第十九話「忍び寄る運命」
夕暮れの鐘が鳴り終わってから、かなりの時間が経っていた。
宿の入り口で、メルベルが腕を組んで待っていた。その表情は、いつものような厳しさではなく、何か考え込むような複雑なものだった。
「遅い」
一言だけ言って、メルベルはガレスの両手を見た。新しい靴が二足、包帯の束、薬草の小袋、携帯食料の包み。ガードとして必要な物資が、きちんと整理されて抱えられている。
ガレスは叱責を覚悟した。肩を縮め、言い訳を考える。しかし、メルベルは何も言わなかった。
「先生、遅くなってすみません。靴屋が思ったより遠くて……」
「荷物は揃えたようだな」
メルベルの声は、いつもより穏やかだった。むしろ、どこか満足そうですらある。
(ガードとしての責任感が芽生えてきたか)
メルベルは内心で思った。本来なら、巫女を先に返したことは褒められたものではない。護衛は常に巫女と共にあるべきだ。しかし、少年なりに優先順位を考え、必要な準備を整えたことは評価に値する。
「次からは、巫女と一緒に戻れ。護衛の基本だ」
「はい、肝に銘じます」
それだけの短い会話で、メルベルはアザリアと共に階段を上っていった。二人の後ろ姿を見送りながら、ガレスは首を傾げた。
(怒られなかった……むしろ、認められた?)
部屋に入ると、アルマが心配そうな顔で待っていた。
「遅かったじゃない。メルベル先生に怒られた?」
「いや、意外にも何も言われなかった」
「へえ、珍しい」
アルマは兄の顔をじっと見つめた。そして、気づいた。
「ちょっと、何その顔?」
「え?」
「にやけてる。気持ち悪い」
ガレスは慌てて頬を押さえた。確かに、口元が緩んでいる。
靴屋で出会った少女のことが、頭から離れないのだ。金髪碧眼の、ミステリアスな巫女。思い出すと、胸の奥が温かくなる。あの冷たい笑みも、最後に見せた本当の笑顔も、全てが印象的だった。
(年上かな?同い年くらいかな?)
あの落ち着いた物腰、堂々とした態度。きっと、数え切れない冒険を経験してきたに違いない。一人でエリドゥから旅をしてきたなんて、どれほどの実力者なのか。
「おーい、兄さん」
アルマが手を振る。
「聞いてる?」
「あ、ああ、悪い」
「何考えてたの?まさか……」
アルマの目が細くなった。探るような、意地悪な視線。
「実はな……」
ガレスは観念して、妹と別れた後の出来事を話し始めた。
靴屋での出会い。素足の巫女。削られた認識票。そして、圧倒的な聖火の力。
「私は流れの巫女よ」という謎めいた自己紹介。エリドゥから来たという信じがたい話。ガードが死んだという衝撃的な告白。
話を聞くうちに、アルマの表情がころころと変わった。驚き、興味、そして……。
「なにそれ!」
アルマの目がきらきらと輝いた。
「すごい!まるで小説みたい!」
しかし、すぐに頬を膨らませた。
「って、兄さんだけずるくない!?」
「何がずるいんだよ」
「私が宿で恋愛小説読んでた時に、そんな生の体験してたなんて!」
アルマは悔しそうに足を踏み鳴らした。
「『運命の出会い』『謎めいた美少女』『守ってあげたい衝動』……完璧じゃない!」
彼女は指折り数えた。流れの巫女とガードの出会い——それは、まさに人気小説の王道設定だった。実際、彼らの教官であるアザリアとメルベルの冒険譚も、似たような出会いから始まったという。
「ロマンスの香りがぷんぷんする!許せない!」
「別にロマンスとかじゃ……」
「じゃあ何?ただの親切?」
「そ、それは……」
ガレスは言葉に詰まった。
確かに、ただの親切以上の何かを感じていた。あの少女の姿を思い出すと、なぜか懐かしいような、守りたいような、不思議な感情が湧き上がる。
「顔、赤いよ」
「う、うるさい」
その夜、ガレスはなかなか眠れなかった。
ニイナという名前が、頭の中で響いている。また会えるだろうか。神殿で待っていてくれるだろうか。
(明日、聖火受領が終わったら、神殿に寄ってみようかな)
そんなことを考えながら、ようやく眠りについた。
翌朝、アルマは覚悟を決めた表情で聖火受領の祠に向かった。
「今日こそ、ちゃんとやります」
控えの巫女に宣言すると、祠の前に座った。
今度は演技ではない。真剣に、しかし力を抜いて、自然体で聖火と向き合った。二週間の地獄のような訓練が、確実に実を結んでいる。
手をかざすと、すぐに温かい感覚が広がった。聖火が優しく応え、白い光が祠を包み込んでいく。
「あら……」
控えの巫女が驚きの声を上げた。
「昨日までのあの苦労は何だったの?」
わずか三十分で、受領は完了した。
「やればできるじゃない」
控えの巫女が感心したように言った。
「昨日までの苦労が嘘みたいね。一晩で急成長したの?」
「一晩考えて、コツを掴んだみたいです」
アルマは苦笑しながら答えた。本当は最初からできたのだが、それは秘密だ。
アザリアとメルベルは、少し離れた場所で見守っていた。
「今日また引き延ばしたら、本気で怒るつもりだったけど」
アザリアが小声で言った。その手には、既に説教用のメモが握られている。
「休暇に満足したんだろう」
メルベルが肩をすくめた。
「まだ子供だもの」アザリアは苦笑した。「私たちだって、疲れたら酒場で一服したでしょう?覚えてる?バビロンの時、あなた三日も二日酔いで……」
「その話はやめろ」
「ふふ、でも時間がないのは事実ね」
「そうだ」メルベルの表情が引き締まった。「ニイナは、もうすぐ……」
「分かってる」
アザリアの目に、不安の色が宿った。
ウルクを出発し、次の街へと向かう街道を歩き始めた。
朝の空気は爽やかで、鳥のさえずりが聞こえる。平和な旅のように見えるが、メルベルとアザリアの心は重かった。
「準備はしっかりできているな」
メルベルが、ガレスの背負った荷物を見て頷いた。綺麗に整理され、すぐに取り出せるように工夫されている。
「ありがとうございます」
褒められて、ガレスは嬉しそうに背筋を伸ばした。
「調子に乗るな」メルベルがすぐに釘を刺す。「まだまだひよっこだ」
「は、はい」
歩きながらの訓練も、二人はだいぶ慣れてきていた。
アルマは聖火を維持しながら歩く。以前は十秒が限界だったが、今は五分は持つようになった。手のひらの火傷も、薄皮ができて痛みに慣れてきている。
ガレスは重い荷物を背負いながら、常に周囲を警戒する訓練。どこから敵が来ても対応できるよう、意識を研ぎ澄ませる。
「まだまだ甘い」
「集中力が足りない」
時折飛ぶ叱責も、以前ほど厳しくない。むしろ、励ましのようにすら聞こえる。
昼過ぎ、木陰で小休憩を取っていた時、ガレスが思い切って口を開いた。
「そういえば、先生」
「何だ」
「流れの巫女って、本当にいるんですか?」
メルベルは水筒の水を飲みながら答えた。
「そこら中にいた。俺の時代はな」
「え?」アザリアが呆れたように横を向いた。「それは二十年も前の話でしょう。今はほとんどいないわよ」
「そうなのか?」
メルベルが意外そうに聞き返す。
「ええ。神殿の管理システムが確立されてから、野良の巫女なんてほぼ絶滅したの」
アザリアは苦笑しながら続けた。
「今時そういうのを名乗るのは、たいていモグリか詐欺師ね。能力もないのに巫女のふりをして、お金だけもらって逃げちゃうような」
「なるほど、時代は変わったな」
「見たのか?」
メルベルが急にガレスの方を向いた。
「見ました」ガレスは頷いた。「昨日、街の靴屋で会いました」
そして、詳しく説明を始めた。
「靴が買えなくて困っていたみたいで、ボロボロの中古品を買おうとしていたんです。見ていられなくて、新しい靴を買ってあげました」
「善い行いだが」メルベルは眉をひそめた。「相手が偽物だったらどうする」
「騙されたかもしれないってことですか?」
「よくある手口だ」アザリアも頷いた。「可哀想な巫女を演じて、優しい若者から金を巻き上げる」
「でも、聖火が使えたんです」
ガレスは必死に説明した。少女が見せた聖火の美しさ、その圧倒的な力、自在に操る技術。
「手のひらに白い炎を灯して、それを自分の周りに踊らせて……まるで生きているみたいでした」
「へえ」アザリアが興味深そうに身を乗り出した。「それは本物ね。でも、なぜ神殿に来ないのかしら」
「犯罪歴があるとか?」メルベルが推測した。
「あるいは、田舎者すぎて現在の制度を知らないとか」
「借金から逃げてるとか」
「親に内緒で家出したとか」
二人の教官が様々な可能性を挙げていく。
「どこから来たって言ってた?」アルマが聞いた。
「エリドゥの近辺から」
一同が息を呑んだ。
「エリドゥ?」
「まさか」
「あそこは廃墟じゃない」
「アンデッドだらけの危険地帯から、一人で?」
「信じられない」
メルベルの表情が真剣になった。
「名前は聞いたのか?」
「はい」
「なんという名前だ?身元が分かれば、保護の手配ができる」
アザリアも身を乗り出した。
「そうね、危険な子かもしれないけど、放っておくわけにもいかないわ」
ガレスは記憶を辿りながら言った。
「確か……ニイナと言っていました」
空気が変わった。
「姓は?」アザリアの声が震えている。
「カーカラシカです。ニイナ・カーカラシカ」
世界が止まったような静寂。
メルベルの顔から血の気が引いていく。アザリアの手が、小刻みに震え始めた。
「なんて言った?」
メルベルの声は、かすれていた。
「ニイナ・カーカラシカです。変な名前ですよね」
「どんな……どんな見た目だった?」
アザリアが必死に平静を装いながら聞いた。しかし、その声は明らかに上擦っている。
「えーっと、金髪で、青い瞳で……」
ガレスは言いながら、ふとアザリアを見た。そして、はっとした。
「あ、そういえばアザリア様にそっくりです!」
驚きの声を上げる。
「顔立ちも、雰囲気も、なんか似てるなあ。親戚か何かですか?」
アザリアが小さく息を呑む音が聞こえた。
「可愛かったですよ!」
ガレスが無邪気に付け加えると、アルマが横から茶化した。
「へー、兄さんったら。一目惚れ?」
「違うって!」
「でも顔赤いよ」
「うるさい!」
兄妹の言い合いを他所に、メルベルとアザリアは顔を見合わせていた。その表情は、恐怖と驚愕と、そして深い悲しみが入り混じっている。
「他に何か特徴は?」
メルベルが絞り出すような声で聞いた。
「ああ、そういえば」ガレスは思い出した。「錫杖じゃなくて剣を持ってました」
「剣?」
「はい。メルベル先生と同じような曲刀です。古い様式の」
メルベルの拳が、ぎゅっと握りしめられた。
「巫女が剣を持つなんて、変ですよね。やっぱり正規の巫女じゃないんでしょうね」
その時、アザリアの体が揺れた。
額に手を当て、苦しそうに眉をひそめる。まるで激しい頭痛に襲われたように、顔を歪めた。
「アザリア!」
メルベルが慌てて支える。
「先生!大丈夫ですか!」
ガレスとアルマが駆け寄った。
「平気、平気よ……ちょっと、立ち眩みが」
アザリアは弱々しく手を振った。しかし、その顔は蒼白で、額には冷や汗が浮いている。
「水を」
メルベルが指示すると、アルマが慌てて水筒を差し出した。
アザリアは震える手で水を受け取り、一口飲んだ。そして、メルベルと目を合わせた。
二人の間で、無言の会話が交わされる。
(接近してきている)
(予知夢の通りだ)
(どうする?)
(まだ時間が足りない)
「休憩しましょう」
アザリアが提案した。声はまだ震えている。
「でも、まだ昼過ぎですよ」アルマが不思議そうに言った。「いつもならあと三時間は歩くのに」
「今日は特別だ」
メルベルの声には、有無を言わせない響きがあった。
近くの大きな樹の下に腰を下ろした。
アザリアは木に寄りかかり、目を閉じている。その表情は苦しそうだ。
「本当に大丈夫なんですか?」
ガレスが心配そうに聞いた。
「ええ、少し休めば」
しかし、誰が見ても、それが嘘だと分かった。
メルベルは、腰の剣に手を置きながら、周囲を警戒していた。まるで、見えない敵を探しているように。
「先生」
ガレスが声をかけた。
「あの、ニイナって名前に、何か心当たりが?」
メルベルとアザリアが、同時にびくりとした。
「い、いや」メルベルは慌てて首を振った。「ただ、珍しい名前だと思っただけだ」
「カーカラシカって姓も、聞いたことがない」
「そうね」アザリアが苦しそうに微笑んだ。「エリドゥの方の古い家系かもしれないわ」
しかし、二人の動揺は隠しきれていなかった。
(十三年ぶりに、娘の名前を聞いた)
アザリアは、胸の奥が張り裂けそうだった。
(しかも、息子の口から)
運命の皮肉さに、涙が出そうになる。
(カーカラシカ……ギシュガルの姓を名乗るなんて)
明らかな挑発だ。敵は、ニイナを武器として育て上げ、今、その刃を向けようとしている。
「兄さん」
アルマが小声で言った。
「なんか、変じゃない?先生たち」
「ああ……」
ガレスも同じことを感じていた。
あの名前を聞いた途端、二人の様子が一変した。まるで、恐ろしい知らせを聞いたように。
(もしかして、その子、危険人物なのかな)
ガレスは不安になった。でも、あの少女が悪い人には見えなかった。最後に見せた笑顔は、本物だったはずだ。
日が傾き始めた頃、ようやく旅を再開した。
しかし、雰囲気は重いままだった。メルベルとアザリアは、時折意味ありげな視線を交わし、小声で何か話し合っている。
「急ぐぞ」
メルベルが突然言った。
「次の街まで、休憩なしで行く」
「え?でも……」
「いいから」
有無を言わせない口調に、ガレスとアルマは黙って従った。
夜道を急ぎ足で進みながら、メルベルは考えていた。
(ニイナが動き始めた。予知夢の時が、近づいている)
隣を歩くアザリアも、同じことを考えているだろう。
(まだ、ガレスとアルマは準備ができていない)
このままでは、予知夢の通りになってしまう。
(なんとか、時間を稼がなければ)




