プロローグ
主役は、私。
この舞台の、光の中心。
そう、ようやく掴み取れた。
奪い返したのよ、あの子からーー。
高等部二年の学院祭。演目は舞台歌劇『魔法使いの子守唄』。
伝統ある魔法歌劇であり、公演される度に注目を集める演目。
生徒達だけでなく、教師陣、卒業生、さらには魔法省の視察官までもが席を連ねている。
まさに、晴れの舞台。
そして、その中心に立つのは、この私――セレーネ・テネブラエ。
「――最終チェック、完了しました。照明も、舞台装置も、異常なしです」
「ありがとう。」
舞台袖で静かに呼吸を整え、前を見据える。
あとは、完璧に演じけるだけ。
(大丈夫、練習通りやればいいのよ。あそこまで完璧に仕上げたんだもの。きっと大丈夫……)
開演のベルが鳴る。
厚みのある緋色のカーテンがゆっくりと開き、光の粒が宙に舞う。舞台の奥行きが現れるその瞬間、物語が始まった。
舞台装置は魔導工術学科との共同制作。何回も修正と実験を重ねたおかげで満足のいくものが作れた。
魔法の光で街並みを遠近的に演出し、背景の星空には実際に微弱な浮遊魔法が組み込まれている。
舞台セットの裏で息を整える私に装置担当の後輩から声がかかる。
「先輩、準備をお願いします。それでは……開きます。」
開かれたセットの一部から差し込む一筋の光が私を舞台へと導く。
私は衣装のドレスをを揺らしながら、開かれた舞台セットから舞台中央へまっすぐに歩み出た。
照明が私を中心に収束し、観客の視線が一斉にこちらへ向く――
こだわった照明に舞台装置、そしてアンサンブルの生徒と共に歌う第一幕の掴みは完璧。観客席のみんなの心を奪うことができたであろう。
その瞬間、私は感じていた。ここに存在するものすべてを掌握できたと。
観客の息を呑む音、照明の熱、音楽の振動。そのすべてが、私の存在を肯定していた。感情をこめながら台詞を、歌を口にする。リズムはズレていないしアンサンブルとの掛け合いは完璧だ。
踊るように舞台上を移動している際に、舞台袖からこちらを伺う彼女を視界にとらえた。あの彼女――クリスティーナ・マタンでさえこちらに見惚れているようだ。
あの子は音楽に愛された子。それが全生徒の彼女への認識だった。
私は、彼女が編入してから何度も主役の座を奪われてきたし、一度公演したことのある演目でさえ主役を交代させられたりもした。そのたびに、悔しさに唇を噛み、心の奥で自分を努力不足を責めた。精一杯勤しんできたことが否定されたようで苦しかった。
どうして、私ではいけなかったのかと。その相手が彼女――クリスティーナ・マタンであったことが、さらに私を追い詰めた。
けれど今回の主役は私だ。
(……今だけは、見ていなさい)
視線の先、客席の中央には、私の婚約者であるルーファス・クローヴェルの姿があった。
私に向けられることがなかったその眼差しも感情も今だけ――この瞬間だけは、他の誰にも奪わせない。
舞台は順調に進み、第一幕が無事に幕を閉じた。照明が消え、幕が下りる。その後、静寂と共に休憩が訪れた。
緊迫していた空気がふっと緩み、舞台袖のスタッフにも安堵の表情が伺え、所々で微かな笑い声が漂った。
「ほんとに? あの場面、咄嗟に出したアドリブだったの?」
「ええ、ちょっとだけ。でも案外うまくいったでしょ?」
聞こえてきたのは、軽やかな笑声と、それに応える声。
見ると、クリスティーナ・マタンが、舞台助手の青年と親しげに言葉を交わしていた。
私はその光景を見て無意識に足を止めていた。
胸の奥に冷たい波紋が広がる。
「……あなた、次の場面で独唱でしょう? 喉は、休めておいた方がいいと思うけれど?」
声に棘を含めたつもりはなく、ただのお節介のつもりだった。
自分なら、直前は声の調整に集中する。呼吸も整え、魔法の動作の確認もする。
だからそれをしない彼女にただ助言をしただけ。
だが、クリスティーナは屈託のない笑みのまま、セレーネを見た。
「ありがとうございます、セレーネ先輩。でも、私なりの整え方があるんです。」
「――それに、今はまだ“芝居の外”でしょう?」
その一言に胸がざらついた。その余裕が、苛立ちにも似た感情を引き起こす。
「……あなたは、いつも余裕そうね」
「余裕というか楽しいんです!舞台も演じることも、もちろん歌うことも!……だから怖くないんです。」
それを聞いて舞台助手の青年が笑い、同意するように軽く頷く。
「ほんと、クリスティーナのこういうところすごいと思います。俺も見習いたいくらいですよ。」
その言葉にセレーネの背筋が、わずかに硬直した。
「……楽しむことは確かに大事なことね。だけれど楽しむだけで舞台は成り立たないわ。ちゃんと緊張感を持って舞台に立ってもらえないかしら?舞台にはたくさんの魔法が使われているの。何が起きるかわからないのよ?忘れないで。」
「あっ、そうですよね。ごめんなさい……。」
静寂が落ち、空気が凍りついた。
空気に耐えきれなくなり、私は目の前のクリスティーナから視線だけを逸らした――そのとき、近くにいた舞台助手の小声が聞こえた。
「……はぁ、また始まった。」
「別に今は休憩中でしょ。好きにさせてやればいいのに……」
「あの人、ほんといちいちうるさいよな……」
意図的に小さくした声。けれど、セレーネの耳には届いてしまった。
それは、確かに“私に向けられた言葉”だった。
背中が、じわりと冷える。
(……私は間違ってないでしょ。舞台は遊びじゃない。本当のことじゃない……)
言い訳のように心の中で呟く。
そう言い聞かせても、喉元に絡まる棘のような感情は消えてくれなかった。
そうこうしているうちに休憩が終わり、第二幕の幕開けの音楽が流れる。
第二幕での独唱は最初にクリスティーナ。その次に私と物語は進んでいく。
幕開けと共に流れる音楽は、アンサンブルの歌声と演技から始まる。
そしてそれが終わるとクリスティーナの登場だ。
舞台上手のセットから登場する彼女を映像球から確認する。
彼女の歌声を聞いて観客席が、ひとつ、またひとつと息を飲む気配が伝わってくる。第一幕の彼女の歌も、もちろん圧巻だったがやはり独唱でこそ彼女の凄さは発揮するのだと再認識した。
軽やかに繰り出される歌声と魔法、そして演技とは思えないほど自然な動作と表情は観客の心を動かす。舞台袖でその歌を聞くたびに、私は心を削られていく。
(……認めたくない。けれど、彼女は本物。私がどれだけ努力しても届かない)
――パチパチパチパチ
「……っ。」
観客からの拍手で彼女が歌い終わったことに気づき、舞台袖の奥へと向かう通路を歩く。呼吸は浅く、頭はどこか冴えない。
(……落ち着いて、呑まれないで、……この物語の主役は私、それは揺るがない。)
そう思いながら、深く息を吸い呼吸を落ち着かせる。前を見据えて感情を整理する。
「よし。大丈夫。」
小さくつぶやいて装置の影で出番を待つ。
演目は終盤に差し掛かる。
舞台の街には夜が訪れ、魔法使いに決意を伝えるために令嬢がバルコニーで歌う場面。
私はバルコニーを模した舞台装置に立ち、静かに息を整えた。
夜の雰囲気を表現するように深い青に包まれた舞台、そしてバルコニーに佇む私へスポットライトが柔らかく落ちてくる。そうして伴奏の前奏が流れ出す。
歌の入り。魔力を帯びた歌声が空気を震わせ、観客席の隅々へと響いていく。
透きとおる旋律が、劇場全体を包み込む。歌声に乗せた魔力は細密に制御されていた。
共鳴魔法によって音は空間を巡り、まるで空に光の糸が走るように、観客席の奥へと染み渡っていく。
だが、そのとき。
微かな”音”が耳に引っかかった。照明もほんの一瞬だけ明滅する。
それから小さな違和感は徐々に大きくなる。
空気が妙に重い。
そして舞台袖から小さな悲鳴が聞こえた、その瞬間、感じたことのない魔力が当たりを包み込む。
「……っ!」
観客席に近い端の照明が爆ぜるように光を撒き散らし、舞台の床が震えた。
異変を感じた前席の観客たちが心配そうに舞台を見上げているのが視界に入る。
ぎしり。私の足元の床が、ほんのわずかに軋む。
違う、これは演出じゃない。空気が揺れる。何かおかしい――
すると、下手側の舞台袖の生徒が誰かを引き留めているのが視界に入った。
引き留められているのは舞台助手の青年だった。彼のその手元から漏れ出す魔力はあまりに不穏で、こちらに向けられた瞳は焦点が合っておらず、まるで人形のように虚ろだった。その右腕から紅い魔紋が浮かび上がる。
舞台袖の異変に気づいた観客のざわめきが徐々に大きくなってきた。
次の瞬間、魔力暴走した魔法が炸裂した。
閃光。爆音。熱気。悲鳴。
私は咄嗟に観客席を覆うように魔力障壁を張った。間に合った。客席は無事ーーそう思った瞬間。
ギシィッ……ガタガタッ……
音がした頭上にパッと顔を向けると、舞台中央の吊り下げられていた大道具が、音を立てて崩れ落ちてきてきた。
その光景はどこかゆっくりと動いて見えた。
落ちてくる。
逃げられない。
魔法が、出ない。
時間が止まったように身体が動かなかった。
「はは……」
迫りくる影に動けない自分。喉から搾り出した声は乾いた笑い声しか出なかった。
ドォンッ――!
気づいた時には重たい衝撃が身に降りかかっていた。砕けた木材の破片が身体に食い込み、息が詰まる。
「……っ、が、ぁ……っ……!」
音が遠のき耳鳴りがする。左腕が動かない。視界の端に、炎とは別の赤いものが滲んでいた。
(……これ、は……)
理解するよりも先に痛みと冷たさが全身を襲う。
爆発によって生まれた炎は瞬く間に舞台上の大道具に燃え移っていた。
「クリスティーナ!大丈夫か?早く手を!」
煙の奥から誰かが名前を呼んでいる。けれど、それは私の名前じゃない。
「……だ、れか。」
頬を打った木片が熱を奪い、髪は散らばり、衣裳は泥と血に汚れている。
それでも、私は必死に手を伸ばした。
身体は重く、指を動かすことさえ苦しかった。
それでも、せめて――誰かに気づいてほしかった。
会場の正面。観客たちが混乱の中、押し合いながら逃げようとしているその出口の方へ、手を伸ばした。
床を這うようにして、必死に、ほんの指先だけを差し出して――
そこで、目に入ってしまった。
私の婚約者と舞台の衣装のまま客席の避難口へ移動するクリスティーナの姿。
人波に混じりながらも、はっきりと見えた。
彼の顔――私が何度も見つめてきた、あの横顔。
隣には彼女がいた。
ドレスの裾を気遣うように、手を取り、まるで彼女を”守るべき存在”だというように背を押していた。
――あぁ、さっきクリスティーナを呼んでたのはあなただったのね。ルーファス……
あの視線も、あの微笑みも、一度も私に向けられたことはなかった。この瞬間でさえ、彼の目には私の姿など微塵も映ってなかった。
心の奥に染み込んでいたものが、とうとう溢れ出した。
彼のことは嫌いではなかった、むしろ好意を持っていた。どうにかして彼に振り向いてもらおうと必死だった。だからこそ、彼の視線を独り占めするクリスティーナには、負けたくなかった。
どうしても、負けたくなかったのだ。
「……ばっかみたい。」
指先が床に落ちた。それ以上、伸ばせなかった。
私の手はもう誰にも届かない。
倒れ込んだままの身体を、重力が引きずり落とす。
足の先から冷えていく感覚。
ああ、もう限界だと、理解できた。
(これで……終わりなの?)
その問いが、静かに胸の奥に落ちていく。
答えは誰もくれなかった。
ただ、残るのは痛みと、息苦しさと、寂しさだった。