第十六話「地獄の日々」
三日目の朝、アルマは手のひらを見つめていた。
水ぶくれが破れ、皮がめくれている。聖火の訓練で、文字通り手が焼けていた。
「どうしたの?」
アザリアが覗き込んでくる。その笑顔は優しいが、アルマにはもう悪魔の微笑みにしか見えなかった。
「あ、いえ……大丈夫です」
「そう?でも、まだ聖火のコントロールが甘いわね」
アザリアは自分の手のひらに、小さな白い炎を灯した。それは安定して、まるで宝石のように美しく輝いている。
「これを最低でも三十分は維持できないと、実戦では使い物にならないわ」
「さ、三十分!?」
アルマは絶望した。今の自分は、十秒維持するのがやっとだった。
「じゃあ、今日も練習しましょうか」
その言葉と共に、地獄の一日が始まった。
歩きながらの訓練は、想像を絶する過酷さだった。
「はい、聖火を出して。大きさはこのくらい」
アザリアが親指大の炎を示す。
「歩きながら維持して。揺らしちゃダメよ」
アルマは必死に集中した。しかし、歩く振動で炎が揺れる。集中が途切れ、炎が消える。
「もう一度」
「はい……」
何度も何度も繰り返す。手のひらが熱い。いや、焼けている。
「あの、少し休憩を……」
「アンデッドは休憩してくれないわよ」
アザリアの言葉は正論だった。しかし、限界というものがある。
一時間後、アルマは道端に倒れた。
「アルマ!」
ガレスが駆け寄ろうとしたが、メルベルに止められた。
「待て。これも訓練の一環だ」
アザリアがアルマの頬を軽く叩く。
「大丈夫?早く起きて」
優しい声。しかし、その笑顔は地獄のようだった。
「私なんて、最初は三日間意識を失ったものよ。あなたは優秀ね」
それが慰めになるとでも思っているのか。アルマは心の中で叫んだ。
一方、ガレスも別の地獄を味わっていた。
「昨日は少し大変だったな」
メルベルが朝から不吉なことを言い出した。
「今日は組手をしてみようか」
組手。それは格闘技のことだった。
「剣は使わないんですか?」
「剣を持てない状況もある。素手での戦いも重要だ」
そう言って、メルベルは構えた。
「来い」
ガレスは慎重に間合いを詰めた。学校では組手でも優秀な成績を収めていた。
(今度こそ……)
次の瞬間、世界が回転した。
背中から地面に叩きつけられ、肺から空気が全て抜けた。
「一回目」
立ち上がろうとすると、足を払われてまた転ぶ。
「二回目」
起き上がりかけたところで、肩を掴まれて投げ飛ばされる。
「三回目」
延々と続く。まるで人形のように、投げられ、転がされ、地面と親しくなっていく。
「痛い……」
「痛いのは生きている証拠だ」
メルベルは容赦なかった。
夕方、宿に着いた時、二人はもう限界だった。
「これ、虐待じゃない?」
アルマが部屋でぐったりしながら言った。
「間違いなく虐待だ」
ガレスも全身があざだらけで、まともに動けない。
「逃げる?」
「どこに?」
二人は顔を見合わせた。
「でも、このままじゃ本当に死ぬかも」
「うん……」
夜、二人は密談を始めた。
「今なら、まだ引き返せる」アルマが提案した。「『体調不良で巡礼を中断しました』って言えば……」
「父さんと母さんに、何て説明する?」
ガレスの言葉に、アルマは黙り込んだ。
「『メルベル様とアザリア様の訓練がきつすぎて逃げました』なんて言えるか?」
「……言えない」
両親の顔に泥を塗ることになる。神殿戦士の頂点であるナブと、現聖女のリーナの子供が、訓練から逃げ出したなんて知れたら、両親の立場はどうなるか。
「でも、本当にきつい」
アルマが涙目になった。
「分かってる」
ガレスも限界だった。全身が痛み、明日また同じことをされると思うと、恐怖で震えそうになる。
その時、廊下から話し声が聞こえてきた。
「やりすぎじゃない?」
アザリアの声だ。
「お前こそ、手加減しろ」
メルベルの声。
「私は手加減してるわよ」
「俺もだ」
「じゃあ、なんであの子たち死にそうな顔してるのよ」
「鍛えられてる証拠だ」
二人は廊下で言い合いをしているようだった。
ガレスとアルマは、扉に耳を押し当てた。
「でも、ガレスは……」
アザリアの声が急に小さくなった。
「何だ?」
「いえ、何でもない。とにかく、もう少し優しくしてあげて」
「お前が言うな」
足音が遠ざかっていく。
アルマが振り返った。
「今、何か言いかけなかった?」
「さあ……」
ガレスも気になったが、それどころではなかった。体が痛すぎて、考える余裕がない。
「とりあえず、もう少し頑張ってみよう」
ガレスが提案した。
「まだ三日目だし」
「三日目で、もう死にそうなんだけど」
「でも、ここで諦めたら……」
「分かってる」
アルマはため息をついた。
「第一期生のトップが、三日で音を上げたなんて、恥ずかしすぎる」
「そうだな」
二人は、ベッドに倒れ込んだ。
「明日も地獄か」
「うん、地獄だね」
「でも、生きて帰ろう」
「うん、絶対に」
窓の外では、星が瞬いていた。平和そうな夜空とは裏腹に、二人の若者は明日への恐怖と戦っていた。
「ねえ、兄さん」
「何だ?」
「もし私が死んだら、『訓練で頑張って死にました』って言ってね」
「縁起でもないこと言うな」
「あ、それと」アルマが急に真面目な顔になった。「私も机の中のものは見ないで焼いてくれる?」
「お前もかよ」
「兄さんこそ、さっき同じこと言ってたじゃない」
二人は、疲れているのに笑ってしまった。
「馬鹿みたいだな、俺たち」
「本当にね」
こうして、地獄の三日目が終わった。
まだ、巡礼は始まったばかりだった。一年という長い時間を思うと、気が遠くなりそうだった。
二人が寝静まった後、メルベルとアザリアは宿の屋上で密談していた。
「ニイナは確実に襲ってくる」メルベルが低い声で言った。「もう間近のはずだ」
アザリアは夜空を見上げながら頷いた。
「分かってる。予知夢の通りなら……」
「その時に、学校仕込みの甘い練習でニイナと戦わせてみろ」メルベルの声に苛立ちが滲む。「一秒で死ぬぞ」
「分かってるわよ」
「俺たちが嫌われても、力をつけさせないと死ぬ」メルベルは拳を握りしめた。「俺も命を捨てる覚悟はある。だが、俺たちがいない場所で襲われたら意味がない」
アザリアは深いため息をついた。
「あなたの言う通りね……もっと普通に練習させたいけど」
「あぁ」メルベルが苦笑した。「あんなぬるいやり方じゃすぐに力にならない」
「そうよね……」
二人の認識では、現在の訓練はかなり手加減したものだった。
「第一、木の剣だと緊張感がない」メルベルが続けた。「当たってもいいやという甘えが出る。慣れてきたら、刃を丸めた鉄剣での練習もさせたい」
「私もよ」アザリアが頷いた。「リーナとナブのお子さんだから、ちょっと遠慮してたけど……本当なら、手じゃなくて錫杖から増幅した聖火を出せるようにさせたい」
「錫杖か。確かに威力が段違いだな」
「でも、基礎ができてないと暴発する危険もあるのよね」
二人は、訓練スケジュールを練り直し始めた。
「来週からは、朝の走り込みを倍にしよう」
「聖火の維持時間も、段階的に延ばしていくわ。明日は十五秒、明後日は二十秒」
「剣術は、そろそろ型だけじゃなく実戦形式も入れる」
「浄化作業も、もっと大きな祠で練習させないと」
月明かりの下で、二人は真剣に話し合った。それは、まるで我が子の将来を案じる親のようだった。
「あの子たちには悪いけど」アザリアが呟いた。「これから、もっときつくなるわね」
「ああ」メルベルは頷いた。「だが、死ぬよりはマシだ」
二人は、遠くない未来に迫る脅威を感じていた。ニイナがどこかで、憎しみの戦士として育てられている。その時が来る前に、ガレスとアルマを強くしなければならない。
たとえ、鬼と呼ばれても。たとえ、恨まれても。




