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第二十五話「父と娘の剣舞」



月が雲の切れ間から顔を覗かせ、ウルの大通りを青白く照らし出していた。深夜の静寂の中、二つの影が向かい合っている。


メルベルは剣を抜き、その切っ先を静かに地面へと向けた。刃が石畳に触れる瞬間、小さな金属音が響く。柄を両手で握りしめ、深く一礼する。それは彼の流派に数百年前から伝わる、決闘前の神聖な作法だった。


「我が名はメルベル・ボム。ガレス・ボムの息子、炎の剣士」


古式ゆかしい宣言が、夜の空気を震わせる。その声には、戦士としての誇りと、父親としての哀しみが複雑に絡み合っていた。


ニイナは剣を構えたまま、首を傾げた。その表情は、子供が理解できない大人の行動を見た時のような、純粋な困惑に満ちていた。隙だらけに見えるメルベルの姿。それは罠なのか、それとも本当にただの儀式なのか。彼女の冷たい瞳が、値踏みするように父親の姿を観察する。


メルベルは薄く嘲笑を浮かべた。だが、その笑みには苦味が滲んでいた。


「お前の母親は、決闘の作法も教えなかったのか?」


ニイナは数秒考え込んだ。そして、まるで新しい遊びのルールを覚える子供のように、メルベルの動作を完璧に模倣した。剣を地面に突き立て、背筋を伸ばし、同じ角度で一礼する。


「我が名はニイナ・カーカラシカ。ギシュガル・カーカラシカの娘、炎の剣士」


その声は、感情を持たない人形のように平坦だった。


「違う」


メルベルの声が、鋭く夜気を切り裂いた。


ニイナは露骨に嫌な顔をした。眉を顰め、小さく舌打ちする。


「注文の多い仇ね。殺す前にあれこれ指図されるなんて」


「お前の父は、この俺だ」


メルベルは端的に、しかし重い決意を込めて言い放った。その言葉が、どれほどの重みを持つか、彼自身が一番よく理解していた。


ニイナは首を傾げた。そして、ゆっくりと額に指を当てる。狂人を相手にしているような、憐れむような仕草だった。


「ここは確か?頭、大丈夫?」


その言葉は、まるで医者が患者に問いかけるような、妙に優しい口調だった。だが、その優しさこそが、最も残酷な侮辱だった。


メルベルは構わず続けた。声が震えないよう、必死に抑えながら。


「お前の母は、アザリア・イシュタル。俺の妻だ」


一瞬の沈黙。風が吹き、ニイナの金髪が月光に煌めいた。


「世迷言ね」


彼女は小さく笑った。その笑い声は、鈴を転がすような美しさと、氷のような冷たさを併せ持っていた。


「なかなか変わった命乞いね。今まで殺した人間は、金を渡すとか、家族がいるとか、そんなことを言ってたけど。自分が父親だなんて言い出したのは、あなたが初めてよ」


「お前は二歳になる前、家から攫われた」


メルベルの声に、僅かな震えが混じった。あの日の記憶が蘇る。血まみれの家、アザリアの絶叫、空になった揺り籠。


「十三年前の春の終わり。お前は庭で遊んでいた。アザリアが一瞬目を離した隙に」


「面白い作り話ね」ニイナは肩をすくめた。「続けて?」


「お前も予知夢を見るだろう?」


その問いかけに、ニイナの表情が僅かに変わった。


「ええ」


あっさりとした肯定。まるで天気の話でもするような軽さで。


「だからお前は俺には勝てない。殺せもしない」


「ふふっ」


ニイナは本当に楽しそうに笑った。


「母さんの言ってたことは本当ね。お前は頭のおかしい狂人だと言っていたわ。腐った権力に縋る、面汚し。炎の戦士一族の恥だとね」


その言葉の一つ一つが、メルベルの心に突き刺さる。イザベラという女が、どんな憎悪を込めて娘を育てたのか、痛いほど伝わってきた。


メルベルの視線が、ニイナの胸元に留まった。古い巫女の紋章。銅が錆び、傷だらけになり、元の名前が削り取られて別の名前が粗雑に刻まれている。


「その巫女の紋章は、どうやって手に入れた?」


「これ?」


ニイナは紋章を指で弾いた。金属の音が、不快に響く。


「そこらの巫女を殺して手に入れた。都に入るのに必要でね」


まるで市場で大根を買った話をするような、あまりにも軽い口調だった。人の命を奪ったという自覚が、微塵も感じられない。


「田舎の巫女だったかしら。泣きながら命乞いしてたわ。娘がいるって。でも、私にも必要だったから」


ニイナは無邪気に首を傾げた。


「認識番号と名前の他に、今は写真の照合があるのね。知らなかったわ。神殿の聖火を手に入れようとしたけど、門前払いだったの。仕方ないから、削って名前だけでも入れておいたわ」


メルベルの中で、何かが凍りついた。氷のように冷たく、重い何かが、胸の奥に沈んでいく。


(この少女は、娘ではない)


いや、血は繋がっている。間違いなく、自分とアザリアの娘だ。だが、もう自分の知っている小さな女の子ではない。罪のない巫女を殺し、その死を何とも思わない、別の存在になってしまった。


「そうか」


メルベルは静かに言った。その声は、諦めと決意が入り混じっていた。そして、ゆっくりと剣を構える。


「死にゆくを厭わん。いざ尋常に勝負」


剣を右手で持ち上げ、大きく右から左へと弧を描く。刃が月光を反射し、銀の軌跡を残す。そして最後に、剣先を相手に向けて静止する。彼の流派に四百年前から伝わる、正式な構えだった。


ニイナは興味深そうに、その一連の動きを観察した。瞳が輝く。まるで、新しい玩具を見つけた子供のように。


「なるほど。そういう風に構えるのね」


何か得心がいったらしい。彼女もまた、メルベルの動作を完璧に再現した。右から左へ、全く同じ速度、同じ角度で剣を旋回させる。その動きは、まるで鏡に映したように正確だった。


「死にゆくを厭わん。いざ尋常に勝負」


次の瞬間、ニイナの剣が黒い炎に包まれた。


ギシュガルの炎。千年王が使った、禍々しい黒炎。それは通常の炎とは違い、光を吸い込むような漆黒の輝きを放っていた。周囲の気温が急激に下がり、石畳に霜が降り始める。


メルベルも応じた。赤い炎が剣身を包む。だが、その炎は娘の黒炎に比べて、なんと優しく見えることか。


二つの炎が激突した。


轟音。


火花が散り、衝撃波が周囲の窓ガラスを震わせる。


メルベルの方が力では圧倒していた。長年の修練で鍛え上げられた肉体、実戦で磨かれた技術。それらすべてが、彼に優位をもたらしていた。


だが、ニイナは一歩も怯まなかった。


狂い踊るように、鋭い攻撃を仕掛けてくる。その動きは、まるで炎そのもののように激しく、予測不可能だった。そして驚くべきことに、彼女はメルベルと同じ剣技を使っていた。


(本で学んだのか?)


荒削りではある。足運びが甘く、重心の移動にも無駄がある。だが、確かに自分の流派の技だ。いや、正確には技の形を真似ているだけだ。本質を理解していない。


メルベルは素早く剣を捻った。ニイナの剣を受け流し、同時に彼女の重心を崩す。完璧なカウンター。


剣士の本能が叫ぶ。


(今だ!斬れ!首を落とせ!)


刃は確実に急所を捉えていた。このまま振り抜けば、すべてが終わる。


だが。


何かが邪魔をした。刃は最後の瞬間で翻り、峰がニイナの横腹を強かに打った。


「うっ」


ニイナが呻く。鈍い音が響いた。肋骨にヒビが入った音だ。二本、いや三本は確実に損傷している。


普通なら、そこで動きが止まる。激痛に悶絶し、戦闘不能になる。ガレスなら、間違いなく地面に倒れ込んでいた。


だが、ニイナは違った。


彼女は一瞬だけ顔を顰めただけで、即座に次の攻撃に移った。まるで痛みなど存在しないかのように、いや、痛みを糧にしているかのように、その動きはむしろ鋭さを増していた。


(化け物か)


いや、違う。これは訓練の賜物だ。痛みを切り離し、肉体を道具として扱う。そんな非人間的な訓練を、幼い頃から受けてきたのだろう。


再び隙が見えた。今度は完璧だった。


剣士の直感が、絶好の機会を見出す。腕を切断する理想的な角度。骨と骨の間、関節を正確に狙える位置。このまま振り下ろせば、左腕は肩から落ちる。


だが、またしても本能が邪魔をした。


最後の瞬間、刃は翻る。峰で腕を打つ。


骨に衝撃が走る音。上腕骨に深刻な損傷を与えた。


ニイナは数歩下がった。損傷した腕の動きが鈍くなっている。彼女は不思議そうな顔で、動きが悪くなった腕を見下ろした。まるで、自分のものではない物体を観察するような、冷めた視線で。


「なんのつもり?さっきから」


その声には、純粋な疑問が込められていた。怒りでも、苦痛でもない。ただの知的好奇心。


「手加減?それとも、私を嬲っているの?」


ニイナにとって、それは理解できない行動だった。明らかに二度、自分を殺せる隙があった。首を落とすことも、心臓を貫くこともできた。なぜしない?


だが、考えても仕方ない。相手がそうしないなら、それは好都合だ。


そして、戦いを通じて彼女は理解し始めていた。


今まで誰も教えてくれなかった、本物の剣技。父の残した書物だけで学んだ技術。母が用意した練習相手、捕らえられた神殿戦士、裏切り者のルカヴィ。それらすべてを、彼女は殺してきた。誰も彼女の敵ではなかった。


だが、この男は違う。


峰打ちで、彼女の隙を正確に指摘している。まるで、教師が生徒の間違いを訂正するように。


(なるほど、さっきは剣を振り上げすぎた)


肩の動きから読まれた。だから半歩踏み込まなかったのか。あの本の挿絵では、もっと大きく振りかぶっていたのに。


彼女の体は、即座に修正を始める。天賦の才能が、相手の技術を貪欲に吸収していく。肋骨の痛みなど、もう意識の外だった。


「さあ、これで最後だ」


独り言のように呟いて、ニイナは修正した動きで攻撃を仕掛けた。先ほどより、格段に洗練された動き。無駄が削ぎ落とされ、より鋭く、より速く。


しかし、数瞬の剣戟の後、脚を峰で打たれる。


腓骨にヒビが入った。立っているのがやっとのはずだ。だが、痛みを切り離す方法は知っている。母が教えてくれた、数少ない有用な技術の一つ。痛みは単なる信号。無視すればいい。


(そうか、本の絵では大きく踏み込んでいたが、これも違ったか)


次は、もう少し虚実を入れて。フェイントを混ぜて、相手に選択肢を与える必要がある。そうか、そういうことか。


学習が加速する。戦いながら、彼女は急速に成長していく。


メルベルは内心で叫んでいた。


(無理だ、とても無理だ)


娘の肉体に触れる剣の感触が、今まで経験したことのないものだった。妻の体とも違う。息子とも違う。


こんなにも違うのか。


この小さな体。かつて自分の腕に抱かれていた、あの小さな体。それを峰とはいえ、剣で打っている。骨にヒビを入れている。


狂いそうだった。


間違いなく、骨は損傷している。肋骨、腕、足。普通なら、とっくに戦闘不能だ。いや、普通なら激痛で動けない。


しかし、目の前の少女の動きは、より洗練されていく。一撃入れるたびに、彼女は動きを修正する。自分の技術を、恐ろしい速度で吸収している。


天武の才。


荒削りだった剣技が、みるみる研ぎ澄まされていく。先祖から四百年かけて伝わってきた秘伝の技が、わずか数分で再現されていく。


(誰か、誰か助けてくれ)


心の中で、彼は必死に叫んでいた。アザリア、ナブ、誰でもいい。この地獄から救い出してくれ。


メルベルは大きく飛び下がった。距離を取る。


「待て!」


ニイナが足を止める。首を傾げて、父親を見つめる。


「何?まだ何かルールがあるの?」


「今のが最後だ。次は、刃で斬る」


震える声でメルベルが告げた。それは脅しであり、同時に自分自身への言い聞かせでもあった。


「さっきから何?」


ニイナは心底不思議そうだった。


「手加減してもこっちには関係ない。あなたが本気を出さないなら、それは私にとって好都合なだけ」


そして彼女は構わず攻撃を再開した。先ほど学んだばかりの技を、もう完璧に自分のものにして。


メルベルは後退しながら、防戦一方になった。娘の成長速度が、自分の予想を遥かに超えている。このままでは、本当に殺されるかもしれない。


いや、それでもいいのかもしれない。


娘に殺されるなら、それも。


「やめてくれ、ニイナ」


思わず、その名前が口から漏れた。哀願するような、懇願するような声で。


ニイナは一瞬だけ動きを止めた。


「ニイナ?」


その名前を、不思議そうに反芻する。


「私の名前を、なぜそんな風に」


だが、すぐに剣を振るう。今度は、メルベルの技を完全にコピーした、洗練された一撃。


メルベルは反射的に防御した。そして、カウンターで鎖骨を峰で激しく打った。


骨が折れる音。鎖骨が完全に折れ、右腕が使えなくなる。


流石にニイナも大きく下がった。右腕が完全に使えない。左腕も損傷している。肋骨にもヒビが入り、足もまともに動かない。


普通なら、もう戦闘継続は不可能だ。


だが、その顔には笑みが浮かんでいた。恍惚とした、美しい笑み。


「やるわね」


まるで、良い教師に出会えた生徒のような、純粋な喜びがそこにあった。


「こんなに学べたのは初めて。本当に、あなたは素晴らしい教師ね」


メルベルは娘の右腕が完全に使えなくなったのを見て、剣を捨てた。


今なら組み伏せられる。鎖骨は完全に折れているが、まだ生きている。無力化して、捕獲できる。


彼は娘に向かって走った。


だが、ニイナは待っていた。


残った左腕——損傷しているはずの左腕で、器用に短剣を抜く。痛みを完全に無視して、正確な動作で。


刃が心臓を狙って突き出された。完璧な角度、完璧なタイミング。これを避けることは不可能だった。


メルベルは咄嗟に体を捻った。致命傷だけは避けなければ。


刃が肩に深く突き刺さった。


「うっ」


激痛。本来なら心臓を貫いていたはずの刃が、肩の筋肉を裂き、神経を傷つける。深い傷だが、命に関わるものではない。


メルベルが身を捩る間に、ニイナは信じられない跳躍力で屋根に飛び乗った。


折れた鎖骨、損傷した左腕、ヒビの入った肋骨と足。それらすべてを抱えたまま、まるで健康な体のように、軽やかに。


月光に照らされた少女が、屋根の上から見下ろしている。その姿は、美しくも恐ろしい、夜の女神のようだった。


「どうもあなたは、本当に私のことを娘だと思い込んでるようね」


冷たい声が降ってくる。だが、その声には、僅かな興味が混じっていた。


「面白い妄想だわ。でも、今日は勉強になった。本当に、心から感謝してる」


ニイナは一礼した。折れた鎖骨のせいで右腕が動かず、不自然な角度での礼になった。それでも、その動作は優雅だった。


「次に会う時は、もっと上手くやってみせる。今日教えてもらったことを、全部使って」


そして、彼女は闇の中に消えた。


月明かりの中、一人残されたメルベルは、肩から短剣を引き抜いた。血が石畳に滴り落ちる。刃は深く刺さっていたが、肩で受けたおかげで致命傷は免れた。娘は確実に心臓を狙っていた。殺す気だった。


そして、メルベルはその場にうずくまった。膝が石畳につく。


「どうすればいい……」


両手で顔を覆う。月光が、震える彼の背中を照らしていた。


逃してしまった。


倒せる機会は何度もあった。三度、いや四度は確実に仕留められた。首を落とすことも、心臓を貫くこともできた。


今逃げた彼女が、誰かを襲う可能性は高い。いや、確実に襲うだろう。罪のない人々が、また犠牲になる。巫女を殺して紋章を奪ったように、躊躇なく人を殺すだろう。


無力化して、斬ってでも止めるべきだった。


理屈では分かっている。


「無理だ……俺には無理だ」


震える声が、夜の静寂に消えていく。


アザリアにそっくりな顔。愛する妻と同じような天才的な才能。自分と同じ炎の法力。先祖から受け継いだ剣技を、瞬く間に吸収していく恐るべき学習能力。


すべてが、血の繋がりを証明している。


間違いない。あれは自分の娘だ。


峰で娘を打った感触が、手にしっかりと残っている。小さな体が衝撃を受けて揺れる様子。骨にヒビが入る鈍い音。それでも立ち上がってくる、健気な姿。


いや、健気ではない。狂っている。痛みを感じない怪物になっている。


次に会った時、彼女はさらに強くなっているだろう。今日の戦いを反芻し、自分の技術を完全に我が物にして。より強力な剣士となって、自分の前に現れるはずだ。


そして、その時こそ。


予知夢の通りに。


手首を切断してでも、止めなければならない。


それが分かっていながら、今日はできなかった。


これ以上、罪を重ねさせないために。これ以上、人を殺させないために。


娘を、化け物にしてしまった者たちから救うために。


「ニイナ……」


名前を呟く。十三年前、アザリアと一緒に決めた名前。幸せな家族の象徴だった名前。


メルベルの喉が、嗚咽に震えた。


血と涙が、石畳に落ちて混ざり合った。


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