第二十八話「孤独な戦士たちの子守唄」
朝靄の中、メルベルは街道を歩いていた。
足取りは重い。昨夜もほとんど眠れなかった。娘の行方を探りながら、頭の中では計算が巡る。
(鎖骨の完全骨折。普通なら接合まで数週間かかる)
だが、アザリアの血を引く娘だ。聖火の力もある。妻と同じなら、常人より治癒が早いはずだ。
(二週間程度か。いや、もっと早いかもしれない)
探すなら今がチャンスだ。骨の接合が終われば、娘は完全回復のためにエリドゥへ向かうだろう。ルカヴィの残党の本拠地で、ゆっくりと療養するために。
小さな街に入り、メルベルは酒場で情報を集めた。
「金髪の若い巫女?ああ、手配書の」
「見てないな。そんな美人なら、覚えてるはずだが」
「賞金稼ぎが血眼になって探してるよ」
あちこちに貼られた手配書が、厳しい現実を突きつけてくる。娘の似顔絵の下に書かれた文字。「生死問わず、金貨五百枚」「死亡の場合、半額」
賞金稼ぎたちが動き始めている。神殿戦士も総動員されている。彼らより先に、娘を見つけ出せるだろうか。
翌朝、宿を出て目撃情報のあった場所へ向かっていると、街道が妙に騒がしかった。
何事かと見ると、少年が一人、辺りをきょろきょろと見回している。
「ん?」
見覚えのある後ろ姿。黒髪の少年。まさか。
少年が振り返った。目が合う。
「先生!」
ガレスだった。顔を輝かせて走ってくる。
「やっと追いついた!昨日からずっと走ってきたんです!」
息を切らしながら、満面の笑みで駆け寄ってくる息子。
「お前、どうしたこんなところで?」
メルベルは呆然として問いかけた。まさか追いかけてくるとは。
「追いかけてきたんですよ!俺も先生を手伝います!」
ガレスはビシッと気をつけの姿勢を取った。その真剣な表情に、メルベルは目を瞑った。
僅かに、目頭が熱くなる。
(息子が、俺を追ってきた)
血の繋がりも知らないのに。父だと知らないのに。それでも、この子は自分を選んでくれた。
(アザリアは、どう思っているだろうか)
きっと怒っているだろう。いや、もしかしたら。
「妹を守れと言っただろう」
努めて厳しい声で言った。
「だからです!」
ガレスの声は力強かった。
「弱いままじゃ守れない。先生に教えてもらわないと、俺は弱いままだ!」
そして深く頭を下げた。
「先生のために働きます!その代わりに、弟子にしてください!」
メルベルはぐっと目を瞑った。
涙がこみ上げてくる。息子が、弟子入りを志願している。これ以上の幸せがあるだろうか。
だが、涙は見せられない。師匠として、父親として、弱さは見せられない。
「……分かった」
掠れた声で答える。
「じゃあ、まず缶詰を買ってこい。三日分だ。それから酒場で会おう」
「はい!」
ガレスは嬉しそうに飛び出していった。その後ろ姿を見送りながら、メルベルは小さく微笑んだ。
これで良かったのかもしれない。
息子を鍛えながら、娘を探す。両方の子供と関われる。アザリアには悪いが、これも運命なのだろう。
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都から遠く離れた廃屋で、ニイナは一人、痛みと戦っていた。
折れた鎖骨を、自分の手で整復する。骨の位置がずれていては、正しくくっつかない。
歯を食いしばり、折れた骨をぐりぐりと押し込む。
「うああああっ!」
絶叫が廃屋に響き渡る。骨が擦れ合う音、軋む音。
ゴトン。
鈍い音と共に、骨が正しい位置に戻った。
「ヒイッ!」
激痛が全身を駆け巡る。体を捻り、額から脂汗が噴き出す。息が止まりそうになる。視界が暗くなる。意識を失いそうになるのを、必死で堪える。
全身が動かない。歩くのもやっとだ。
廃屋は寒かった。隙間風が容赦なく吹き込んでくる。かつてルカヴィが潜伏に使っていた家。今は蜘蛛の巣と埃にまみれ、床には虫が這い回っている。
布で肩を固定した。腕も動かないよう、体に縛り付ける。
普通なら、骨がくっつくまで数週間かかる。だが、聖火の力がある。母——イザベラが教えてくれた治癒の技術もある。
(一週間。一週間ここで息を潜める)
手配書が出回っているのは知っていた。街の入り口で見た。自分の顔が、紙に描かれていた。最近は羊皮紙も廃れて、安い紙が使われるようになった。
「生死問わず」
その文字を見て、状況を冷静に分析した。
(人目にはつけない。動けるようになっても、夜に移動する必要がある)
賞金稼ぎたちが血眼になっているだろう。昼間の移動は自殺行為だ。
ニイナは虫の湧いた床に座り込んだ。痛みで眠れない。寒さで震える。
ふと、口ずさみ始めた。
「その剣は炎、その瞳は深淵
恐れ逃げまどう、民の叫び声
戦う者たちも、塵となりゆく
我らは求めた、真の英雄を
千年王に挑む、炎の戦士を」
『孤独な戦士の子守唄』
誰も教えてくれなかった歌。母のイザベラは歌など歌わなかった。他の誰も、この歌を口にしなかった。
なのに、なぜか知っている。
いつ覚えたのか分からない。物心ついた時から、この旋律が頭の中にあった。
「だが英雄は選んだ、汚名という道を
愛する者のため、全てを捨てて
予知夢が示した、甘き微睡みの罠
世界を覆う、蜜のような闇
されど戦士は知っていた、運命の鎖を
断ち切る方法は、ただ一つだけ」
これは、父を殺した戦士の歌。メルベル・ボムを讃える歌。父の死を喜ぶ歌のはずだ。
なのに、なぜか好きだった。
理由は分からない。ただ、この歌を口ずさむと、心が落ち着く。痛みが和らぐ。
「父の剣は折れ、名誉は地に落ちた
臆病者と呼ばれ、裏切り者と罵られ
それでも彼は微笑んだ、家路を歩みながら
真実を胸に、静かに生きると決めて」
歌いながら、ニイナは首を傾げた。
なぜこの歌を知っているのだろう。誰も教えてくれなかったのに。
記憶の片隅に、ぼんやりとした温もりがある。誰かが優しく歌ってくれたような。でも、それは幻想のはずだ。そんな人はいなかった。
「不滅なるものはない、千年王も同じ
物語は終わり、英雄は消えた
だが温かき家で、家族と共に
新たな朝を迎える、名もなき男がいる」
痛みがまた襲ってくる。鎖骨がズキズキと脈打つ。
「うっ……ああ……」
苦痛の呻きが漏れる。でも、歌い続ける。
「乾杯をしよう、失われた時に
苦難の日々は、今終わりを告げる
血と炎の意思で、愛を守り抜いた
奪われた母の愛を、父の勇気を今取り戻そう」
この部分が、特に好きだった。なぜか分からない。ただ、心が温かくなる。
「眠れ、疲れし戦士よ
お前の戦いは終わった
母の腕の中で、愛する者の傍で
永遠の安らぎを、今ようやく得る」
最後の部分を歌い終えると、少し眠気が訪れた。
「これは子守歌、孤独な戦士への
これは物語、名もなき英雄の
これは約束、必ず帰るという
これは希望、愛は全てに勝つという」
歌声が、廃屋の中で小さく響いた。
父を殺した男の歌。
でも、この歌だけが、今の自分を慰めてくれる。
皮肉なものだと、ニイナは薄く笑った。
同じ頃、遠く離れた酒場で、ガレスが缶詰を抱えて戻ってきていた。
「先生、買ってきました!」
「よし。じゃあ飯を食いながら、これからのことを話そう」
メルベルは息子の向かいに座った。
二人の前には、質素な食事が並んでいる。パンとスープ、それに干し肉。
「まず言っておく。俺についてくるなら、死ぬかもしれない」
「覚悟してます」
ガレスの目は真剣だった。
「それと、もう一つ。俺が追っている暗殺者のことだが」
メルベルは言葉を選んだ。
「あいつは、特別な事情がある。殺すことはできない。生きて捕まえる必要がある」
「分かりました」
ガレスは頷いた。理由は聞かない。師匠が言うなら、それに従う。
「じゃあ、明日から地獄の訓練を再開する」
メルベルは薄く笑った。
「今度は手加減しない。本気でやる」
「望むところです!」
ガレスの顔が輝いた。
窓の外では、月が昇り始めていた。
父と息子は、それぞれの思いを胸に、食事を続けた。
そして遠く離れた廃屋では、娘が一人、子守唄を歌いながら、痛みに耐えていた。




