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第二話「酒場の騒動」



昼下がりの『銀の鈴』は、いつものように賑わっていた。


メルベルはリュートを抱え、客たちの前で大仰に一礼した。今日もエクリスとして、気楽な一日を過ごすつもりだった。


「さて、次は何を歌いましょうか!」


芝居がかった口調で問いかける。手紙の内容が頭をよぎった。リーナが泣いている、か。少し気の毒だとは思う。しかし、都に戻れば、また面倒な立場に戻されるだろう。


そうだ、と彼は思いついた。ギシュガルとの戦いで不具になったと言えばどうだろう。剣も持てない体になったと。それなら復帰を断る理由になる。


「おい、エクリス!『臆病者メルベルの大逃走』を頼む!」


常連客の声に、メルベルは笑顔で応えた。


「承知しました!では、特別に情感たっぷりに!」


リュートを掻き鳴らし始める。母もアザリアも、自分のせいで不名誉を被っている。ナブの話に乗るのも、悪くないかもしれない。そんなことを考えながら、自分の悪評を楽しげに歌い上げた。


その頃、ガルム村のアジョラの屋敷では、別の騒動が起きていた。


「あのイタズラ野郎はどこですか!」


ナブが玄関で声を荒げていた。その顔は鬼気迫るものがあり、後ろに立つリーナは、憔悴しきった表情をしていた。目の下の隈は深く、頬もこけている。


アジョラとアザリアは顔を見合わせた。


「あら、ナブ。そんなに怒鳴らなくても」


「怒鳴りたくもなります!メルベルはどこです!」


「メルベルなら、仕事で街に」


「仕事?何の仕事です?」


アザリアが口を開きかけたが、リーナの顔を見て言葉を飲み込んだ。本当に疲れ果てている。毎日泣いているというのも、嘘ではなさそうだった。


「リーナ、大丈夫?」


「大丈夫じゃありません」


リーナの声は掠れていた。


「毎日、毎日、『お前がメルベルを殺して成り代わった』『ルカヴィの陰謀だ』って……もう限界です」


アジョラは溜息をついた。確かに、これは息子のわがままが過ぎる。


「申し訳ありません。実は、メルベルは街で吟遊詩人をして暇を潰しているんです」


「は?」


ナブが目を丸くした。


「吟遊詩人?」


「ええ、エクリスという偽名で」


「なんだそれは!?」


ナブの顔が真っ赤になった。


「あいつは、俺たちがこんなに苦しんでいるのに、吟遊詩人だと!?」


「どこの酒場ですか」リーナが静かに、しかし怖いほど冷たい声で聞いた。


「『銀の鈴』という店です」


ナブとリーナは、すぐに踵を返した。


「待って、ナブ」アジョラが声をかけたが、二人は振り返らなかった。


酒場『銀の鈴』では、メルベルの歌が最高潮に達していた。


「さあ、みなさん!一緒に!」


千年王を前にして

震え上がった臆病者

剣を捨てて逃げ出した

メルベル、メルベル、腰抜けメルベル!


客たちが大合唱する。銅貨が次々と投げられる。メルベルは時間を忘れて楽しんでいた。こんな気楽な生活も悪くない。


「次は『英雄ナブと聖女リーナ』を頼む!」


若い商人がリクエストした。


「お互いを助け合う、あの感動的な歌だ!」


「素晴らしい選曲!」


メルベルは新しい旋律を奏で始めた。


英雄ナブと美しきリーナ

二人で支え合い、道を切り開く

民のために、正義のために

手を取り合って――


その時、酒場の扉が勢いよく開いた。


逆光の中、二つの人影が立っていた。一人は大柄な男、もう一人は小柄な女性。店主のバルトが、その姿を見て顔を青ざめさせた。


「な、ナブ様……リーナ様……」


酒場がざわめいた。神殿の頂点に立つ二人が、こんな田舎の酒場に現れるなど、前代未聞だった。


ナブの額には青筋が浮かび、リーナは憔悴した顔で、しかし鋭い視線を店内に向けていた。


「吟遊詩人はどこだ」


ナブの声は、静かだが恐ろしいほど冷たかった。


「言わないと、ためにならんぞ」


バルトは震え声で答えた。


「吟遊詩人?エ、エクリスですか?ほら、今あそこに……」


ナブの視線が、ステージに向けられた。


「なるほどな。そう名乗っているわけか」


怒りを押し殺したような声だった。バルトが恐る恐る聞いた。


「あ、あの、奴は何かしでかしたんですか?」


「重罪人だ」


ナブは笑顔で答えた。しかし、その笑顔は凍りつくように冷たかった。


ステージでは、メルベルがまだ歌い続けていた。興が乗ってきて、リュートを激しく掻き鳴らしている。周りの異変に、まったく気づいていない。


「英雄の中の英雄!それがナブ様!」


歌いながら、大げさな身振りをする。


「そして美しき聖女リーナ!二人の愛は永遠に!」


客たちが、ステージと入り口を交互に見始めた。


「あ、あれって……」


「本物の、ナブ様と……」


扉の外から、武装した神殿戦士たちがゾロゾロと入ってきた。十人、二十人、三十人。狭い酒場が、物々しい雰囲気に包まれる。


それでもメルベルは気づかない。目を閉じて、感情を込めて歌い上げる。


「ああ、なんと素晴らしい二人!まさに理想の――」


肩を叩かれた。


メルベルが振り返る。そして、顔が青ざめた。


ナブが、鬼の形相で立っていた。


「いい歌だな」


ナブの声は、恐ろしいほど穏やかだった。


「私もリクエストしていいか?」


後ろには、信じられないという顔でリーナが立っている。その目には、怒りと、悲しみと、呆れが入り混じっていた。


メルベルは反射的に、観客に向かって両手を広げた。


「みなさん!この気前のいい旦那に拍手を!」


しかし、誰も拍手しなかった。酒場は騒然としている。


ナブの手が、メルベルの襟を掴んだ。


「メルベル、貴様ぁ!」


怒りが爆発した。


「今すぐ都に来い!お前のせいでリーナがどんな目に遭ったか分かるか!?」


メルベルは必死に小声で囁いた。


「よ、よせ!俺はここではエクリスで通ってんだ!二度と仕事ができなくなるだろ!」


愛想笑いを浮かべながら、周りの客に手を振る。しかし、その言葉が逆鱗に触れた。


「仕事?」リーナの声が響いた。「あなたが歌を歌って遊んでいる間、私たちがどれだけ苦しんだと思ってるの!?」


「そんな事情、知ったことか!」


ナブが吼えた。


「おい、お前ら!こいつを捕まえろ!」


神殿戦士たちが一斉に動き出した。


「待て、待て!話を聞け!」


メルベルが叫ぶが、もう遅かった。


酒場は大混乱に陥った。逃げようとする客、巻き込まれまいと壁際に逃げる者、面白がって野次を飛ばす者。テーブルがひっくり返り、酒瓶が割れ、怒号が飛び交う。


「何だ、何だ!」


「吟遊詩人が重罪人だって!?」


「エクリスが捕まるぞ!」


誰かが誰かを突き飛ばし、それが別の誰かにぶつかり、殴り合いが始まった。


「俺の酒が!」


「誰だ、俺を殴ったのは!」


あちこちで乱闘が勃発する。


バルトが頭を抱えて叫んだ。


「店が!俺の店が!」


メルベルはナブに掴まれたまま、必死に弁解しようとした。


「ナブ、落ち着け!ここで騒ぎを起こすな!」


「お前が言うな!」


「リーナ、話を聞いてくれ!俺には事情が」


「事情?」リーナの目が光った。「私たちの事情は?毎日、毎日、嘘つき呼ばわりされて、ルカヴィの手先と罵られて!」


椅子が飛び、皿が砕け、悲鳴が上がる。


「表に出ろ、表に!」


「なんだと、やるのか!」


酒場の騒動は、もはや収拾がつかなくなっていた。


その混乱の中心で、メルベルは観念したように溜息をついた。


「分かった、分かった。都に行けばいいんだろ」


「最初からそう言え!」


ナブが怒鳴る。


しかし、騒動はもう止まらない。『銀の鈴』の平和な昼下がりは、完全に崩壊していた。


窓から逃げ出そうとする客、それを止めようとする神殿戦士、巻き込まれて転ぶ給仕、割れる食器、飛び交う罵声。


メルベルは、自分が積み上げてきた吟遊詩人エクリスとしての生活が、音を立てて崩れていくのを見ていた。


「分かった、もういい」


諦めたように呟いた瞬間、神殿戦士たちが殺到してきた。


「確保!」


両腕を掴まれ、がっちりと拘束される。逃げる隙間もない。


「おい、そんなに乱暴にするな」


メルベルが抗議するが、戦士たちは聞く耳を持たない。


「黙って来い」


ナブが冷たく言い放つ。


「これから都まで、たっぷり話を聞かせてもらうからな」


リーナも疲れ切った顔で頷いた。


「もう逃がしません」


メルベルは引きずられるように酒場から連れ出された。最後に振り返ると、バルトが呆然と立ち尽くし、壊れた店内を見回していた。


外には、さらに多くの神殿戦士が待機していた。完全に逃げ場はなかった。

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