第二十六話「母の決断」
神殿の門をくぐったメルベルの足取りは、重かった。肩から滲む血が、包帯を赤く染めている。石畳に点々と血の跡を残しながら、彼は治療室へと向かった。
中では、ナブとアザリアが何か深刻な話をしていた。二人の表情は暗い。メルベルの姿を認めると、アザリアが息を呑んだ。
「その傷……どうしたの!」
肩の傷、引き裂かれた服、血に濡れた腕。明らかに激しい戦闘の跡だった。
「医者を!早く!」
ナブが叫ぶ。すぐに巫女たちが駆けつけ、メルベルを寝台に横たえた。傷口が洗浄され、針と糸で縫合される。薬草が塗られ、清潔な包帯が巻かれていく。
メルベルは治療の間、無言だった。痛みに顔を歪めることもなく、ただ天井を見つめている。
「すまない」
ようやく口を開いた声は、掠れていた。
「逃げられた」
ナブが眉を顰めた。
「お前が二度も手こずるとなると……」
深いため息をつく。
「ガレスやアルマはもちろん、他の神殿戦士だと、とても勝ち目がなさそうだな」
「ああ」
メルベルは項垂れた。そして、更に重い事実を告げる。
「ちょっとまずい。技を盗まれたかもしれない」
「盗む?」
ナブが聞き返す。メルベルは苦い表情を浮かべた。
「かなりの天才肌だ。骨を折って無力化を狙ったが……戦っている最中に、どんどん上達してきた」
小さく首を振る。
「ガレスとは違うな」
苦笑いが漏れた。息子への愛情と、娘への複雑な感情が入り混じった、奇妙な笑みだった。
アザリアが静かに問いかけた。
「どの程度、怪我をさせたの?」
メルベルは淡々と報告した。まるで任務報告のように、感情を押し殺して。
「右の鎖骨が折れている。左腕にヒビ。右足もヒビが入った。肋骨もそれなりに損傷させた」
声が震える。
「普通なら動けないはずなのに、平然と動いていた。そして……」
言葉が詰まる。
「捕まえようとして、刺された。判断を誤った。そのまま峰打ちを続けることも可能だったはずなのに」
顔を歪める。自分の甘さへの自己嫌悪が、表情に滲んでいた。
ナブは冷静に状況を分析した。
「それだけの大怪我なら、数ヶ月は戦えないだろう。少なくともその間は、巡礼の旅を続けても問題ない」
彼は立ち上がり、部屋を歩き回りながら考えをまとめる。
「認識票のニイナ。番号が削り取られた巫女の紋章。容貌もアザリア様と同じとなれば、目撃情報もすぐに出る」
扉の前で振り返った。
「見つかるさ。必ず」
そう言い残して、ナブは戦士たちに指示を出すために部屋を出て行った。
重い沈黙が、二人を包んだ。
メルベルは項垂れたまま、搾り出すように言った。
「お前にそっくりだったよ」
その声には、言葉にできない苦悩が滲んでいた。
アザリアは無言で夫に近づき、そっと抱きしめた。メルベルの顔が、見たこともないほど悲しみに歪んでいる。涙こそ流していないが、その表情は泣いているよりも辛そうだった。
「ニイナは、イザベラというルカヴィに育てられた」
メルベルは重い事実を告げ始めた。
「ギシュガルの娘だと言われて育った」
アザリアの体が、僅かに震えた。
そして、メルベルは覚悟を決めて、最も辛い真実を口にした。
「ニイナは……人を殺している」
アザリアの体から、力が抜けた。がくりと肩を落とし、夫の胸に顔を埋める。
「正直、予想はしていた」
掠れた声で、彼女は呟いた。
メルベルは続けた。まるで自分を責めるように、残酷な事実を並べていく。
「認識票は、旅の巫女を殺して奪ったらしい。口ぶりからすると、かなりの数の戦士も殺している」
長い沈黙の後、アザリアが顔を上げた。
その表情は、メルベルが今まで見たことのない、冷たく決然としたものだった。
「メルベル」
彼女の声は、震えていなかった。
「諦めましょう。ニイナのことは」
メルベルは目を見開いた。信じられないものを見るように、妻の顔を見つめる。
「何を……」
「あの子は、十三年前に死んだの」
アザリアの声は、氷のように冷たかった。
「連れ去られた時に、もう」
彼女は夫から離れ、窓の方を向いた。月光が、彼女の横顔を青白く照らす。
「ナブには、捕獲の命令を取り下げるように言いましょう。どのみち、それだけの罪を重ねていれば、死罪は免れない」
「俺は認めない!」
メルベルが叫んだ。今まで抑えていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「俺の子だ!俺たちの娘だ!」
彼は立ち上がり、アザリアの肩を掴んだ。
「お前の顔だった!髪も!瞳も!全部お前にそっくりだった!」
声が震える。
「天才だった!俺の剣も使える!予知夢も見る!間違いなく俺の娘だぞ!」
アザリアは夫の手を静かに払った。
「これ以上、他の人を傷つけさせてはダメ」
その声には、鋼のような決意が込められていた。
「決断が遅かった。私があなたの決意を鈍らせたの。無傷でなんて言って」
自嘲的な笑みが、唇に浮かぶ。
「とても無理だったのに。あなたも殺される可能性があった。今日、あなたが死んでいたかもしれない」
「それでも母親か!」
メルベルの叫びが、部屋に響いた。
アザリアは振り返った。その瞳は、涙一つ浮かべていなかった。
「違う」
冷たい声が、メルベルの心を凍らせる。
「私は、その娘の母親じゃない。その子の母親は、そのルカヴィよ。イザベラという女が、あの子の本当の母親」
メルベルは、妻の顔を信じられない思いで見つめた。これが、愛する妻の言葉なのか。これが、十三年間娘の無事を祈り続けてきた母親の言葉なのか。
「あなた」
アザリアの声が、少しだけ優しくなった。
「私たちの子は、ガレス。ナブに預けた、あの子よ」
彼女は夫の頬に手を当てた。
「目を覚まして。現実を見て。私たちにできることは、ガレスを守ることだけ」
メルベルは妻の手を振り払った。
何も言わず、大股で部屋を出て行く。扉が乱暴に閉められ、その音が長く響いた。
アザリアは一人残された部屋で、窓の外を見つめていた。
月は雲に隠れ、闇が神殿都市を包んでいる。
彼女の頬を、一筋の涙が伝った。
「ごめんなさい、ニイナ」
誰にも聞こえない小さな声で、彼女は呟いた。
「ママは、もうあなたを守れない」
窓ガラスに映る自分の顔が、娘にそっくりで。
アザリアは目を閉じた。
これが、母親としての最後の決断だった。娘を諦めること。それが、他の人々を守る唯一の方法だと、自分に言い聞かせながら。
でも、心の奥底では分かっていた。
これは、ただの逃げだということを。
娘と向き合う勇気がない、臆病な母親の逃避だということを。
治療室の薬草の匂いが、吐き気を催すほど濃く感じられた。アザリアは窓を開けた。冷たい夜風が入り込んでくる。
どこかで娘が、傷ついた体を引きずりながら、逃げているはずだ。
母を知らず、父を憎み、ただ一人で。
「メルベル」
アザリアは虚空に向かって呟いた。
「あなたは正しい。私は、母親失格ね」
だが、もう決めたのだ。
ニイナという娘は、もういない。
いるのは、人を殺す怪物だけ。
その怪物を止めるためなら、母親であることさえ、捨てなければならない。




