第二十七話「引き裂かれた道」
翌朝、ウルの街中に手配書が貼り出された。
羊皮紙に描かれた似顔絵は、驚くほど精巧だった。金髪、碧眼、若い女。古びた巫女服。削り取られた認識票。そして最も特徴的なのは、その美しい顔立ち。アザリア様にそっくりだと、街の人々は囁き合った。
「生死問わず、金貨五百枚」
破格の懸賞金だった。普通の人間なら、一生遊んで暮らせる額。
だが、最初の案はもっと過酷だった。生死問わずではなく、死体優先。メルベルとアザリアの激しい口論の末、ようやく「死亡の場合、半額」という但し書きが加えられた。
せめてもの、父親の抵抗だった。
神殿の中庭で、奇妙な別れの儀式が行われていた。
メルベルは単独行動を取ることになった。表向きは、暗殺者を追跡するため。だが、真の目的は別にあった。他の誰よりも早く、娘を生きて捕らえること。そのためには、彼女が襲ってきた時に、他の人間が近くにいては邪魔だった。守るべき人々を守る上でも、娘を守る上でも。
ガレスとアルマの巡礼は、アザリアと複数の凄腕戦士たちが引き継ぐことになった。メルベルの代わりとして、十分すぎる戦力だった。
「ガレス」
メルベルは、別れ際に生徒の肩に手を置いた。重い手だった。
「訓練を怠るなよ」
短い言葉。だが、その奥には言えない思いが詰まっていた。
「妹をしっかり守れ」
本当は「息子よ」と呼びたかった。「お前は俺の息子だ」と伝えたかった。だが、それは許されない。この子は、ナブの息子。そういうことになっている。
(本当は、色々と嫌がられても教えてやる必要があった)
メルベルは心の中で自問した。
(アザリアの言う通りなのかもしれない。ガレスを守って鍛えることの方が大切なのかもしれない)
確かに自分たちの手の届く子供を優先すべきなのかもしれない。娘は諦めた方がいいのかもしれない。
(娘を捕まえても、娘にはもう普通の人生はない)
牢屋で暮らせればまだいい方。処刑されて当然の罪を、既に重ねている。
(息子を放って娘を追うのは、俺のエゴなのかもしれない)
アザリアの言うように、娘は死んだと思って割り切った方がいいのだろう。理性ではそう理解している。
だが、それでも。
アザリアには素っ気なく言った。
「じゃあ、子供たちをよろしくな」
暗に、本当の息子を頼むという意味を込めて。アザリアは無言で頷いた。夫婦の間に、昨夜の口論の痕跡が重く横たわっていた。
メルベルは踵を返し、歩き始めた。振り返らなかった。振り返れば、きっと息子を抱きしめてしまう。真実を告げてしまう。だから、ただ前を向いて歩いた。
その背中を見送りながら、ガレスは複雑な感情に襲われていた。
「うーん……」
思わず唸り声が漏れる。
正直なところ、あの地獄のしごきから解放されたのは嬉しかった。体中の痣が、ようやく治りかけている。もう木剣で打たれることもない。
だが同時に、妙な肩透かしを感じていた。
まるで、大事な何かを取り上げられたような。必要な薬を、途中で止められたような。そんな感覚。
「俺、弱いんだな」
ガレスは呟いた。アルマが心配そうに兄を見上げる。
「兄さん?」
「あの暗殺者の女の子に、あっという間に負けた。その女の子は、メルベル先生には手も足も出なかった」
自嘲的な笑みが浮かぶ。
「俺って、一体何なんだろう」
神殿で守ってもらったのも、自分が弱いからだ。いや、違う。父のナブの息子だから。母のリーナの息子だから。要人の家族だから、特別扱いされた。
それに引き換え、メルベル先生は一人で行動している。あれほど偉い人なのに、誰も文句一つ言わない。単独行動を止める者もいない。
世界が違う。
住んでいる世界が、根本的に違うのだ。
「今なら分かる」
ガレスは拳を握りしめた。
「あのしごきは、必要だったんだ」
つい数日前まで、文句を言っていた。隠れて愚痴をこぼし、恨みさえ抱いていた。だが、それは間違いだった。
あの訓練があったから、暗殺者の最初の一撃を防げた。理解の外で、体が勝手に動いた。それは紛れもなく、地獄の訓練の成果だった。
でも、結局負けた。
あの女の子に、ちょっと本気を出されただけで、完敗した。
「俺は弱い」
その事実を、理性で理解し始めていた。感情ではなく、論理で。冷静に、客観的に。
少年の心に、ようやく激しい炎が燃え始めていた。強くなりたいという、純粋な欲求が。
なのに、その瞬間、薪を引っこ抜かれてしまった。
歩き去っていくメルベル先生の背中は、あまりにも大きかった。巨大な山のように、越えることのできない壁のように。
「さあ、出発よ」
アザリアの声で、ガレスは我に返った。新しい監督の巫女が、優しく微笑んでいる。
「今日から私たちが指導するわ。しっかりついてきて」
アルマへの地獄のしごきは、初日から再開された。聖火の維持訓練、限界を超えた集中の持続。アザリアは容赦なかった。むしろ、メルベルがいない分、より厳しくなったかもしれない。
次の目的地は、ジッパルの都市。山岳地帯にある、古い聖地だ。そこまでの道のりは長い。
新しい監督の戦士たちは、代わる代わるガレスに剣術を教えた。
「そう、その角度で」
「足の運びは、もっと滑らかに」
「力を入れすぎだ。リラックスして」
丁寧な指導だった。正しい指導。教本通りの、理に適った教え方。
誰もガレスを殴らない。骨にヒビを入れたりしない。痣を作ることもない。
普通の指導。
みんなが受けている指導。
死んでいった多くの戦士たちが、かつて受けた指導。
だが、ガレスは指導を受けながら思った。
(このままじゃ、ダメだ)
何か教えられている。確かに、形としては教えられている。だが、何も教えられていない。何も身についていない。体が覚えない。心に響かない。
みんなが遠慮している。
自分が父さんと母さんの子供だから。ナブとリーナの息子だから、腫れ物に触るように扱われている。
その夜、宿の一室で、ガレスは布団の中で目を開けていた。
隣の部屋では、アルマの寝息が聞こえる。廊下では、戦士たちが交代で見張りをしている気配。守られている。過保護なまでに。
ガレスは音を立てないように起き上がった。
闇の中で、手探りで荷物をまとめる。最低限の物だけ。剣、水筒、僅かな食料、そして銀貨数枚。
窓に近づく。外を見ると、見張りの戦士が欠伸をしながら立っている。正面からは出られない。
ガレスは窓枠に手をかけた。石造りの建物特有の、僅かな出っ張りがある。それを掴んで、体を外に滑り出させる。
高さは二階分。落ちれば怪我をするかもしれない。だが、メルベル先生の訓練に比べれば、こんなものは何でもない。
慎重に、しかし素早く、ガレスは壁を伝って降りた。
地面に着地すると、一瞬だけ振り返った。
アルマのことは心配だった。妹を守れと、先生に言われたばかりだ。だが、あれだけみんなが寄ってたかって守っているなら、大丈夫のはずだ。むしろ、自分がいない方が、みんな本気で守るだろう。
「ごめん、アルマ」
小さく呟いて、ガレスは走り始めた。
夜の街を駆け抜ける。石畳の音が響かないよう、足運びに気をつけながら。これも、訓練の成果だった。
不安と興奮が、胸の中で渦を巻いていた。
これは、自分の初めての選択だった。
誰かに守られるのではなく、誰かに導かれるのでもなく、自分の意志で決めた道。
(師匠について行こう)
そう、メルベル先生は師匠だ。監督でも、教官でもない。自分が選んだ、師匠。
方角は分かっている。メルベル先生が向かったのは、きっとエリドゥへの道だ。その手前にあるバビロンをまず経由するはず。この旅の始まった都市、自分が生まれた年に解放された、あの都市を通って、最終目的地のエリドゥへ。
急げば追いつける。
大人と子供の歩幅の差はあるが、自分は走れる。休みなく走れば、明日の昼前には追いつけるはずだ。
月明かりが、少年の背中を照らしていた。
その夜、アザリアは一人で月を見上げていた。
まさか息子が、夜の闇に紛れて脱走しているとは、夢にも思わなかった。
翌朝、それは発覚した。
「ガレスがいない!?」
アザリアの声が、宿中に響き渡った。
見張りの戦士たちが青ざめて集まってくる。誰も気づかなかった。窓から抜け出すなど、想定外だった。
「お前たち、何をしていたの!」
アザリアの顔が、鬼のように歪んだ。かつて、微睡の魔王になりかけた時のような、恐ろしい形相。金色の瞳が、怒りで燃え上がる。
「申し訳ございません!」
戦士たちが震え上がって頭を下げる。屈強な男たちが、まるで子供のように怯えていた。
アルマは、その迫力に思わず後ずさりした。今にも失禁しそうなほどの恐怖。これがアザリア様の本気の怒り。伝説の巫女の、本当の姿。
だが、次の瞬間、アザリアは深呼吸をした。
怒りを押し殺し、冷静さを取り戻す。そして、すぐに理解した。
ガレスはメルベルを追いかけて行ったのだ。
「……そう」
小さく呟く。
表向きは、まだ怒りの表情を保っていた。戦士たちへの見せしめのために。だが、内心は違った。
嬉しかった。
ガレスがメルベルを選んだ。あの地獄のしごきを、自分で選択したのだ。何を思ったのかは分からない。だが、それはアザリアにとって、密かな喜びだった。
息子が、父親を選んだ。
血の繋がりも知らないのに、本能で父を追った。
「放っておきなさい」
アザリアは冷たく言い放った。
「ナブには報告を入れます。しかし、訓練が厳しいからと脱走する者に、手を差し伸べるほど神殿は寛容ではありません」
わざと厳しい言葉を選んだ。
「兄さんは、そんな臆病者じゃない!」
突然、アルマが叫んだ。
アザリアは驚いて、少女を見つめた。いつも大人しいアルマが、激しい口調で反論している。
「兄さんは、訓練から逃げたんじゃない!きっとメルベル先生の後を追ったの!」
アルマの瞳には、涙が浮かんでいた。
「兄さんは、先生に教わりたかったのよ!本当の強さを身につけたくて、だから……」
アザリアの表情が、僅かに和らいだ。
この子は、兄の心を理解している。血は繋がっていないのに、真の兄妹のように。
「そうね」
アザリアは優しく微笑んだ。
「きっと、あなたの言う通りよ。ごめんなさい、酷いことを言って」
彼女はアルマの頭を撫でた。
「エリドゥに向かうために、まずバビロンに向かっているはず。連絡を入れておくわ」
「兄さんは、大丈夫よね?」
アルマが不安そうに問いかける。
「ええ、大丈夫」
アザリアは確信を持って答えた。
「メルベルが、きっと守ってくれる」
それは、母親としての願いでもあった。




