夏が来れば思い出す
「夏が来れば思い出す」
「藪から棒になんだ?」
「ちょっと聞いて欲しい」
「何を?」
「とある夏の季節に付き合っていた恋人の話」
「……聞く」
目の前の男は、諦観の眼差しをよこした。
ある夏のこと。
しがない勤め人のわたしが住んでいたのは、古式ゆかしく昭和レトロなアパート。
一言で言えばボロアパート。正確に言えばボロボロアパートであった。
建築基準法が厳しいし、大家さんは真面目な人柄なので、構造に問題は無く、畳も定期的に入れ替えられている。
だが、そこかしこに溢れる風情は覆せない。
わたしは、その風情が気に入っていた。
廃墟マニアの存在が一定数確認されている昨今。
ボロボロを愛する人だっている。
さて、時は夏。
昭和レトロのアパートに相応しい小道具とは何か?
風鈴、すだれ、のれん、団扇。
絶対にサーキュレーターじゃない、羽根が透明で青かったり緑だったりする扇風機。
素麺に冷ややっこ。
ちょこちょこ集めた小道具に満足して、なんとか暑さをしのぐ日々。
収納に余裕が無いので、なるべく嵩張らないものを選んでいる。
エアコンは無いので、常に窓は全開。
網戸はあるが隙間もあるので、たまに蚊の羽音が聞こえる。
「なあ、せっかくだから蚊取り線香焚かない?」
恋人が言い出した。
六畳一間のアパートはわたしの住処で、彼と同居はしていない。
だから、ここで使うものは常に一人で吟味して決めていた。
狭い部屋に他人の趣味で物を持ち込むことを許しては、あっという間に住み心地が悪い部屋になりかねないからだ。
ところが、そのとき魔が差した。
夏の暑さという魔物が、わたしの脳を支配した。
「いいねえ」
さっそく二人で、涼みがてら近くのホームセンターを目指したのだった。
長らく触れることが無かった蚊取り線香は、ずいぶんと様変わりしていた。
昔からよく見る緑一色ばかりではなく、色とりどりだったり、花の香り付きだったり。
ペットに優しいのやら、小巻に大巻。
見ているだけで楽しい。
「あったあった。ほらこれ、蚊取り豚!」
お中元に差し上げる、と彼が言う。
しかし、可愛いが場所を取る。
使わない季節には仕舞う場所も取る。
うーんと生返事のまま、害虫対策界隈をうろついていたら見つけた。
金属製でアウトドア用の、蓋をして吊るせる奴。
これなら場所を取らない。
不満そうな彼ではあったが、好みのものを買わせて帰宅の途に就く。
ふと思い立ち、お礼にビールを奢ることにした。
先に帰って焚いておくという彼と別れ、途中でドラッグストアに寄った。
エコバッグをぶら下げて家に着き、扉を開けようとした時、中から聞いたことのない音がした。
警報音だ。
開けるかどうか迷っていると、バッと内側から戸が開いて彼が飛び出て来た。
「火災報知器、どうやったら止まる!?」
覗いた部屋の中は煙が充満。
とりあえず、換気しないと入れない。
何事かと顔を出したご近所さんに心配ないと詫びる。
そして何とか部屋に入って報知機を止めた。
彼に悪気は無かったらしい。
「なんかこう、バ○サンのイメージがあって……」
わたしが帰ってくるまでにしっかり効果を出そうと、窓を閉めた。
それから、蚊取り線香の頭と尻尾、両方に火を着け部屋の真ん中に置いたのだ。
すると、充満した煙で報知機が鳴った、と。
「別れよう」
「え?」
「取説を読まない奴とは、これ以上付き合えない」
「そう言われると反論できない」
「つきましては、手切れ金を二万円所望する」
「二万でいいの?」
「煙の臭いのついたものを洗ったり、処分したり、ひょっとすると今夜は煙臭くて外泊しなくちゃいけないかもしれんので、その宿泊代とか」
「それなら、俺の家に泊まりにくれば?」
「わたしの元カレの部屋は、広くてエアコン付きだが掃除が行き届いていない。
ここを片付けて移動しても、そっちも片付けることになるので面倒すぎる」
「……」
日頃の行いすべてを、反省するがよい。
結局、彼は大人しく三万円を置いて自分の部屋に帰った。
わたしは出しっぱなしだったタオルなど、わずかなものを洗濯して干した。
その間、扇風機もフル活用して十分換気した結果、なんとか寝られる程度に臭いは和らいだ。
こうなれば、三万円は丸儲け。
なかなか美味い手切れ金であった。
そうして、スッキリサッパリお別れした元カレから電話があったのは半年後。
木枯らしが吹く、真冬のことである。
「元気? メシでも行かない?」
「奢りなら」
待ち合わせ場所は、一流ホテル。
なんと、勤め先の玄関まで迎えのタクシーが来た。
めっちゃ美味しい食事の後、夜景の美しいバーに移動して飲んだ。
ドレスコードが気になったが、平日の夜であるからか、ちょっとリッチな勤め人や、ちょっとリッチな気分に逃避したい人やらで、浮いたことにはならなかった。
「話したいことがあって」
「結婚でも決まった?」
「恋人もいないよ」
「へえ。で、何?」
「アパート、取り壊しになるんだって?」
「……うん」
老齢の大家さんが頑張って維持してくれた昭和なアパートも、さすがにこれ以上は無理ということで、取り壊すことが決まった。
元カレはわりと人たらしである。
ちょっとした会話で打ち解けた、他の部屋の住人とでも連絡を取り合っていたのだろう。
「新しい部屋、見つかった?」
「いや、ぜんぜん」
探してみたけれど、わたしの好きな昭和レトロは見つからない。
物件数に対して、そこに入りたい人間の方が多いらしく、この辺りではキャンセル待ちだ。
「田舎の中古一戸建てのほうが、まだ見込みがありそうなので、転職も視野に入れている」
「昭和レトロ一択か」
「一筋だ」
「では、こちらの物件などいかがでしょう?」
いつから不動産屋になったのか、さっとタブレットを取り出し、画像を見せて来るヤツ。
「どうしたの、急に。……え?」
一枚目から釘付けである。
まさしく昭和レトロの一軒家が、そこにあった。
「○○県の郊外で、元農家なんだけど」
母屋は、本当にわたし好み。
「納屋とかいろいろあって、敷地がすごく広い上に農地付き」
「農地……は手に余るな」
「うん。そう思って、アパートを建てて農業やりたい人を募集する。
納屋を改装して、その事業の事務所にしようかと」
敷地内を適当に区切って、母屋への視線は気にならないように配慮してくれるとか。
元カレという人は、片付けには向かないし、ミニマリストのミの字もない奴だが金持ちだ。
事業を立ち上げて資金を出す人である。
彼の手掛けたものは儲かるか、または収支トントン。
損をしたことは無いという。
商売がうまいのかもしれないが、絶対、運を持ってる。
たまに、なんとなくムカつく人種だ。
「というわけで、母屋での同居人募集中だ」
「家政婦枠ということだな」
「違うでしょ! 妻枠! 伴侶枠!」
「家政婦の方が確実に儲かる」
「小遣い使い放題でいいから」
「わたしはミニマリストだ」
「もしかして、伴侶も処分したいタイプか!?」
それから、あれこれいろいろ、すったもんだしつつ、物件を実際に見に行ったり、そこで元の住民が残していったお宝に震えてみたり。
……結果、わたしが折れた。つまり結婚した。
そして数年が経ち、やっぱり元カレ、いや現夫の農民誘致はそこそこうまく行っていた。
「これ、有田さんが持って来てくれたトウモロコシを蒸した」
「おお……甘!」
有田さんは農地を借りてくれている一人で、野菜作りを楽しんでいる方。
永住とか、年齢制限とか、そのへんを取っ払って、とりあえずやってみたい人を募集してみた。
すると翌年、最初の希望者の半数は残ってくれたので、空いたところはまた募集、という感じでやっている。
たくさん作って、どーんと出荷という量ではないからお金にはならない。
しかし、近くの空き家を買ってのんびり農家レストラン風なものをやりたい、という人たちが現れて、今、話を詰めている最中だ。
まあ、うちの夫が関われば、そこそこうまく行くはず。
「茄子とキュウリももらったので、糠漬けにしてある」
「楽しみだなあ。夏だなあ」
「夏……夏が来れば思い出す」
「また、その話か? 去年も一昨年も大人しく聞いたけど、さすがに……」
「だって」
わたしは縁側に置いた蚊取り豚を指さす。
「ああ、蚊取り豚……そして蚊取り線香か……」
「じゃあ、大人しく、今年も聞け」
「はいはい」
自分が元カレとして語られる夏物語。
聞いて面白くはないだろうが、蚊取り豚を見ると語らずにはいられない妻を娶ってしまった不幸を噛み締めるがよい。
「うみゃ~」
だが、邪魔が入った。
「あ、起きた! 話聞きたかったけど、残念だったな~」
夫はお手拭きを使い、ささっと縁側から上がる。
「よしよ~し」
奥に寝かせていた娘を、そっと抱き上げてあやす夫。
最近、気付いたのだが、夫は取説の無いものに強いらしいのだ。
蚊取り線香では失敗しても、赤ん坊の面倒はちゃんと観察しながら相手に合わせている。
人たらしもしかり。
仕事の成功の秘訣は、これなのかもしれない。
「そろそろ、ミルクの時間じゃないか?」
「今、作って来る」
広い縁側に蚊取り豚が一匹。
娘が一人。夫が一人。妻が一人。
娘が大きくなった頃には、庭に雑種犬を一匹走り回らせたい。
ちょっとニマっとしてしまった顔を夫に見せないように、台所へ急いだ。