第二十二話「殺意の痕跡」
神殿の治療室は、薬草の匂いで満ちていた。ガレスは上半身を裸にされ、肩の傷を巫女に手当てされている。深い刺し傷だったが、幸い骨や腱は無事だった。
「痛みますか?」
若い巫女が心配そうに尋ねる。ガレスは首を振った。痛みよりも、あの瞬間の記憶が頭から離れない。
「最初の一撃を防げたのは、単なる偶然だった」
ガレスは震える声で呟いた。アルマが兄の手を握る。
「相手の動きが、全く見えなかった。もし本気で殺すつもりだったら、俺は今ここにいない」
メルベルとアザリアは、重い表情で顔を見合わせた。そして、メルベルが口を開く。
「実は、事前に襲撃の情報があった」
ガレスとアルマが顔を上げる。
「神殿の要人を狙う暗殺者が現れているという報告があってな。標的は……リーナ様と、その家族だ」
アルマが息を呑んだ。自分たちが狙われていたのか。
「だから俺たちが直接、君たちの監督を引き受けた」アザリアが続ける。「普通の教官では、あの暗殺者から君たちを守れない」
「あの女は……暗殺者だったんですか?」ガレスの声が震える。「でも、なぜメルベル先生の名前を?」
「俺の名を騙って、近づこうとしたんだろう」メルベルは苦い表情を作った。「有名な戦士の名前を使えば、警戒心を解きやすい」
ガレスとアルマは、この説明にある程度納得した。確かに辻褄は合う。あの異常な強さも、プロの暗殺者なら説明がつく。
「今夜は神殿の施設に泊まれ」メルベルが指示を出す。「戦士たちが交代で護衛につく。絶対に単独行動はするな」
「分かりました」
二人の若者が、護衛に連れられて部屋を出て行く。扉が閉まると、メルベルは深いため息をついた。
「逃がしてしまって、すまない」
頭を垂れるメルベルに、アザリアは首を振った。
「想像の何十倍も強かった。仕方ないわ」
だが、メルベルの心は別のことで満たされていた。娘の動き、表情、気配。すべてが脳裏に焼き付いている。
躊躇がなかった。
人を傷つけることへの、一切の躊躇がなかった。
メルベルは頭の中で必死に否定しようとする。だが、戦士としての直感が残酷な真実を囁いていた。
(娘は、人を殺したことがある)
それも、一人や二人ではない。相当な数だ。
人間は戦いの中で、初めて人を殺すという選択肢に直面した時、必ず躊躇する。その躊躇は、一度経験しなければ決して消えない。快楽殺人者のような異常者は、殺しに固執し、陶酔する。
だが娘の動きは違った。殺すことを、数ある選択肢の一つとして、平等に、冷静に扱っていた。まるで、朝食にパンを選ぶか粥を選ぶか、その程度の判断のように。
「メルベル?」
アザリアが心配そうに夫の顔を覗き込む。メルベルは頭を抱えていた。
「どうしたの?」
言えるわけがない。娘が既に人殺しになっているなんて。ガレスの話では、靴をもらったから殺さなかった。もしあの時、ガレスが靴を買ってやらなかったら?
間違いなく、殺していた。
そんな非人間的な理由で、人の生死を決める。それが今の娘だ。
「警備を強化した方がいい」
メルベルは別のことを口にした。
「全ての神殿の出入り口に、戦士を配置する。少なくとも三人一組で」
「あの強さだと、普通の戦士じゃ全く歯が立たないでしょうね」アザリアが眉を顰めた。「単独で戦ったら、瞬殺されるわ」
「それだけじゃない」
メルベルの声が重くなる。
「もし娘が……いや、あの暗殺者が、あと一つか二つ聖火を手に入れたら」
アザリアの顔が青ざめた。
「今はまだ、力で押し切れる。だが聖火が増えれば、俺たちでも勝てない相手になる。ギシュガルと同等の化け物が生まれる」
「そんな……」
「戦闘技術という点では、既にお前を超えている」
メルベルは残酷な事実を告げた。アザリアは唇を噛む。
「それに、もう一つ気になることがある」
「何?」
「ガレスたちの動きを、正確に把握していた。単独行動のはずなのに、待ち伏せができた。これは……」
「予知夢」
アザリアが息を呑む。
「俺と同じ能力がある可能性が高い」
沈黙が治療室を支配した。予知夢の能力を持つ敵。それがどれほど厄介か、二人は痛いほど理解していた。
「今のところ、標的は俺だけのようだが」メルベルは続けた。「今後、お前やアジョラ様、他の身近な人間が狙われる可能性は高い」
「もし狙われたら?」
「おそらく……命はない」
アザリアの手が震えた。自分の娘が、家族を殺しに来るかもしれない。その恐怖は、言葉にできないほど重い。
「じゃあ、どうやって捕まえればいいの?」
震え声でアザリアが問う。どうやって、愛する娘を無傷で捕まえる?相手は予知夢を見て、こちらの動きを読み、ギシュガルに匹敵する力を持ちつつある。
メルベルは答えられなかった。
窓の外では、夕陽が神殿都市を赤く染めていた。まるで血のような、不吉な赤。その光の中で、メルベルは一つの恐ろしい覚悟を固めていた。
予知夢で見たあの光景は、避けられない運命なのかもしれない。
娘の手首を切断する、あの瞬間。
それが、娘がこれ以上罪を重ねることを止める、唯一の方法なのかもしれない。
「明日、ナブに連絡を取る」
メルベルは努めて平静な声で言った。
「全戦力を動員してでも、必ず捕まえる。生きて、無傷で」
嘘だった。心の奥底では、別の覚悟が固まりつつある。だが、そんなことは妻の前では絶対に、口が裂けても言えない。
アザリアは夫の手を握った。その手は、冷たく震えていた。
「必ず、取り戻しましょう」
「ああ」
メルベルは妻の目を見ることができなかった。自分が何を考えているか、悟られてはいけない。娘の手首を切り落とすなんて、そんな残酷な決断を下そうとしていることを。
だが、それが娘を止める唯一の方法なら。
これ以上、罪のない人々の血で娘の手を汚させないために。
治療室の薬草の匂いが、急に吐き気を催すほど濃く感じられた。メルベルは窓を開けた。冷たい夜風が入り込んでくる。
どこかで娘が、次の機会を窺っているはずだ。
父親殺しの機会を。
そして自分は、その時が来たら、予知夢の通りに剣を振るうことになるのだろう。愛する娘の、あの小さかった手を、切り落とすことになるのだろう。
メルベルは拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、血が滲む。
それでも、それが父親としての、最後の責任なのかもしれない。




