決意はギムレットで
4杯め
観音開きに外へ開かれた窓から心地よい風が吹き込んでくる。ちいさい雲がちらほらと浮かんでいるだけで、今日も夏空がどこまでも広がっている。
ストレートのカウンター席が7つ、2名掛けのテーブル席が2つだけの、丘の上にあるこじんまりとしたこのカフェバーのテーブル席で、女はひとり、スリムなカクテルグラスに満たされうすく白濁したギムレットをもてあましていた。
ほかに客はなく、カウンターの内側では白髪の女性バーテンダーが、フロアとを仕切るスイングドアのあたりに腰かけて新聞を広げている。その外見からは信じられないほど背筋はぴんと伸びていて、ひとつ一つの動きをみても矍鑠としていることがわかる。
女はまたグラスを持ち上げ、ほんの少しギムレットに口をつけた。キンと冷えた爽快なライムの香りが鼻腔を抜ける。彼女はグラスをコースターへもどし目を閉じた。
ギムレットはジンとライムジュースに加糖したコーディアルライムを合わせ、シェイクしたショートカクテル。だが日本ではコーディアルを使用するバーは少なく、フレッシュライムを使用するのが一般的で、個体によって違いのある酸味をいかに砂糖で調整するかが、バーテンダーがこのカクテルをつくるときの大きなポイントのひとつとなる。
このカクテルの原型となるものは19世紀末、イギリス海軍の軍医ギムレットが由来とされている。
庇の先をじりじりと太陽が照りつけている。無意識に女は二の腕をつかんでいた。それにはっと気づきまたため息がこぼれる。
「いい天気がつづきますね」
空想を破る響きに女はぎくりとして声のするほうへ顔を向けた。すぐそばにバーテンダーが立っていて、目を細めて澄んだ空を眺めていた。
「・・・はい。2日間とも天気に恵まれました」
「お相手の方は今日もランニングに?」
「もう何年もルーティンになってるみたいで。走らないと落ち着かないそうです」
「そうでしたか。わたしなどは貧乏性ですから、旅先ではあっちへそっちへって時計とにらめっこです。まだ若いころの話ですが」バーテンダーがそういって口元へ手をやり微笑んだ。
瞬間、胸の鼓動が高鳴り、女はなんとも返事しようがなく視線を外へ向けた。
「あまりお口に合いませんか?」バーテンダーはほとんど減っていないギムレットのグラスに目をやりながら訊いた。
彼女からすると疑問に感じて不思議ではない。昨日も今日も昼下がりにやってきて、このあと合流するであろう若い男もギムレットしか飲まなかった。女は1杯だけ。男はたてつづけに3杯飲んで二人は店を後にした。
「・・・すみません。彼はすごく気に入ったみたいですけど、あたしには少し酸味がつよく感じて」
女はこの店が旅先で、きっともう来ることはないだろうという思いと、プロとして作ってくれたバーテンダーに純粋に申し訳ない気持ちで正直にいった。
「まぁ!それはそれはたいへん失礼致しました。もう長いことこの仕事をさせてもらっているのに、そんなことにも気づかないなんて。すぐに新しいものをお持ちしますね」頭を下げながらそういうと、彼女はグラスを手に背をむけた。
女はあわてて腰を浮かせた。「いや、そんなつもりでいったわけでは・・・」
バーテンダーは顔だけ振り向くと、「お待ちくださいね」そういってにっこりと笑顔を見せた。
女は男より一回り以上、正確には16歳年長だ。彼は成人(18歳)してまだ数年経ったばかりで、そのみなぎるエネルギーも失敗をおそれぬ行動力も彼女にはただまぶしかった。3度断ってなお彼はあきらめず、いよいよ根負けして付き合いはじめて半年近くになる。だがやはり女には荷が重かった。男に合わせることは簡単なこととそうでないことがある。いろんなことへのフットワークも空想に描くものと実際の乖離はそうとうなものだ。決意しては迷い、迷っては明日こそは、を繰り返し今日という日をむかえている。
「お待たせしました、ギムレットです」
バーテンダーが新たにつくったカクテルを女の前に置き、「どうぞ、ごゆっくり」それだけいってさがっていった。
気が利いた人だな、と女はその後ろ姿に感心してグラスを持ち上げた。そして香りをみたあと、ゆっくり口をつけた。こんどこそ女の好みの味だった。ライムの立った酸味を砂糖でほどよく抑えて、なおかつジンとのバランスも絶妙に一体となっている。ハードシェイクによってグラスの表面に浮かぶアイスフレークも舌に心地よかった。
「ありがとう」
自身にしか聞こえない声量だった。右手の時計に目をやると昨日と同時刻になろうとしていた。よし、決意は固まった。
そのとき、女の背後の扉がギッと音をたてた。それとともに数秒前の決意はまた迷路へ踏み入れた。