第三十二話「父と息子の酒宴」
日が暮れると、メルベルは通信機を手に取った。
「今日も無事だ」
短い報告。アザリアの返事も短かった。
こうして一日が過ぎていく。まるで砂時計の砂が落ちるように、残された時間が減っていく。一瞬のように早く感じられた。
(もっと前から、こうできていたら)
メルベルは眠る息子の顔を見つめながら思った。
(いや、もしかしたら厳しくしすぎて、嫌われたかもしれない)
そんなことを毎日考えた。答えの出ない問いを、何度も繰り返した。
六日目の夜、通信機からアザリアの声が響いた。
「明後日、迎えに行くから」
メルベルは観念して了承した。時間切れだ。
「明日は休みにしなさい」
意外な言葉が続いた。
「一日でもいいから、父親らしいことをしなさい」
アザリアの声は、優しかった。
「お得意のリュートでも弾いてあげたら?」
確かに、もう少しでお別れだ。何か一つ、自分にも息子にも、思い出があってもいいのではないか。
翌朝、ガレスは元気よく挨拶してきた。体中にアザだらけだが、目は輝いている。
「今日は休みだ」
メルベルの言葉に、ガレスは意外そうな顔をした。
「休み、ですか?」
「俺にも休息は必要だ」
メルベルはぶっきらぼうに言った。
「それに、お前は今日は酒場についてこい。話し相手がいないと、つまらないからな」
「酒場?」
ガレスは全く意外な展開に戸惑っていた。メルベルはそれを無視して、街の酒場へ向かった。
朝から賑わう場末の酒場。薄暗い店内には、様々な人種がたむろしていた。
飲んだくれている冒険者。人生に疲れた落伍者。今日は休みの戦士。巡礼の旅に疲れている巫女とガード。
ガレスにとって、人生で初めての環境だった。正しい学校生活。制服を着こなした教師。そういった「まともな大人」は、ここには一人もいなかった。
メルベルはカウンターに向かった。
「ビール二つ」
店員が黙ってジョッキに注ぐ。代金を支払い、メルベルは一つをガレスに差し出した。
ガレスは戸惑った。自分は未成年だ。こんなものは体に良くないと、散々教えられてきた。父のナブは酒を飲まない人だし、母のリーナが見たら絶対に叱るはずだ。
でも、ここで「飲めない」なんて、恥ずかしくて言えない。
メルベルはジョッキを持ち上げた。
「弟子の成長に」
そのまま、ぐいぐいと飲み始めた。
ガレスも慌ててビールを口にした。
苦い。
顔をぎゅっとしかめる。なんで大人はこんなものを飲むんだ。
その様子を見て、店員が笑った。二人の顔つきがそっくりだったからか、特に違和感もなく話しかけてきた。
「息子さん、お酒は初めて?」
メルベルは適当に頷いた。
「ああ」
「あんまり見ない顔だけど、息子さん連れて何してるの?」
「ちょっと息子に教えることが多くてな。まだ何も知らないんだ。狩りのやり方とかな」
本当と嘘を織り混ぜた適当な話。ガレスは戸惑ったが、世間話だと理解した。
「母親がうるさくてな」
メルベルは続けた。ほとんど真実だった。
「勝手に連れ出したから、明日家に連れて帰るってうるさいんだ。だから、その前に酒でも飲ませてから帰らせようと思った」
店員は笑った。
「女って何もわかってないよなあ。過保護に家にかくまって育てて、大人になって食えるわけねえだろ?なあ?」
ガレスに視線を向ける。
「そ、そうですね」
ガレスは曖昧に頷いた。
メルベルは瓶の酒を注文し、適当な料理も頼んだ。二人はテーブルに移動した。
「酒飲んだことないのか?」
「あるわけないでしょう。学校でバレたら謹慎です」
「ずいぶん堅苦しいんだな」
メルベルは苦い顔をした。
「先生はどうだったんですか?僕くらいの時、学校では?」
「俺は学校なんて行ったことはない」
ガレスは驚いた。
「父親に特訓を受けてた。それも十三歳までのことだ。それ以降は親父は……戦いに出て、名誉の戦死。ギシュガルにやられた」
「ということは、先生が仇を討ったってことですね」
「ああ」
メルベルは頷いた。
酒が進むにつれ、話も弾んだ。
メルベルはナブと初めて会った時のことを話した。キシュの森へ行く途中だった。その時の自分は、別の巫女のガードだったことも口を滑らせた。
「ティアマトという名前の巫女のガードでな。その時のナブは本当に気の毒だった。ただの小娘に顎で使われててな」
ガレスは父親の過去話を聞かされて、困った顔をしていた。
さらに酒が進む。二人ともかなり酔った。机には汚い皿が積み上がっていく。
「俺はな」
メルベルがぼんやりした頭で言う。
「お前くらいの時は、飯代を自分で稼いだもんだ。怪我をして動けない時は、こういう酒場で下働き。お前らはいい気なもんだ」
ぼやきながら、また酒を煽る。
「うそくせー」
ガレスも酔った頭で、砕けた口調になっていた。
「先生って今お金持ちでしょー」
「壊れたリュート拾ってきて、なんとか覚えて、投げ銭で食いつないだもんだ」
メルベルはふらふらと言った。
「一芸持っていないと、お前も怪我して戦士首になったら終わりだぞ。何か覚えとけよ」
「先生がリュートぉ?絶対無理でしょー。そんな太い指でどうやって演奏するんですかー?」
かなり無礼な発言だった。
「あぁ?」
メルベルは立ち上がった。近くの演奏者のリュートを奪い取る。
酒で盛り上がっている客たちは、乱入者にヤジを飛ばしたり、「いいぞ!」と叫んだりした。
メルベルは『臆病メルベルの大脱走』を演奏し始めた。
昔、自分が冤罪で犯罪者にされた時に歌われた曲。現在はご禁制で、歌った者には金貨一枚の罰金がある。
陽気な前奏が始まると、酒場中が沸いた。
「おい、メルベルが逃げ出したぞ!
臆病者が尻尾巻いて走ってる!
神殿騎士も追いつけない
あいつの逃げ足ときたら天下一品!」
客たちが大笑いしながら手拍子を始める。
「裏切り者!卑怯者!みんなそう叫ぶけれど
本当は違うのさ、真実なんて誰も知らない!」
ガレスは腹を抱えて笑った。メルベル本人が自分の悪口ソングを歌っている。これほど馬鹿げたことがあるだろうか。
「でもいいさ、逃げるが勝ちさ!
明日になれば、みんな忘れる!」
店内は大合唱になった。うっぷんの溜まった連中にとって、権力への皮肉は最高の酒の肴だった。
続いて、メルベルは『侵略の時代』を歌い始めた。
「乾杯をしよう、若さと過去に
苦難の時は、今終わりを告げる」
雰囲気が少し変わった。これは戦いの歌だ。
「血と鋼の意思で、敵を追い払おう
奪われた故郷を取り戻そう」
老いた戦士が目を閉じて聴いている。かつての戦友を思い出しているのだろう。
「ギシュガルに死を!聖女殺しの悪党!
討ち破った日には、飲み歌おう」
「そうだ!」
誰かが叫んだ。今やギシュガルは死んだ。メルベルが殺した。その本人が歌っている。
「それでもこの地は、我らのもの
今こそ取り戻せ、夢と希望」
拍手が鳴り響いた。
最後に、メルベルは静かに『孤独な戦士の子守唄』を歌い始めた。
「その剣は炎、その瞳は深淵
恐れ逃げまどう、民の叫び声」
酒場が静まり返った。誰もが聴き入っている。
「だが英雄は選んだ、汚名という道を
愛する者のため、全てを捨てて」
ある巫女が涙を拭った。恋人を戦争で失ったのかもしれない。
「父の剣は折れ、名誉は地に落ちた
臆病者と呼ばれ、裏切り者と罵られ」
ガレスは不思議な気持ちで聴いていた。これは先生の歌だ。先生自身が歌っている。
「それでも彼は微笑んだ、家路を歩みながら
真実を胸に、静かに生きると決めて」
メルベルの声は、深く響いた。まるで本当に体験したことを歌っているような。
「眠れ、疲れし戦士よ
お前の戦いは終わった
母の腕の中で、愛する者の傍で
永遠の安らぎを、今ようやく得る」
最後の音が消えると、しばらく沈黙が続いた。
そして、割れんばかりの拍手が起こった。
「ありがとう、ありがとう」
涙を流している男たちもいた。酒と歌が、心の奥底に眠っていた感情を呼び覚ましたのだ。
演奏が終わると、メルベルはエクリスの口調で言った。
「みなさん、ありがとー」
拍手が鳴り響く。
「うー」
メルベルはふらつきながら席に戻った。
「先生ー!感動しましたー!」
ガレスはメルベルのグラスに酒を注いだ。
「ああ……いいもんだなあ」
メルベルは酒を飲み、息子の赤い顔の笑顔を見た。そして、そっと頭を撫でた。
これが、父と息子の最後の一日。
明日には、また離れ離れになる。
でも今日だけは、ただの酒飲みの親父と、その息子でいられた。
窓の外では、夕陽が街を赤く染めていた。
酒場の喧騒の中で、二人は笑い合っていた。




