第十二話「苦渋の決断」
産月が近づくにつれ、屋敷には重い緊張が漂っていた。
アザリアの精神的ショックが出産に影響しないか——その不安が、メルベルとアジョラ、そして医師の心を支配していた。ニイナを失ってから、アザリアは食事も喉を通らず、夜も眠れない日々が続いていた。
「このままでは、母子ともに危険です」
ハロルド医師の言葉が、メルベルの胸に重くのしかかる。
しかし、奇跡は起きた。
陣痛が始まってから十二時間。アザリアは苦しみながらも、無事に男の子を産み落とした。産声が屋敷に響いた瞬間、メルベルは膝から力が抜けそうになった。
「よかった……」
アザリアは疲れ切った顔で、しかし確かな愛情を込めて、生まれたばかりの息子を抱きしめていた。小さな命が、彼女の腕の中で力強く呼吸している。
アジョラも安堵の涙を流した。そして、すぐに行動に移した。
「今度という今度は、絶対に守り抜きます」
彼女の指示で、神殿戦士たちが屋敷の周囲に配置された。二十四時間体制の厳重な警戒態勢が敷かれた。
三日後、ナブが到着した。
「リーナは連れてこなかったのか?」メルベルが聞く。
「ああ」ナブは苦笑した。「実は、リーナも妊娠していてな。この長旅は無理だと判断した」
「そうか、おめでとう」
しかし、祝いの言葉もすぐに重い空気に飲み込まれた。
ナブはアザリアの前に膝をついた。かつて聖女と呼ばれた彼女に、深く頭を下げる。
「今回のことは、言葉もありません。我々神殿の不手際です」
そして、顔を上げて真っ直ぐにアザリアを見つめた。
「ニイナさんのことは、我々が総力を挙げて探しています。必ず、必ず見つけてみせます」
アザリアは弱々しく頷いた。その腕の中で、赤子が小さく身じろぎする。
「この子の名前は」メルベルが静かに言った。「ガレスにしようと思う」
アジョラが驚いて振り返った。アザリアも困惑の表情を浮かべる。
「父の名前を継がせたい」メルベルは続けた。「偉大な戦士だった父のように、強く生きてほしい。いけないか?」
アザリアは少し迷ったが、やがて小さく頷いた。
「いいわ……あなたの父上の名前なら」
アジョラは感激で目を潤ませた。
「ガレス……素晴らしい名前です」
彼女はアザリアの手を取った。温かい手のひらが、震える手を包み込む。
「とても辛い思いをしましたね」
姑としての、そして同じ母としての優しさが滲む声だった。
「今のように戦士たちを常駐させておけば、ニイナを奪われずに済んだ。祖母として、私の至らなさがあなたを苦しめています。どうか、許してください」
「そんな……」アザリアは首を振った。「お義母様のせいではありません」
それでも、腕の中の新しい命を見つめる彼女の顔には、かすかな安堵が浮かんでいた。
ナブが提案した。
「では、このまま警戒態勢を続けましょう。二度と同じことは起こさせません」
「それはしなくていい」
メルベルの言葉に、全員が驚いた。
「何を言っている?」ナブが眉をひそめた。「いつまた襲撃があるか分からないのに、それは無理な相談だ」
メルベルはナブの肩を叩いた。そして、爆弾のような言葉を投下した。
「俺から頼みがある。この子を、お前の子として育ててくれ」
部屋が凍りついたように静まり返った。
「今からリーナの子供も生まれる」メルベルは続けた。「双子として生まれたと言えば、何の問題もない。世間は疑わないだろう」
「何を言っているの!?」
アザリアが叫んだ。必死にガレスを抱きかかえ、まるで誰かに奪われまいとするように身を縮めた。
「絶対に嫌!絶対に渡さない!」
彼女の悲鳴に呼応するように、ガレスも泣き始めた。
ナブも困惑していた。
「それは……現実的な話じゃない。アザリアさんに、これ以上の心労をかけるのか?」
「これが一番現実的な方法だ」
メルベルは予知夢のことを、少し脚色して話し始めた。
「俺は夢を見た。成長した息子の夢だ。その夢の中で、息子はお前の剣技を使っていた。十五かそこらの年齢だった」
ナブが息を呑む。
「少なくとも十五年間、お前の息子として育てれば、この子は生きていける。俺のように二十年以上とんでもない生活をしなくていい。神殿の頂点、エア・ナブの息子として、エリートとして生きていける」
メルベルの声が震えた。
「母さんみたいに『息子が死んだ』という嘘を、親父みたいにつかなくていい。今日はこれを言うために、お前を呼んだんだ」
アザリアに視線を向けると、彼女は息子を隠すように抱きかかえ、半身になって後ずさった。
「このままだと」メルベルは苦しそうに言った。「ガレスは……息子は、連中に殺される」
「やめて!」
アザリアが耳を塞いだ。涙が頬を伝い落ちる。
アジョラがすぐにアザリアの傍に寄り添った。
「アザリア、あなたには私のような辛い思いをしてほしくないの。息子を失う哀しみを、二十六年間も味わってほしくない」
「失ったようなものでしょう!」アザリアが叫んだ。「人でなし!あなたたちは人でなしよ!」
メルベルの顔が歪んだ。しかし、彼は引き下がらなかった。
「じゃあどうする!」
彼の声が部屋に響いた。
「数年間、監視付きの生活をして、ある日あの連中が襲ってくる。その時、息子は攫われるか、殺される。お前はそれでいいというのか!」
アザリアは両手で耳を塞ぎ、泣きじゃくった。
「嫌……嫌よ……」
彼女の嗚咽が、部屋に響く。ガレスも母の不安を感じ取ったのか、激しく泣いている。
ナブが重い口を開いた。
「メルベル、本気なのか?」
「ああ」メルベルは頷いた。「これしか方法はない」
「でも、リーナが……」
「ナブ、悪いが引き受けてくれ」メルベルは深く頭を下げた。「リーナにもアザリアにも悪いが、息子を生き永らえさせるには、これしかないんだ」
長い沈黙が流れた。
窓の外では、夕陽が山の端に沈もうとしている。オレンジ色の光が、涙に濡れた人々の顔を照らしていた。
「時間をくれ」
ナブがようやく口を開いた。
「こんな重大なこと、すぐには決められない」
メルベルは頷いた。しかし、その目には揺るぎない決意が宿っていた。
「時間はない。敵はすでに動いている」
アザリアは、震えながらガレスを抱きしめていた。小さな命が、母の腕の中で無邪気に眠り始めている。この子が将来、姉と殺し合うことになるなど、誰が想像できるだろうか。
「私たちは」アジョラが静かに言った。「運命と戦っているのです」




