第二十一話「仇の名は」
ウルの都市門をくぐった時、ガレスの足はもう限界だった。妹のアルマも同じように、這うような足取りで石畳を踏みしめている。二週間の地獄のような訓練で、二人の体は悲鳴を上げていた。
「もう一度、休憩を……」
ガレスが振り絞るように言葉を紡ぐ。もはや演技など考える余裕もない。本当に限界なのだ。前回のウルクでは、聖火受領を失敗する演技で一日の休息を得たが、そんな小細工は二度と通用しないだろう。
メルベルとアザリアは顔を見合わせた。
「二日間の準備期間を与える」メルベルが短く告げた。「ジッパルまでは長旅だ。装備を整え、体を休めておけ」
「ありがとうございます!」
アルマが飛び上がりそうになるのを、ガレスが慌てて制した。喜びすぎれば、余裕があると思われる。それでも内心では、天にも昇る心地だった。二日間、あの地獄の訓練から解放される。
神殿の受領所は、すでに多くの巡礼者で賑わっていた。三つ目の聖火となると、話は別だ。ガレスは同期の巫女が、受領の最中に突然悲鳴を上げて倒れるのを目撃した。
「もう無理です……これ以上は……」
監督の巫女が慌てて少女を抱き起こす。聖火が体を焼く激痛に耐えられなかったのだ。才能の限界。それは誰にでも訪れる残酷な現実だった。
「私、受領できなかったら……」アルマが不安そうに呟く。
「大丈夫だ」ガレスは妹の肩を叩いた。「お前なら問題ない」
とはいえ、挑戦者の列は長い。今日中に順番が回ってくることはなさそうだった。明日の朝一番になるだろう。つまり、今日は完全な自由時間だ。
「劇場に行こう!」アルマが目を輝かせた。「有名な役者が来てるって聞いたの」
「その前に買い物だ」ガレスは責任感を取り戻していた。「次はジッパルだぞ。山岳地帯だ。準備なしで行ったら、俺たちが泣くことになる」
二人は連れ立って市場へと向かった。その後を、影のように二つの人影が追う。
「ニイナが必ず接触してくる」アザリアが小声で言った。「この隙を狙ってくるはずよ」
「ああ」メルベルは頷いた。「神殿戦士に任せて取り逃がすより、俺たちで捕まえる。それが一番確実だ」
「無傷で捕まえましょう」アザリアの声は決意に満ちていた。「あの子を……私たちの娘を、絶対に傷つけない」
「もちろんだ」メルベルは力強く頷いた。「生きて、無事に連れ戻す。それ以外の選択肢はない」
二人の親は、十三年ぶりに娘を取り戻す決意を固めていた。だが心の奥底で、メルベルは予知夢の光景に怯えていた。あの夢の中で、自分は確かに娘の手首を……いや、そんな未来は絶対に起こさせない。
市場は活気に満ちていた。ガレスとアルマは、必要な物資を手際よく買い揃えていく。下着の替え、薬草、包帯、保存食。アルマは恥ずかしそうに女性用品を購入し、ガレスは目を逸らした。
「あと何が必要だっけ?」
「練習用の剣」ガレスは思い出した。「メルベル先生に、刃を丸めた剣を用意しろって言われてる」
鍛冶屋は路地の奥にあった。狭い店内には、武器から日用品まで、鉄製品が所狭しと並んでいる。店主は奥から顔を出すと、ガレスの注文を聞いて頷いた。
「刃を丸めた練習剣か。在庫があったかな……ちょっと待ってくれ」
店主が奥へ消える。ガレスは店内を見回した。そして、凍りついた。
薄暗い店の隅に、あの少女がいた。ニイナ・カーカラシカ。ウルクの靴屋で出会った、謎めいた巫女。彼女は前と同じように、値踏みするような視線でこちらを観察していた。
「やあ」
ガレスは努めて自然に声をかけた。胸が高鳴る。なぜだろう、この少女を見ると、言葉にできない感情が湧き上がる。懐かしさ?いや、違う。もっと別の、名前のつけられない感覚。
ニイナはしばらく沈黙していた。それから、ゆっくりと口を開く。
「こんにちは」
感情の読めない声。アルマが兄の様子に気づいて近寄ってきた。
「この人が、兄さんが言ってた……」
「ニイナだ」ガレスが紹介する。「流れの巫女の」
アルマの目が輝いた。物語から抜け出してきたような存在が、目の前にいる。
「私、アルマ。ガレスの妹です。あなたも聖火受領に?」
「いいえ」ニイナは首を振った。その動作さえ、どこか人形めいている。「ここはもう受領済み。今は……悪者退治のために来たの」
「アンデッド退治?」アルマが身を乗り出す。
「違うわ」ニイナの唇が、冷たい笑みを形作った。「仇討ち」
空気が変わった。ガレスは本能的に身構える。
「仇?」
「父がある男に殺されてね」ニイナは淡々と語る。まるで他人事のように。「すごい悪党なんだけど、母から聞いて、今は復讐の旅の途中」
アルマは興奮を隠せない。まさに小説の題材だ。しかしガレスは、強い違和感を覚えていた。話が物騒すぎる。
「この店には?」
「剣を研ぎに」
ちょうど店主が戻ってきて、研ぎ終えた曲刀をニイナに手渡した。使い込まれた刀身。刃こぼれの跡が、丁寧に研ぎ直されている。
「アンデッド退治をすると、すぐに剣が摩耗するからな」ガレスが知識を披露するように言った。
「そうそう」ニイナは曖昧に相槌を打った。「だからね。新しい安物を買ってもいいけど、戦いの途中で折れたら困るから」
「父の形見なの」彼女は剣を受け取りながら付け加えた。「これは特別な剣だから、何度でも使えるの」
ガレスは意を決した。
「その仇の名前は?神殿に通報しておくよ。そんな悪党なら、捕まえるように手配する」
ニイナの瞳が、初めて生き生きとした光を宿した。獲物を見つけた猫のような、残酷な輝き。
「そう?じゃあ、教えてあげる」
彼女は指を折りながら、特徴を挙げ始めた。
「黒髪の大男。曲刀を持っていて、炎の法力を使う」
ガレスの背筋に冷たいものが走った。その特徴は……。
「名前は?」
ニイナは微笑んだ。氷のような、美しく冷たい笑顔。
「メルベル・ボム」
鍛冶屋の中の時間が止まった。アルマが息を呑む。
「どういうこと?」アルマが震え声で言った。「ひどい冗談ね」
「冗談?」ニイナは小首を傾げた。「あなたたちなら、場所を知ってるでしょう?どこにいるか、教えて」
ガレスは剣の柄に手を置いた。同時に、アルマを背中に庇う。
「君、いったい何を言っているんだ?」
「あなたたちの泊まってる宿と同じよね?」ニイナの声は甘く響いた。「案内してくれる?名前を言えばいいのよ」
店主が異様な雰囲気を察して、一歩下がる。次の瞬間、ニイナの手が微かに動いた。
「動かないで」
全く見えなかった。ダガーは店主の足元に突き刺さり、靴と床の僅かな隙間を縫い止めていた。店主はバランスを崩して後ろに倒れる。
「私の父は、そいつに殺されてね」ニイナはガレスの靴を見下ろした。「正直、あなたのことは靴屋で殺そうと思った。でも……」
彼女は自分の足元を示した。ガレスが買ってやった靴。
「これをもらったし、悪い人じゃないと思ったから、やめたの」
肩が動いた。ほんの僅かな動き。だがガレスの体は、考えるより早く反応していた。
剣を抜く。金属が擦れる音。刃と刃がぶつかり合う甲高い音が、狭い店内に響き渡った。
「あら?」ニイナは本当に驚いたようだった。「この前は隙だらけだったのに。ちょっとはマシになったわね」
次の瞬間、彼女の刀身が炎に包まれた。黒い、禍々しい炎。ガレスは電撃の法力で対抗しようとしたが、ニイナは軽々と剣をひねり、その切っ先をガレスの肩に突き立てた。
「あぐっ!」
激痛がガレスを襲う。血が服を赤く染めていく。
「ほら、早く言った方がいいわよ」ニイナの声は相変わらず感情がない。「いい人だし、殺したくはないから」
「見つけたぞ!」
聞き慣れた声が店の入口から響いた。メルベルだ。彼は同じ曲刀を抜いていたが、峰を返している。みねうちで制圧するつもりだ。
ニイナはしなやかに身をひねり、メルベルの一撃を躱した。そして猫のような身軽さで、店の外へ飛び出す。メルベルも追う。
大通りでの戦いが始まった。
メルベルはすぐに悟った。この少女は只者ではない。身のこなし、剣技、すべてが一流を超えている。普通の神殿戦士なら、一瞬で命を落とすだろう。
(どうやって無傷で捕まえる?)
妻にあまりにも似た顔。その愛しい娘が、鋭く剣を振るってくる。メルベルは峰打ちで応じ、あるいは素手での制圧を試みた。関節を極めて、気絶させる。それが最良の方法だ。だが少女は懐の短刀で、接近戦を巧みに封じる。
メルベルの肩に、かすり傷が走った。血が滲む。
(このままじゃ、こちらがやられる)
だが、それでもメルベルは本気を出せなかった。目の前の少女に、別の姿が重なって見える。十五年前、自分の腕の中でリュートの音色を不思議そうに聞いていた、小さな娘。舌足らずな声で「パパ」と呼んでくれた、あの愛しい子。
今なら組み伏せることも、武器を弾き飛ばすことも可能だった。しかし、あの小さな手が重なって見える。万が一にも傷つけてはいけない。その思いが、攻撃の速度を明らかに鈍らせる。
「誰か!」
メルベルが叫ぶと、巡回中の兵士たちが駆けつけてきた。ニイナは舌打ちした。
「メルベル・ボム。父を殺した戦士と聞いたけど、ずいぶん腑抜けね。母の話もあてにならないわ」
彼女は駆けつけてきた兵士にダガーを投げた。二本のダガーが、二人の兵士の太ももに深々と突き刺さる。動脈を正確に貫いていた。血が噴水のように噴き出し、兵士たちは悲鳴を上げて倒れる。
「ひっ!」
通行人の女性が悲鳴を上げた。大通りは一瞬にして修羅場と化す。
アザリアが剣を抜いて駆けつけてきた。ニイナはそれを見て、また舌打ちする。
「話の通り、卑怯な奴ね」
少女は人間離れした跳躍力で、建物の屋根に飛び乗った。法力による身体強化。相当な使い手だ。
メルベルも屋根に飛び乗り、追跡を開始する。だが体重差は如実に現れた。メルベルが着地するたびに瓦が砕け、屋根が崩れる。ニイナは羽のように軽やかに、屋根から屋根へと飛び移っていく。
やがて少女の姿は、複雑に入り組んだ下町の路地に消えた。
メルベルは拳を握りしめた。取り逃がしてしまった。無傷で捕まえる最初のチャンスを逃した。だが予知夢が頭をよぎる。あの夢の中で見た光景……いや、あんな未来は絶対に起こさせない。必ず娘を無事に取り戻す。
「メルベル!」
アザリアが追いついてきた。その顔は青ざめているが、決意に満ちていた。
「逃げられた……でも、必ず見つける」
「ああ」メルベルは頷いた。「次は必ず、無傷で捕まえる」
「ガレスが怪我を」
二人は急いで鍛冶屋に戻る。娘を取り戻す戦いは、始まったばかりだった。運命の歯車は回り始めているが、まだ変えられるはずだ。必ず、家族全員で幸せになる道があるはずだ。




