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第一話「落伍者」

メルベルとアザリアが千年王を討ち、帝国を築いてから十数年。

平和な時代が訪れたかに見えた。


だが、二人の娘ニイナは、2歳の時に敵に誘拐されていた。

「父の仇・メルベルを殺せ」と教え込まれ、

復讐の刃として育てられた少女。


一方、息子ガレスは、別の家の子として育てられ、

自分の本当の両親を知らない。


そして運命の日、ニイナは父を殺すため現れる。

その刃の先には、知らぬ間に生き別れた実の弟がいた。


兄妹は殺し合う運命なのか。

メルベルの予知夢は、悲劇の未来を告げていた。


血が血を呼ぶ悲劇の中で、家族は再び一つになれるのか。

# 第二部 第一話「夢見ぬ巫女」


酒場『銀の鈴』は、昼過ぎから賑わい始めていた。


ガルム村から歩いて一時間ほどの街、ローテンブルク。商人が行き交い、旅人が立ち寄る、どこにでもある街だった。その一角にある酒場で、一人の吟遊詩人がリュートを調弦していた。


「さあさあ、皆様!」


男は大仰に立ち上がり、芝居がかった口調で呼びかけた。


「本日も哀れな吟遊詩人エクリスが、皆様のお耳を楽しませましょう!リクエストはなんなりと!英雄の歌も、恋の歌も、はたまた臆病者の滑稽な逃走劇も!」


客たちが笑い声を上げた。


「おい、エクリス!例の歌を頼むぜ!」


赤ら顔の商人が叫んだ。


「ほう、どちらの歌でしょう?」


吟遊詩人エクリス――実はメルベル――は、わざとらしく首を傾げた。


「決まってるだろ!『臆病者メルベルの大逃走』だよ!」


酒場が沸いた。メルベルは内心で苦笑しながら、満面の笑みを作った。


「ああ、あの傑作ですね!では参りましょう!」


リュートを掻き鳴らし、軽快な旋律を奏で始めた。


千年王を前にして

震え上がった臆病者

剣を捨てて逃げ出した

メルベル、メルベル、腰抜けメルベル!


客たちが手拍子を打ち、合唱した。メルベル自身も楽しそうに歌い続けた。自分の悪評を歌うのは、奇妙な快感があった。


ナブ様こそが真の英雄

一人で王を討ち取った

メルベルは森に隠れてた

震えながら泣いてた!


「最高だ、エクリス!」


客たちが銅貨を投げた。メルベルは優雅にお辞儀をした。


「ありがとうございます、ありがとうございます!」


店主のバルトが、ビールのジョッキを差し出した。


「相変わらず上手いな、エクリス。お前の歌は、本物のエクリスが作ったみたいだ」


「光栄です、マスター」


メルベルは笑った。本物のエクリスが作った歌だと言えるはずもない。


歌が一段落すると、客たちは酒を飲みながら世間話を始めた。


「そういえば、都じゃ最近妙な話が出てるらしいぜ」


行商人が口を開いた。


「なんでも、ナブ様とリーナ様が、しきりにメルベルの名誉回復を訴えてるとか」


「はっ、今更かよ」


別の客が笑った。


「でもよ、あんまりしつこく言うもんだから、都の連中も『もしかして本当なのか?』って思い始めてるって話だ」


「まさか」


老兵士が首を振った。


「俺は見たんだ。メルベルが逃げていくところを。間違いない」


「でも、ナブ様があそこまで言うってことは、何か事情があるんじゃないか?」


若い職人が言った。


「英雄が嘘をつくとは思えないし」


メルベルは黙って聞きながら、リュートの弦を調整していた。


「次は何を歌いましょうか?」


話題を変えるように声を上げた。


「俺は『聖女アザリアの恋』が聞きたいな」


「素晴らしい選曲!では――」


午後はそうして過ぎていった。様々な歌を歌い、客を楽しませ、小銭を稼ぐ。誰もこの吟遊詩人が、歌の主人公本人だとは思わない。


夕暮れ時、メルベルは稼いだ銅貨を懐に入れ、街を後にした。


ガルム村への道を歩きながら、芝居がかった口調を捨て、素の自分に戻った。最初にナブからの手紙が来た時、逃げ込んだ酒場で吟遊詩人のふりをしたのが、この生活の始まりだった。意外と性に合っていた。


屋敷に着くと、庭でアザリアがトマトを貪り食っていた。


「ただいま」


「おかえり……うぷ」


アザリアは口を押さえた。つわりだった。彼女のお腹は、まだ目立たないが確実に膨らみ始めていた。


「大丈夫か?」


「大丈夫じゃない……」


彼女は青い顔でトマトにかじりついた。酸味がつわりを紛らわせるらしい。つわり食べというやつだった。


「トマトばかりじゃ体に悪いぞ」


「分かってる……でも、これしか食べられない」


アジョラが家から出てきた。手には小さな服を持っていた。


「あら、おかえりなさい。見て、可愛いでしょう?」


赤ん坊用の服だった。まだ生まれてもいないのに、もう準備している。


「気が早すぎないか、母さん」


「何を言ってるの。準備は早いに越したことはないわ」


アジョラは幸せそうに笑った。孫が生まれるのを、心から楽しみにしていた。


「アザリア、お茶を入れたわよ。生姜入りよ」


「ありがとうございます、お義母様」


アザリアはよろよろと立ち上がった。メルベルが支えた。


三人は縁側に座った。平和な夕暮れだった。


「そういえば」


メルベルが懐から手紙を取り出した。封蝋には神殿の紋章が押されている。


「またナブから手紙が来た」


アザリアが眉をひそめた。


「また?今度は何て?」


メルベルは手紙を広げ、読み上げた。


「『メルベル、いい加減にしろ。お前のせいで俺とリーナは毎日針の筵だ。民衆は英雄扱いしてくれるが、神殿内部では未だに俺たちが共謀者扱いだ。お前が真実を証言すれば全て解決する。頼むから都に来て、正式に名誉回復の手続きをしてくれ。評議会も、お前が生きていることを公表すれば、ギシュガル討伐の真実を認めざるを得ない。このままでは、俺の胃に穴が開く。リーナも毎日泣いている。お前には責任がある。逃げるな。追伸:お前の居場所は分かっている。今度こそ迎えに行く』」


メルベルは手紙を畳んだ。


「相変わらずしつこいな」


「最後の部分が不穏ね」アザリアが苦笑した。


「行くの?」


「冗談じゃない。今更面倒だ」


メルベルは手紙を懐にしまった。


「明日明後日は、街の酒場に泊まっておくよ。またしつこく使者が来るかもしれないから」


「逃げるのね」


アザリアが苦笑した。


「まあ、そういうことだ」


「仕事は?」メルベルは街で日雇いの仕事をしていることになっていた。


「ちょうど泊まり込みの仕事が入ったんだ」


嘘だったが、アザリアもアジョラも深く追及しなかった。吟遊詩人をしていることは、まだ内緒にしていた。


夜が更けていく。アザリアはつわりに苦しみながらも、メルベルの隣で眠った。アジョラは、赤ん坊の部屋の準備に余念がない。


翌朝早く、メルベルは街へ向かった。


酒場『銀の鈴』には、バルトが部屋を用意してくれていた。


「また家から逃げ出したのか、エクリス」


「まあ、そんなところです」


「女房と喧嘩でもしたか?」


「いえ、親戚がうるさくて」


半分は本当だった。


朝から酒場は賑わっていた。


「おう、エクリス!今日も頼むぜ!」


「もちろんです、皆様!」


メルベルは大げさにお辞儀をし、リュートを構えた。


「本日は何から始めましょうか?英雄ナブの勇姿?それとも聖女リーナの美貌?」


「俺は『ギシュガル王の最期』が聞きたい」


老兵士が声を上げた。


「あの歌は、まるで見てきたみたいに詳しいんだ」


メルベルは微笑んだ。


「それは光栄です。では――」


歌が始まった。千年王との決闘、炎の剣技の応酬、そして最期の言葉。全て、実際に体験したことだったが、誰も信じはしない。


「素晴らしい想像力だな、エクリス」


バルトが感心した。


「まるで本当にあったみたいだ」


「芸術とは、真実と虚構の境界を曖昧にするものです」


メルベルは芝居がかった口調で答えた。エクリスの真似だった。皮肉なことに、殺した相手の人格を演じている。


「実はですね」メルベルは声を潜め、もったいぶった調子で続けた。「メルベルとは友人なんです!」


客たちがどっと笑った。


「まさか!」


「お前が、あの臆病者と?」


「ええ、ええ!彼から直接聞いたんですよ。『怖くて逃げちゃった』って!」


メルベルは大げさに震える真似をした。


「泣きながら『ナブに手柄を譲ってくれ』って頼まれましてね!」


酒場が爆笑に包まれた。


「最高だ、エクリス!」


「お前の冗談は一級品だな!」


昼過ぎ、客たちがまた世間話を始めた。


「なあ、聞いたか?エリドゥの方で妙な噂があるらしい」


旅商人が声を潜めた。


「なんでも、千年前からいる巫女がまだ生きてるとか」


「馬鹿言え」


「いや、本当らしいぜ。ギシュガル王に仕えてた巫女で、ルカヴィ化して不死になったとか」


「そんな奴がいたら、とっくに討伐されてるだろ」


「それがな、最近まで眠ってたらしい。王が死んで、目を覚ましたとか」


メルベルは聞き流しながら、次の歌の準備をした。


夕方、酒場の隅で商人たちが話していた。


「ルカヴィの残党が集まってるって話、本当かね」


「さあな。でも、モルガンって幹部がまだ生きてるのは確かだろ」


「神殿も大変だな。せっかく戦争が終わったと思ったら」


「まあ、俺たちには関係ない話だ」


メルベルは静かにリュートを弾きながら、彼らの話を聞いていた。



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