00.音楽の天使様
暗い。
何も見えない、深い微睡の中を漂う私へ、微かに音がした。
旋律が聴こえる。それは誰かが歌っている声。どこかで、ずっと昔に聴いたことのある旋律。
懐かしくて、あたたかくて、胸の奥をそっと撫でるような……そんな音。
(……この歌……知ってる)
そうだ。
お母様が、夜になるたび子守唄として歌ってくれていたあの歌。
もう何年も、思い出すことすらなかったのに、旋律のひとつひとつが、記憶の底から浮かび上がってくる。
ふいに、瞼の裏に浮かんだのは、母の穏やかな横顔だった。
――忘れていた。どうして、こんなに大切な思い出を。
涙が、すっと頬を伝う。
ただ懐かしいだけじゃない。
もう二度と戻らない温もりに、何かが壊れそうになる。
聞こえてくる母の声はまるで一緒に歌おうと誘っているようで――気づけば、私はその旋律を、かすれる声でなぞっていた。
喉は焼け、肺は痛む。声は掠れて音程も乱れて歌とは呼べないものだったけど、それでも、構わなかった。
意識が溶けるように遠のいていくなか、私はただ、最後に“歌いたい”と願っていた。
この旋律が聞こえる間は、これが最後の歌になるならと私の中に残された最後の執念が、震える声を押し出していた。
その時――
「ねぇ」
ふいに、耳元で囁くような声が聞こえた。
柔らかくて、美しくて、まるで空気の粒が形を持ったような、不思議な声だった。
「君、そのままだと……死んじゃうよ?」
その言葉に、私は目を開いた。
すると、そこに広がっていたのは白い世界だった。舞台の焼け跡も、痛みも、何もない。
目の前に置かれたティーセットは湯気を立てていて、まるで誰かが出迎えてくれているようだった。
気づけば私は、白い椅子に腰掛けていた。まるで最初から、そこにいたかのように。
「何これ……ここは……?」
「ふふっ、ようこそ、“白の楽屋”へ」
声は近いのに、姿は見えない。視線を巡らせても、見えるのは白と静けさだけ。
ただ、誰かが“そこにいる”感覚だけは、はっきりとあった。
「あなたは……一体誰なの?」
そう問いかけた私の視線の先、空気が震えた。
「僕? 僕はね――」
――“音楽の天使様”だよ。
その響きに、背筋がぞくりと震えた。
どこかで聞いたことがあるような、その名を。
でも、どこだったのか思い出せない。
紅茶の香り、浮かぶカップ、消えていくマカロン――
見えない存在の気配だけが、やけに確かだった。
「さっき歌ってたやつ!とってもよかったよ……あれは何?」
「さっきの歌……?あれは歌って呼べる代物じゃないわ。酷かったでしょ?ちゃんと声も出てなかったもの。」
「うーん、まぁそうだね。ひどかったよ。ぐしゃぐしゃで、掠れてて……でも、だからこそ美しかった。」
その言葉に、胸の奥がふっと揺れる。
「なんで……なんで聞いてたの?」
「うーん、ただの気まぐれかなぁ。でもね、君の歌、嫌いじゃないんだよね。だからもっと聞いてみたくなった。万全な状態でちゃんと歌ったら、どんな声が出るのか、気になっちゃってさ!」
その瞬間、空気が変わった。
椅子がガタリと音を立てて揺れ、テーブルクロスが風もないのにひるがえる。
そして、誰かの手が、私の肩を掴んだ。
「伴奏が必要なら用意する。舞台で歌いたいなら、照明も、衣装も、観客も、舞台セットも――全部、揃えてあげる。」
「だから、ね?……君の歌を聴かせてくれる?」
心の奥にひたひたと迫ってくる、“何か”の気配。
「……いいわ。別に、歌うだけなら」
私はそっと立ち上がり、深く息を吸い込む。
舞台で歌い切れなかった、あの一曲。
この場所でなら、きっと最後まで歌える気がした。
私の中に染みついた音符、旋律、魔法の流れ。
すべてを紡ぎ合わせて、声を放つ。
声が空間を震わせ、見えない観客の胸に届くような気がした。
そして――命尽きるその瞬間に託した歌を、私は今、全力で歌いきった。
しばしの沈黙の後、どこからともなく、静かな拍手が響いた。それは確かに、彼からのものだった。
「……いいね。悪くなかった。やっぱり君は、もっと面白くなれるよ、”セレーネ”。」
心臓が跳ねた。
「……どうして、私の名前を?」
「なんでだろうね?」
その声は、やさしく、どこか愛しげだった。
「ねぇ、セレーネ。君は、まだ歌いたい?」
そう問われて私は笑った。
「当たり前でしょ?歌が好きだもの。」
「うん、いい返事だね。」
目に見えない“天使様”が、ふっと笑った気がした。
「じゃあ、もう一度用意してあげる。全部――君のために。だからさ、また僕に君の歌を聴かせてくれないかな?」
「私に、また……チャンスをくれるの?」
「正確には、君の”続きを”聞きたくなっただけなんだけどね。」
天使様の声が、どこか楽しげに揺れる。
「……でも、せっかく僕が助けてあげたんだから。君には、それなりの”役目”があると思わない?」
弾む声。その裏には、静かな狂気と、熱が潜んでいた。
「おやすみ、セレーネ。……今度は最後まで、ちゃんと歌えるといいね」
意識が遠のいていく。まぶたが重く、体がふわりと浮く感覚。
そして私は、誰かに支えられながら、柔らかな布の上に寝かされて――眠りへと堕ちていった。
最後に聞こえたのは、囁くような声だった。
「僕が君のいちばんの観客になってあげる。だからまた歌って。僕だけのために。世界で一番、美しい旋律を」