第十話「奪われた光」
夜明け前、メルベルはまだ眠れずにいた。
予知夢の光景が頭から離れない。あの夢の中で、自分は何を考えていたか。この腕の中にいる小さな娘——ニイナの温もりを感じるだけで、全身が甘い感覚に包まれる。自分の血を引いているという事実だけで、心が満たされる。アザリアに似た愛らしいこの子の、その小さな手首を……。
(いや、無理だ。事故でも不可能だ)
メルベルは頭を振って、恐ろしい考えを追い払った。
朝になり、リュートを手に取った。静かな旋律を奏で始めると、ニイナが興味深そうに近づいてきた。
「ぱぱ、それ!」
小さな手が弦に触れ、びんびんと適当に音を鳴らし始める。その無邪気な姿を見て、突然、予知夢の光景がフラッシュバックした。
黒い甲冑を着た少女が、同じようにリュートを……いや、それは剣だった。剣を振るう姿が重なって見えた。
メルベルの顔が恐怖に歪む。
「ひっ」
ニイナが父の表情を見て、怯えたように泣き始めた。
「どうしたの?」
アザリアが慌てて駆け寄ってきた。泣いているニイナを見て、メルベルを睨む。
「弦で手でも切ったのかしら?」
「い、いや……そうなのかな?ごめんよ、ニイナ」
メルベルは震える手で、娘の頭を撫でた。柔らかい金髪が指の間を滑る。この手が、いつか……。
朝食の後、ナブとリーナが帰り支度を始めた。
「じゃあ、私たちはこれで」ナブが言った。「また何かあったら連絡してくれ」
「ああ、ありがとう」
二人を見送りながら、アザリアが呟いた。
「あの二人、まだなのかしらね?子供のこと」
アジョラが穏やかに答える。
「他人の家の都合ですからね。でも、そんな話もすぐに聞けるでしょう」
メルベルは気もそぞろに言った。
「じゃあ、仕事に行ってくる」
ワイン農園での作業は、いつもより長引いた。夕暮れ時、西の空が赤く染まり始めた頃、メルベルは鍬を置いて額の汗を拭った。
(今日は遅くなったな)
その時だった。
家の方角から、奇妙な気配が漂ってきた。風に乗って、かすかに悲鳴と——歓声?——が聞こえてくる。
「何だ?」
次の瞬間、メルベルの全身に悪寒が走った。
「しまった!」
鍬を放り捨て、全速力で走り始める。
村の入り口で、不穏な人影が見えた。黒装束の集団が、村の従業員たちを襲っている。
「くそっ!」
メルベルは躊躇なく飛び込んだ。素手のまま、最初の男の首を掴んで捻る。鈍い音と共に、男が崩れ落ちた。
「メルベル様!」
村人が叫ぶ。
「屋敷が!屋敷が危ない!」
集団がメルベルに群がってくる。明らかに足止めが目的だ。メルベルは怒りに任せて、素手で次々と敵を倒していく。骨が砕ける音、血が飛び散る音。しかし、時間が惜しい。
「邪魔をするな!」
最後の一人を殴り倒し、メルベルは屋敷へと駆けた。
屋敷は騒然としていた。
玄関の扉は破られ、中からは戦闘の音が響いている。メルベルが飛び込むと、アジョラが飾っていた斧を振るって、侵入者たちを次々と殺害していた。
「おのれ!私の孫に手を出すとは!」
かつての聖女の戦闘力は健在だった。斧が弧を描くたびに、血しぶきが舞う。
メルベルも戦闘に加わった。今度は躊躇しない。家族を守るためなら、何人でも殺す。
殺戮が終わった。
床には十数体の死体が転がっている。メルベルは血まみれの手で、母に聞いた。
「アザリアは!?どうした!?」
アジョラの顔が青ざめた。
「アザリアは……無事です」
そして、うなだれて言った。
「ごめんなさい」
嫌な予感がした。メルベルは家の中を見回す。
奥の部屋で、アザリアが呆然と座り込んでいた。荒れ果てた部屋の中央で、膝を抱えて震えている。
「アザリア!」
メルベルは駆け寄って、妻を抱きしめた。体は無事だ。お腹の子も大丈夫そうだ。しかし……。
「ニイナは!?ニイナはどこだ!?」
アザリアの顔が歪んだ。涙が溢れ出す。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
項垂れて、同じ言葉を繰り返すだけだった。
アジョラが震える声で説明した。
「奇妙な集団が、あっという間に家を取り囲みました。その時、アザリアは庭でニイナが遊ぶのを見ていたのですが……」
「それで?」
「郵便屋が来たんです。アザリアがその郵便屋に注意を引かれている間に……誰かが……ニイナを……」
メルベルの血が凍った。
「連れ去られたのか」
「すぐに集団が現れて、襲ってきました。私たちは応戦しましたが……」
メルベルはすぐに剣を取りに走った。しかし、アジョラが止める。
「もう二十分も前のことです。新型の車両を持っていたようですから……今から追っても……」
メルベルの拳が壁を打った。石壁に亀裂が走る。
その時、神殿戦士たちが到着した。
「メルベル様!大丈夫ですか!」
「ニイナが……娘が攫われた」
戦士たちの顔が青ざめる。すぐに捜索隊が組織され、村中、そして周辺地域の捜索が始まった。
夜が更けても、メルベルは動き続けた。森を、道を、あらゆる場所を探し回る。しかし、手がかりは何もない。
「ニイナ!ニイナ!」
声が枯れるまで叫んでも、返事はない。
明け方、疲労困憊でメルベルが家に戻ると、アザリアはまだ同じ場所に座っていた。
「私のせいだ……私が目を離したから……」
「違う」メルベルは妻を抱きしめた。「違う、お前のせいじゃない」
しかし、心の奥で、恐ろしい考えが渦巻いていた。
予知夢は、こうして始まるのか。娘が攫われ、どこかで育てられ、やがて黒い甲冑の戦士となって戻ってくる。そして、これから生まれる息子と……。
「必ず取り戻す」
メルベルは震える声で誓った。
「必ず、ニイナを取り戻す」
窓の外で、朝日が昇り始めていた。新しい一日の始まりだが、メルベルの家族にとっては、長い悪夢の始まりだった。




