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忘れ物

作者: 相草河月太

 「まったく、部長もちゃんと叱ってくださいよ、田中の奴、また遅刻したんです」

 「そうなのか?」


 大森はパソコンを叩く手を止めずに、部下の言葉に相槌をうつ。

 「理由はなんだ?」


 「それがね、あいつ、今日のプレセン用の資料を家に忘れたんです。何があってもそれだけは絶対に忘れるなって言ってたやつを忘れるなんて」


 それを聞いた大森の手が止まった。顔をあげ、何やら遠くを眺めるような目で部下を見る。

 「忘れ物か」


 「ええ、とんでもないでしょ」

 「まあ、仕方ないんじゃないか、忘れ物なら」

 

大森の言葉に部下が思い出したように眉を上げる。

 「あ、出た。大森さんの忘れ物びいき。本当、忘れ物に対してはやたら甘いですよね、大森さん」


 「ん、いや、そういうわけでもないが」

 「いいえ、そうですって。大森さんの逸話はよく聞かされましたから、気持ちはわかりますけどね。大森さんは子供の頃から忘れ物をほとんどしないんだけど、何かを忘れた時は必ず意味があるんでしょ?」


 「ふむ、まあな」

 「なんでしたっけ、小学校の時には親と車で遊園地に出かけたのに、途中で友達に頼まれたお土産リストを持ってくるのを忘れたことに気づいて、戻って見たら、なんと、空き巣が家にいたのを発見してことなきを得た、とか、学生の頃提出するレポートを忘れて取りに帰ったら、コンロにかけたやかんの火がつけっぱなしになってて、もう少しで火事になるところを防げた、とか」


 大森はうなづきながら、今までにあった忘れ物について思い出す。

 そう、いつだって自分が忘れ物をすると、戻った先では何かが起こっていた。それがいいことなのか悪いことなのか、最近はわからなくなっていたが。


 「部長だったら確かに、忘れ物をしてももっと大事なことをしてるんだからいいですけど、田中の場合はただの忘れ物ですよ、忘れ物。あれ、そういや田中の奴、どこ言ったのかな、まだ帰ってないと思うんですけど」

 

「いや、どうだろうな。もう帰ったのかもしれないぞ」

 「おかしいな」


 「すみません」

 部下と話している大森に、入り口から女性の声がかかった。


 「ああ。もう着いたのか」

 「あ、奥さん、お久しぶりです」


 「ええ、ひさしぶり」

 「もう終わるから、ちょっと待ってくれ。君も、今日はもう上がりなさい。田中も帰ったんだろう、もうあかりを落として閉めてしまおう」


 「あら、田中さんいらっしゃらないの?」

 「ああ」


 残念そうな妻を横目に、大森はデスク周りを片付け、部下にも帰り支度を急がせると、三人で部屋を出る。大森は最後に振り替えて部屋を確認すると、あかりを決してドアを閉めた。


 「すまなかったな」

 妻が運転する車に乗った大森は妻の顔を横目に見ながら詫びた。


 「いいのよ、ついでなんだから。私こそ遅れちゃってごめんなさい、うっかり事務所に忘れ物しちゃって。取りに帰ってたら遅くなっちゃった」


 「いいんだよ、仕事も残っていたからな」

 「ふふ、でもあなたの忘れ物と違って、何事もなくてよかったわ。あなたの話を昔から聞かされてるから、事務所でなにかあったのかとおもっちゃった」


 「そうか、まあ普通の人は何もないんだろうな、忘れ物しても」

 「そうよ。いつも聞かされてるから信じるけど、やっぱりちょっと信じられないもの。忘れ物が、何かが起こってる合図だなんて」


 「自分でもそうだよ、信じられない。でも事実なんだ」

 「そういえば最近は何かあったの?聞かないけど」


 「いや」

 大森は妻の顔を見ないようにして言葉を濁す。


 先々月だった。大森は日帰り出張で朝早く出かけた。帰りは夜中になる予定だったが、思いのほか早く終わり、夕方すぎには地元に戻ってくることができた。大森は家に向かう途中で、家の鍵を忘れたことに気づいた。


 嫌な予感がした。家につくとまだ妻は帰っていない。心配になった大森は個人事業主の妻が仕事の事務所として使っているマンションに向かった。途中、何度か電話を入れてみたが繋がらない。何かなければいいが、と自然に早くなる鼓動を落ち着かせ、事務所の扉を開ける。鍵はかかっていなかった。大森は伺うように中に入る。2DKのマンションの、玄関から入って奥が妻の仕事部屋だ。静かではあったが、人のいる気配があった。靴を脱ぎ、静かにそちらに向かう。


 ふと予感がして、音を立てないように細く扉を開ける、と、中から聞こえてきたのは、か細い女性の声。それは押し殺した、妻の喘ぎだった。


 部屋の中で妻が男と絡み合っていた。相手は部下の田中だった。


 「特に何もないよ、最近は」

 大森は真っ直ぐに前を見たままそう答えた。


 「どうしたの?」

 家につき、ポケットを探る大森の仕草を見て妻が小首を捻る。


 「早く開けてよ」

 「いや」


 「もしかして」

 妻が軽く息を飲む。

 「忘れ物?」

 大森はうなづいた。脇をぬるつく汗が伝った。


 「取りに帰る?何かなければいいけど」

 妻が伺うようにいう。と、大森の携帯が鳴った。


 大森には、出なくても電話の内容がわかっていた。きっと警察からだろう。カッとなって殺してしまった田中の死体。それが発見されたのだ。


 忘れ物が、戻ってきてもっとちゃんと隠せ、と告げてくれたのだ。もう、手遅れだったが。

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