さん」


「そう……強くなったのね」


複雑な笑顔を浮かべながら、リーナは息子の手を引いて馬車へと導いた。


馬車が動き出すと、ガレスは渡された剣を膝の上に置いた。鞘から少しだけ刀身を抜いてみる。朝の光を受けて、刃が鈍く輝いた。ずしりとした重みが、手に心地よく馴染む。


「すごい剣ね」


アルマが興味深そうに覗き込んできた。


「これ、メルベル先生と同じやつ?」


「うん。鉄嵐流の剣だって」


「へえ……で、この一週間、何してたの?」


ガレスは妹に、この一週間のことを話し始めた。地獄のような訓練のこと、七つの斬撃のこと、そして昨日の酒場での出来事まで。アルマは目を輝かせながら聞いていた。


馬車の外では、メルベルとナブが二人で話していた。


「目撃情報があった」


ナブが切り出した。


「バビロンの南だ。どうやら動けるようにはなったらしい。今のところはおとなしくしている。地方の村で、祠の浄化作業なんかで日銭を稼いでいるようだ」


メルベルの表情が引き締まった。


「祠の浄化か……」


「なあ、メルベル」


ナブが声を落とした。


「手配書にはああ書いてあるが、まだ俺たちの繋がりで何とかできる。社会復帰だって不可能じゃない。今ならまだ……」


「いつもすまんな、ナブ」


メルベルがナブの顔を真っ直ぐ見た。その瞳に宿る決意を見て、ナブはそれ以上何も言えなくなった。


「お前の不運に比べたら、これしきのことは何でもない」


ナブが苦笑いを浮かべた。それから馬車の方を顎で示す。


「子供たちをしっかり見ててくれ。また脱走されたら困るぞ」


「ああ」


「それにしても……」


ナブが複雑な表情で呟いた。


「結局、お前の子供だったかな。俺が与えた直剣には、もう興味がないらしい」


自嘲的な笑みが、その口元に浮かんだ。十三年間、父親として育ててきた。だが血は争えないということか。


「ちゃんと鍛えないからそうなる」


メルベルが軽く言った。


「学校の訓練も当てにならんな」


「おいおい、あんな虐待同然の指導で全員が一人前になれると思うなよ」


ナブが不満そうに眉をひそめた。だがその表情にも、どこか諦めが混じっている。


メルベルは小さく笑った。それから踵を返すと、振り返ることなく言った。


「じゃあな」


「ああ……気をつけろよ」


朝日を背に受けながら、メルベルの大きな背中が街道の向こうへと消えていく。ナブはその姿が見えなくなるまで、じっと立ち尽くしていた。


馬車の中では、ガレスが新しい剣を抱きしめるようにして座っていた。窓の外を流れる景色を見ながら、少年は静かに決意を新たにしていた。


――次に会う時まで、もっと強くなる。


その瞳に宿る光は、もう消えることはなかった。


一方、バビロンから南へ二日の距離にある小さな村で、黒い巫女服を着た少女が、祠の前で祈りを捧げていた。右腕は布で吊られ、歩みはまだぎこちない。しかしその瞳は、冷たく研ぎ澄まされていた。


「聖なる炎よ、この地を清めたまえ……」


村人たちは、真面目に働く巡礼の巫女だと思っている。まさか彼女が、賞金首の暗殺者だとは夢にも思わない。


ニイナは祈りの言葉を唱えながら、頭の中では全く別のことを考えていた。


――あと三日。三日あれば、戦える。


折れた鎖骨は、まだ完全ではないがかなり接合が進んでいた。聖火の力は偉大だ。普通なら一ヶ月はかかる怪我が、一週間で動けるまでに回復する。


――あの男の技、もう覚えた。


メルベルとの戦いで学んだ技術を、頭の中で何度も反芻する。七つの斬撃、受け流しから反撃への流れ、足運び、重心の移動。全てを自分のものにするまで、あと少しだ。


――次は、殺す。


その決意に、一片の迷いもなかった。

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