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戯曲パラドックス

作者: 辻川 碧

ファンタジー有、悲恋・死ネタっぽいので、苦手な人はご注意下さい。






 闇を吸い込んで深くなったような森を、その人は歩いていた。

 鬱葱と茂る草木は空を覆うかのように伸び、地を這う木の根は今にも滋養を求めて動き出しそうである。

 この森の奥の奥には、それはもう恐ろしい魔王が住んでいるらしい。

 どんな魔王、と問われても、村人は恐ろしくて口を閉ざしてしまう。氷のように冷たい双眸は、その瞳に映した者全てを石に変え。人間の二倍程にも大きい口から覗く鋭い歯は、この世で一番の痛みを与えながら人間の皮膚を破り。血腥い吐息は、それを吸い込んだ者を不治の病にさせ。人の十倍も大きい手足は、捕えた者を百年かけてじわじわ殺す。その上イヤリングには宝石の代わりに子供の目玉がついていて、ネックレスは人間の腸、マントは人間の皮で出来ているらしい。もちろん残った臓器は魔王の食事へ。とにかく魔王は人間の天敵であり、滅ぼさなければならない存在なのである。

 森を歩み進んでいたその人はやがて足を止め、顔を上げる。顔全体を隠すかのように巻き付けている布から覗く赤茶色の瞳は、真っ直ぐに目の前に聳え立つ洋館――魔王が住んでいるという噂のある館――を見据えていた。

 今まであんなに茂っていた木々ですら、魔王からは退くかのように館の近くには生えていない。その為この場所だけがぽっかりと違う空間に感じられた。今まで遮られていた月光が降り注いでいる事も、その印象を際立たせる。

 人間が近寄ってはいけない領域。そんな雰囲気が漂っている。だがその人はしばらく館を見つめた後、ゆっくりとその方へと進み出した。

 領域を侵すその人を止める者も、背を押す者も此処にはいない。その人は自ら進み、侵して行く。

 大きな扉を一人で開け、閉ざされていた闇へと踏み入る。カツン。床はタイルを敷き詰めた造りで、歩く度に音がした。誰もいないのではないだろうかと思う位の静寂に満ちている館の中でその音はよく響いて、いるのならきっと魔王の耳にも届いているのだろうと、その人は思っていた。だから敢えてその人は足音を隠さず鳴らした。こうして客人がわざわざ訪ねて来ているというのに姿も気配も現さない無礼な、人間が恐れるその王に、その人は用があったから。大事な用があったから挨拶代わりに足音を鳴らした。

 けれども魔王は一向にその姿を現さない。いつまでも静寂は続き、闇色に溶け込む飾り物のような室内に変化は訪れない。

 やがて痺れを切らしたその人は、扉の前から動く事にした。館には二階があるらしく、入ってすぐ右手の方向にはしっかりとした造りの大階段がある。左手方向には、一階奥へと続くと思われる道。こちらは暗くて、詳しくはよく見えない。

 人を探すなら一階からのが一般的には効率がよいと思われている。その人もその意見には同意派であるのだが、どうしてだか今回は二階から探す事にした。直感、いや呼ばれているのかもしれない、魔王に。確信はない、何となくその人はそう感じた。

 吸い寄せられるように二階に上がって、奥に長い廊下とたくさんの扉に迎えられる。軽く十はあると思われる扉は何故か廊下の右側にしかなく、左側はずっと壁。ランプも絵画も掛けられてない。扉も全部閉まっていて、廊下には光がなかった。暗い。きっと足元に物が落ちていても気付かないだろう。

 けれど唯一階段側から五番目の扉だけは開いていて、廊下に月光を射し込んでいた。おいで、と淡い光がその人を呼んでいるようだった。その人は誘いを受け入れ、歩みを進める。一階と違って二階は木造の床だったので、今度はカツンではなくギシギシと軋む音が時折聞こえた。

 いる。その人は生唾を飲み込み、己の中で確信した。魔王はこの部屋にいる。

 その人に魔力はない。だから魔力を感じる力など持ってはいない。だから保証はない、正しくはいる気がするなのだろう。けれどその人は信じていた、あの部屋に、魔王はいると―――

 開けられてある扉を開ける必要はない。その入口に立てば、その人の視界を遮る物は何もない。見たい物を見れ、あの漏れていた月明かりを全身に受ける事が出来る。

 けれどそれは叶わなかった。何故なら彼がいたから。

 その人が魔王がいると信じていた部屋には、アメジストのような瞳をふたつ持った青年が、まるで幻のように存在していた。

 その人は、思わず息を止めた。窓の桟に腰掛けて、満月を背負い、こちらを見ている青年は、世界から隔絶されたような美しさを持っていたから。

 宝石のような煌めきを持つ、紫の双眸。深い闇を持っている夜空に溶け込んでしまいそうな位の、真っ黒な長髪。透き通るような白い肌。

 まるで彼がいる所だけ、世界が切り取られているようだった。

 「こんばんは」

 自らの耳に届いて来た声が青年のものである事、そしてそれが自分へと掛けられたものである事にその人が気付くまで数秒かかかった。同時に我を取り戻し、警戒心を含む目付きで青年を見る。

 「君、誰?」

 けれども青年は笑顔のまま、緊張感のない声でその人にそう問い掛ける。もちろんその人は答えない。しばらく青年を凝視し、人間であると判断すると目だけを動かし室内を見回した。生きているものはその人と青年しか部屋にはいないようだ。あとは大きな天蓋ベッドがひとつ端にあるのと、彼が座っている大きな窓だけ。随分と足りない部屋だと、その人は思った。寝室なのだろうか。

 とりあえず肝心の魔王はいないようである。えー?もしかして無視してるー?などと言いながら笑っている青年を尻目に、その人は小さく舌打ちした。魔王は何処にいるのだろう。所詮噂は噂でしかないのだろうか。

 「ねえ、もしかしてさ。魔王を探してる?」

 魔王という単語が耳を通った瞬間感覚が鋭くなったのを、その人は自身で感じた。見張った目で声の主を見れば、あの青年。先程と何も変わらず、人懐っこそうな笑顔でこちらを見ている。

 魔王の居場所を、彼は知っている? 訝しげにその人が青年を見つめていると、彼はもう一度こう問うた。

 「君は、誰?」

 ゆっくりとした、問い。細められている青年の瞳から、小さな威圧を感じた。美しいからそれはより一層、力を得ているように思える。沈黙。二人の視線は交わったまま止まり、月を遮り流れる千切れ雲の動きだけが時を示す。

 笑顔のままの青年と、片目しか見えないその人。突然入って来た秋の風はもう皮膚を刺すように冷たく、部屋の中の温度を僅かに変える。

 「魔王を殺しに来た、勇者」

 風に煽られた青年の髪が落ち着いて来た頃、その人はしっかりと、自らをそう称した。

 「おれは、勇者だ」

 赤茶の左目が月光を映してか、鋭く強く光る。腰に備えている長剣の鍔を、勇者は威嚇のように鳴らした。

 青年は驚くでも、バカにするでも怯えるでもなく、ただ今まで通り目を細めて微笑む。

 「…へぇ凄い。勇者かぁ。かっこいいね」

 勇者は何も言わない。クスリ、と小さく笑いを漏らした彼は、やはり何処か現実味がないように感じられる。

 「じゃあ名乗ってもらったし、僕も自己紹介しよう」

 青年がそう言った瞬間、遠くの方で木々がざわめいた。森全体が恐怖におののいているような、そんな音が開け放されている窓から勇者の耳にも入った。不穏が迫って来ている、気がした。青年は、笑っている。

 「僕は、魔王」

 異物が、青年の額から前髪を突いて伸び始める。少し長めである前髪は青年が俯いて、完全にふたつのアメジストを隠した。勇者は突然の事態に目を見開き、青年から後退る。笑っている口元が、三日月のようだった。

 「君が殺そうとしている、魔王だよ―――」

 一瞬にして広げられた、もうひとつの闇。漆黒の、翼。隠された月。

 完全に伸びた異形の白き一角は青年が人間(ヒト)でない事を示し、再び現れたアメジストの双眸は溢れんばかりの魔力で怪しく光り輝いていた。

 突如突っ込むようにして吹き込んで来た風は部屋の中で暴れ、魔王の髪を再び煽らせて、羽を舞い上がらせる。

 スローモーションのように感じられた刹那の時の流れを、正したのは魔王。大きな音を立てて窓の縁を蹴った彼は、今までの飄々とした振る舞いからは想像出来ないようなハイスピードの低空飛行で勇者に迫った。人ならぬ者の纏う迫力と己でも抑え切れない焦燥に勇者の身は凍り、息は止まる。魔王は、目と鼻の先程に近付いて来た。咄嗟に構えていた剣の鍔が、恐怖に鳴った。鞘から刀身を抜く事が出来ない。魔王の手が伸びて来る。勇者はそれを、避ける事が出来なかった。

とんっ、と。押され、魔王が遠ざかる。

 何て事はない、ただ押されただけだ、それも片手で弱く。それでも固まってしまっていた勇者の体は簡単に倒れた。強く尻を打ち、衝撃により我を取り戻す。魔王はすでに、勇者に背を向けていた。

 「お帰り」

 魔王が背中越しにそう言う。

 「君じゃ僕を殺せない」

 力の差は、歴然だった。窓の外に見える大きな満月に歩み寄りながら、魔王は勇者をそう諭す。ベッドひとつ置くには広過ぎるこの部屋を真っ直ぐゆっくり歩いて、やがて彼は窓辺に着く。そして淡い月明かりを再び纏った魔王は、勇者へと振り向いて、優しく微笑んだ。

 「お帰り」

 その姿がまた美しくて、現実が遠のきかける。このまま『はい』とでも頷いて、帰ってしまえればよかった。でもそれは許されない事であり、いけない事。セカイは、こんな美しい彼よりもずっとずっと偉いのか。こんなにも、醜いのに。

 勇者はゆらゆらとマリオネットのように立ち上がり、剣を鞘ごと抜いた。次に鞘を引いて、真っ白な刃を露にする。それは全て静かな事で、月を見上げている魔王は気付かない。この好機に、勇者は魔王をしっかり見据える。右腕を思い切り後方に引いて、一気に力を込め、持っていた鞘をブーメランのように投げた。

 鞘は回転しながら、まるで魔王に引き寄せられでもしているかのように一直線に飛ぶ。

 「え…っ!?」

 連続して空気を裂く不穏な音に見向いた魔王は、自らを狙って飛んで来ている鞘にぎょっとした。咄嗟に避けようと、頭を抱えてしゃがみ込む。

 「うわぁっ」

 鞘は見事に魔王の頭上を通過して、そのまま窓の外へ飛んで行った。危ないなぁもー、と過ぎ去った災厄に文句を零しながら魔王が立ち上がろうとした時、目前には剣を高く振り上げた勇者がいた。赤茶の瞳は、確かな敵意を宿している。

 「…そっか」

 振り下ろされて来る刃に、魔王は取り乱す事なく手の平を向ける。すると刃は魔王に触れる前に、小さな衝撃を受け弾かれた。魔術による衝撃波――それを放たれたのだと勇者が思った時、魔王は既に勇者の背後に立っていた。慌てて勇者が剣を振うと、魔王はそれをひらりと避けて、何処か悲しそうに笑って言った。

 「帰って、くれないんだね」

 勇者は再び斬り掛かろうと剣を振り上げる。魔王は、剣を握る勇者のその手の首を勢い良く掴んだ。彼の細身からは想像出来ない、骨が軋む程の力に締められ、勇者は剣を落とす。刃と床がぶつかり合う音。痛みに歪む勇者の瞳を見つめている魔王に笑顔はなく、まるで人形のような無表情を浮かべている。月光がより一層その表情に冷たさを加えているように見えた。

 「仕方ない」

 口元が僅かに動いて、呟く。

勇者は何とか魔王の手を引き剥がそうと、掴まれていないもう一方の手で必死に抵抗するが、それは無駄な事。ぐぃ、と。魔王は勇者の手首を掴んでいる方の腕を上へ真っ直ぐ伸ばし、勇者を掲げた。あまりにも軽々と持ち上げられたので、勇者は驚き目を見開く。

 「君には消え、て…もら…」

 君には消えてもらおう。そう繋がるはずだった言葉は何故だか途中で徐々に歯切れが悪くなってしまい、最後には自然消滅してしまった。

 閉じられていた口は半開き、無表情は崩れてきょとんとした表情になっていまっている魔王は、勇者を珍しい物のようにじっと見ている。一方勇者は気にせず、相変わらず一心不乱に魔王の手を引き剥がそうとしていた。

 魔王は勇者を掴み上げている腕を動かして、勇者を上げたり下げたりする。まるで品定めしているような眼差しと行動。そんな意味不明な行動をしていた彼は、やがて眉を寄せ、首を傾げて呟く。

 「……君、もしかし、でッ!!」

 途中で勇者の蹴りが魔王の鳩尾に入った。考え事をしていた故無防備であった其処への攻撃は、魔王でも激痛に相当する。手を離され、床に落ちた勇者は手首の痛みと落とされた衝撃による痛みに堪えながらも再び剣を手にして、噎せている魔王へと迫る。だが魔王は焦る様子もなく勇者へと手の平を向けて、先程よりも強い衝撃波を放った。衝撃波は剣だけでなく、今度は勇者をも弾き飛ばした。足が床から離れ、宙に身を投げ出された勇者が突っ込んだのは、部屋にある唯一の家具である天蓋ベッド。衝撃に噎せながらもすぐに起き上がろうと身を起こす勇者だったが、その体は再びベッドに戻される。上から縫い付けるようにして勇者の体を押さえ込んでいたのは、闇に浮かぶようにして現れた魔王だった。

 魔王は真っ直ぐと、勇者を見下ろす。見返している勇者の瞳は、決していい感情の籠ったものではない。明確な敵意。魔王は困ったような表情を浮かべてひとつ溜め息をつくと、掴んでいた勇者の両手首を勇者の頭上に左手で纏め上げた。そして素早く、勇者の顔を隠している布結び目に手を伸ばす。

 一瞬の内に行われた事に対し、勇者は目を見開き、身を捩って抵抗した。だが魔王の前でそんな抵抗は無意味で、所詮魔王の溜め息を増やす位でしかない。

 「あーもーほら、暴れないでよ。痛い思いは出来ればさせたくないんだから…」

 魔王の右手の指先が、結び目を解いた。やっと解けたと魔王が零すと、勇者は魔王をキッと睨んで怒鳴る。

 「やめろッ!!」

 布を取るな、という意味らしいが魔王は聞かない。まるで地に上げられた魚の如く勇者は体をばたつかせるが、布はあっという間に難なく解かれた。その露わになった顔を見、魔王は驚く事なく今まで通り微笑む。

 「…やっぱりね」

 魔王の眼下に現れた勇者の顔は、勇ましい青年の顔――などではなく、

 「君、女の子だったんだ」

 鋭い目付きの赤茶の瞳。ライトブラウンの、くせの強いショートヘアー。頬に雷のような形をした傷を持つ、まだ何処か幼さ残る少女の顔だった。

 勇者は何を言うでもなく、眉間に皺を寄せ、ビー玉のような瞳で魔王を睨み続ける。そんな勇者の頬に、魔王は触れた。今勇者の両の手首を掴んでいる力が嘘のように、魔王は優しくその頬を撫で、笑う。

 「やわらかい」

 その言葉が届くや否や、勇者は弾けるように再び暴れ出した。「わっ」と驚いて魔王が頬から手を引くと、彼女はハッキリとした嫌悪を表情に出して、拒絶を喚く。

 「触るな!」

 「ヤダ」

 子供のような返答に、勇者は言葉を失う。魔王はお構いなしに今度は勇者の髪を触り出す。

 「君位の女の子に触れる機会って結構ないもん。触れる時があるなら触っときたい」

 魔王の言葉に呆然とする勇者。くせっ毛だーとか言いながら自らの指に勇者の髪を巻き付けて遊んでいる彼は、何と言うか魔王らしくない。魔王らしい、というのが何なのか上手く説明出来る訳ではないが、とりあえず彼は変だ。

 それでも彼は魔王、恐れるべき魔王、と暗示を掛け、勇者は喚く。

 「アタシを殺そうとしてたんじゃないの? 早く殺しなよ!」

 「あ、“アタシ”だって。さっき“おれ”って言ってたのは演技? かっわいー」

 「ふざけんな!」

 「あはは怒ってる。殺さないよ、消そうとはしたけどやめた」

 「は?! あんた何言って――」

 へらへらと笑いながらふざけた事を()かしている魔王に怒鳴りつけた勇者は、突然押さえ込まれていた両手を勢い良く引き上げられ、思わず身を強張らせた。けれど引き上げられた先に待っていたのは覚悟していた痛みなどではなく、魔王の広い胸板。

 気付いた時にはもう、勇者は魔王に抱き締められていた。

 「あったかい…」

 魔王の呟きが無意味に頭の中でエコーして、思考回路が乱れて行く。考える能力の低下。勇者は魔王の腕の中で抵抗も忘れ、ただ呆然としていた。彼は何をしているんだろう。こうする事で命でも吸えるのだろうか。いや違う、彼はただぬくもりを感じているだけ。

 頭を胸板に寄せられる。あったかい。ぬるま湯にでも浸かっているかのような程好いあたたかさに、思わず瞼が下りかかる。トクン、と音が聞こえて、呼ばれたかのように勇者は瞼を上げた。規則正しく音を並べ続けているこれは、心臓だ。心臓の音だ。魔王にも人間と同じように心臓があるのか。何だか意外だ。

 「勇者?」

 見上げると、アメジストがふたつ、こちらを向いていた。きれいな瞳である。成程、こんなにきれいな瞳なら、見つめられて凍ってしまうかもしれない。

 言葉も正気も忘れて魔王を見ていたら、やがて魔王は花が咲くように笑った。

 「眠そうだ」

 え、と。その言葉により薄れていた思考が徐々にはっきりし出す。眠そうだなんて、そんなに自分は呆けた面をしていたのだろうか。いやそんな事より、何を自分はこんな所で安まっているのだ。

 「もう夜も更けて来たしね、当たり前か」

 全てが正常に働き出した瞬間、勇者の体は茹でられたかのように酷く熱くなった。特に顔が熱い。火が出てるんじゃないかと思う位熱い。けれど幾ら触ってみても顔に火などついてはいない。おかしい、どうしたんだ、どうしたと言うのだ自分。

 「はっ、離せ触るなっ!」

 きっと魔王の魔術だ。おかしいのは魔王のせいだ。自分の異常に混乱しながらも、勇者はじたばたと暴れる。べしばしと混乱を押し付けようとでもしているかのように、叩く。

 一方魔王は勇者の抵抗など髪の毛程にも気にせず、何やらんー…と考えているようだった。やがて勇者の抵抗が顔に被害を出し始めた頃、魔王は溜め息と共に心底残念そうな声で呟く。

 「…凄く惜しいけど、もう帰してあげようかなぁ」

 勇者の動きが、力を失ったおもちゃのようにゆっくりと止まった。その変化に気付かず、魔王は笑顔を作り、まるで迷子に話し掛けでもするかのような優しい声音で勇者の顔を覗き込みながら問う。

 「君、何処から来たの? 町や村の名前教えてくれれば、魔術で其処に帰してあげる…、よ…?」

 覗き込んで、魔王は静かに驚いた。勇者の瞳が、揺れていた。きっと表情を翳らせている感情は、恐怖。だってこんなにも彼女は震えている。自分の肩を抱いて、背を丸めて震えている。

 「…どうしたの」

 発作のように現れた恐怖に苦しむ勇者を見、魔王の顔から笑顔が消える。戸惑いが喉を細くして、言葉を詰まらせる。勇者が、独り言のように答える。

 「帰れない」

 あぁ何だ、そういう事かと、魔王は勇者に聞こえぬよう小さく安堵の息を吐いた。きっと勇者という立場上、手ぶらでは帰れないのだろう。この少女勇者の他にも魔王は何人かの勇者に会った事があったので、一応何となくそういう勇者事情は知っていた。勇者の中でも確か目的である討伐を達成出来なかったら死刑、みたいなかわいそうな勇者が過去にもいた気がする。きっと彼女もそういう勇者なのだろう。かわいそうに。

 過去にいたそのかわいそうな勇者は、こちらが話し合いでどうにかしようと誘ってあげたのに、もう殺す事しか考えてないようだったので、仕方なく消えていただいた。だが彼女はそういう人間じゃない。何よりとてもかわいい。無駄な力は使いたくないし、消す事もあまり好きじゃないのでしたくない。それならさてどうしようと、考えながら魔王は言う。

 「…殺されてあげる訳にはいかない、し…。じゃあそうだ、僕の羽を何枚か持って帰れば何とかならないかな?これが倒した証拠ですみたいな感じでさ…」

 「違うの」

 我ながらいい案を思い付いたと魔王は思っていたのだが、勇者は一言否定。違うって…、やっぱり首じゃなくちゃ駄目なの?と問おうとしたら、勇者が顔を上げた。てっきり泣いているんじゃないかと思っていたのに勇者の瞳に涙はなく、あったのは恐怖だけで。涙の入る隙間などない位に彼女の瞳は、怯えていた。赤茶の瞳には間違いなく異形の姿をした自分が映っているのに、彼女は他の何かを見ている。恐怖の、対象を。

 何を見ているのかと魔王が問う前に、勇者は浅く息を吸って、震える声を零した。アタシ、駄目なんだ。帰っちゃ、駄目なんだ。

 「アタシ、殺されなきゃいけない」

 魔王に。彼女は、そう言った。

 魔王は目を見開いた。数百年も生きて来たというのに、言葉の意味が解らない。知っている音が、単語が、言葉が耳を通って脳に届いたはずなのに、理解出来ない。

 彼女は人間(ヒト)だというのに、帰る場所がない?

 噎せ返るような切なさと悲しさと寂しさが魔王の中で暴れ始めた。魔王は勇者を抱き締める。勇者の体が一回大きく震えた。でも拒絶はされなかった。殺さない、僕は君を殺さないから。

 「…まおう?」

 「おやすみ」

 魔王の言葉の意味が解らず、勇者は虚ろな意識の中踠く。抱き締めなくていい。ぬくもりなんかいらない。離して、そう言おうとした時、魔王の大きな両手が両頬に触れて来た。上を、向かされる。魔王が何だか泣きそうな顔で笑っていた。

 「おやすみ、勇者」

 悲しそうに細められた魔王の両目が、怪しく煌めいた。その瞬間、勇者の瞼は一気に重くなり、体からは力が抜ける。

 「おやすみ」

 遠のく意識を引き寄せようとしたけれど、駄目だった。どんどん視界は暗くなり、魔王のぬくもりに落ちて行く。魔王のぬくもりは、まるで海のようだった。あたたかな、深い深い海。

 「アタ、シ…」

 勇者の搾り出した声に、魔王は微笑む。勇者から無駄な力を抜こうとするかのように、魔王は勇者の髪を幾度か撫でて、閉じまいと頑張っている目を手の平で覆った。勇者の視界は、闇に包まれた。

 「此処にいればいいよ」

 海に呑まれる寸前、そんな夢のように優しい言葉が聞こえて、勇者は泣きそうになった。

 やめて、アタシにそんな言葉をかけないで。

 指先からするりと抜けて、意識は勇者から遠ざかって行った。



 僕のものに、なればいいよ。











 白色の天井が、菫色の布に透けて見えていた。

 いつもと違う目覚めの景色に勇者が驚いたのは、起きてから数分か経っての事だった。意識覚醒と共にがばっと勢い良く半身を起こし、辺りを見回して勇者は呆然とする。此処は昨晩、自分が魔王に出会った場所――魔王の館ではないか。

 その事に気付いた瞬間、背筋が凍った。魔王の、館。勇者は慌てて自分の体のあちこちを触った。髪、ある。両耳、ある。目も、ふたつある。鼻も、口も、喉も、胸も、両手も、ある。心臓も、どうやらちゃんとあって動いているようだ。

 そうだ足は、と思い、掛かっていた布団を捲って止まった。…布団? 勇者は今一度自分の寝ていた場所をよく見る。菫色の布が掛かっている、ふっかふかの天蓋ベッド。これは昨日自分が魔王に吹っ飛ばされた先にあったベッドだ。その後確か女だとバレて、何だか訳解らない理由で抱き締められ、て。ぐわっと、思い出したら体の奥から熱が湧き上がって来た。ほんと何なんだ、あの変態魔王は。いや、そんな事は今どうでもいい。問題なのはその後自分はどうしたか、だった。一気に突然眠くなって、それから……覚えていない。意識を手放した時、最後まで魔王の視界にあった気がする。

 此処でこうして考え込んでいても仕方ないので、とりあえず勇者はベッドから降りた。昨晩魔王が座っていた大きな窓からは月光ではなく、今は朝日が射し込んでいる。開けられていたので、爽やかな風が吹き込んで来ていた。

 室内をぐるりを見回す。魔王は、いなかった。

 逃げられたのだろうか、自然とそう思った。自分を殺そうとしている人間がいるのだから、当たり前だろう。逃げた、魔王に逃げられた。

 じゃあ、自分はどうしようか。

 勇者はくるりと、ちゃんと二本ついたままだった足で回った。一回転。部屋の景色が全て見えた。部屋には、窓とベッドしかない。何処にも、魔王はいなかった。

 殺されなかった、死ねなかった自分はこれからどうしよう。くるり、二回転。

 (…どうして、)

 三回転した時、窓から見えた朝日が眩しく煌めいた。

 (どうして)



 アタシを殺してくれなかったの魔王。



 三回転半した所で、勇者は目を見開いて固まった。

 魔王が、いた。確か開けっ放しになっていたと思う入口に呆然と突っ立って、人の姿をした魔王は勇者を見ていた。

 「ま、おう…」

 驚愕の余り、思わず声が出た。いた、逃げてなかった、どうして。疑問が頭の中で渦を巻く。

 「勇者…」

 勇者が魔王に呼び掛けたのと同じように、魔王も勇者に呼び掛けた。

ぽかんと開けていた口を、やがてへらりと笑わせて、そしてわざとらしく首を傾げて、魔王は勇者に問うた。

 「…どうして一人で踊ってるの?」

 「え…」

 「くるくる、って」

 「!!」

 朝の運動? なんて付け足して問う魔王を目の前にして、勇者は顔を真っ赤にした。見られた、今のを。そういえばまず何故自分は回ってなどいたのだろう。バカだ、おかしい自分。なんて恥ずかしい奴なんだ自分。

 「勇者―?」

 「う、うるさいバカ! 見るな忘れろ!」

 どうしていいか解らず、相手は魔王なのに怒鳴ってしまった。はっと冷静になった時、一瞬恐れが胸を過ったが、当の魔王はえぇ僕がいけないのー?と怒りもせずにへらへら笑っている。勇者は呆然として、変な魔王だと呆れた。

 「…あんた、どうしているの?」

 どうして逃げなかったの? そう意味を込めた問いを掛けたら、魔王は笑顔のまま一瞬止まった。何か地雷を踏んでしまったかと勇者が焦る暇もなく、魔王は何か思い出したような声を上げる。

 「あぁ、そうだったそうだった!」

 ぽんっと手を打ち合わせた魔王はそう言うなり勇者の手を引き、長い廊下を歩き出した。何が何だか解らない勇者は、引かれるがままに進みながら訊ねる。

 「なっ何、何処に連れて行こうと…!」

 「下っ」

 「どうして!」

 「朝ごはん」

 「朝っ…ごはん…?」

 勇者の頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くされた頃、魔王は歩きながら言った。

 「早く行かないと、冷めちゃうよ朝ご飯」

 その時の笑顔が何だか嬉しそうで楽しそうだったから、ますます勇者は首を傾げた。











 チーズとトマト入りハムエッグ、程好い焼き加減の食パン、それと温かそうなコーンスープ。その三皿の前で、勇者は目を丸くして椅子に座っていた。

 (何、これ)

 手を引かれ、此処に連れて来られた。さっきまで自分の寝ていたベッド縦三つ分は優にあるであろう長さのテーブル。その右真ん中の席に、これ等はもう用意されていた。

食べてていいからね、と残して小走りで去って行った魔王。残された自分。目の前の料理。

 (何なの、これは)

 「お待たせ〜」

 理解出来ない状況にぽかーんとしていたら、魔王の能天気な声が聞こえて来た。右手にはトレー、左手には瓶を持って現れた魔王は、勇者の正面の席に座ると、トレーに乗せていたもう三皿と二つのグラス、そしてフォークとスプーンをテーブルに置いた。もちろんその三皿は、勇者の前にある三皿と同じ料理である。

 「あ、勇者、食べるの待っててくれたの? 先に食べててよかったのに」

 「え、いや…」

 やっさしーなんて笑いながらグラスに瓶の中身を注ぐ魔王に、勇者は困惑した。はい、と渡されたグラスを反射的に受け取りながらも、頭の中のクエスチョンマークは増えるばかり。ちなみにグラスにはとても冷たい水が注がれてあった。

 「はい、じゃ、いただきまーす」

 「………」

 ぱんっと手を合わせた魔王はそう言うと、ハムエッグの中心にフォークを刺して、豪快に齧り付いて食べ始めた。

 何処となく上品さを漂わせている彼の容姿を見事に裏切る食べ方に、勇者は少し驚く。もっとこう、ナイフとか使って一口ずつ食べるのかと……、いやその前にナイフが用意されていない。

 その小さな子供の食べ方と犬の食べ方を混ぜたような食べ方をしばし見ていたら、口の周りに食べかすを付けた魔王が不思議そうに問いて来た。

 「……どうして食べないの?」

 「えっ?」

 そういえば食べるのを忘れていた。ごめんと謝ってフォークに手を伸ばした所で、勇者ははっと冷静になった。何を自分は食べようとしている? これは、魔王が作った料理ではないか。

 「? 勇者?」

毒が入っているかもしれない。もしかしたら幻覚でこうして食べ物に見せているだけで、本当は人の臓器だったりとか―――

体の奥から汗が噴き出て来る。魔王は目の前。これで、死ねる? これを食べればみんなが望んだように、アタシは。

 「もしかして」

 其処まで思い詰めた所で魔王の声が聞こえた。凝視していた料理から勇者が顔を上げれば、訝しげにこちらを見ている魔王。何を言うのかと、アメシストのようなふたつ目に見据えられて、心臓が張り裂けそうになった。

 魔王の口が、動く。

 「嫌いな物とか、ある?」

 その言葉を耳が聞き取った瞬間、勇者は自分の目が勝手に丸くなって行くのを感じた。口もだらしなく開いてしまっている。きっと今自分は、今まで生きて来た中でも一番間抜けな顔をしていると思う。なのに魔王は至極真剣な顔をして訊いて来るのだ。

 「は?」

 「ほら卵駄目だとか、トマト嫌いだとか、ハムあんま好きじゃないだとか…」

 「いや、ダイジョブ、だけど」

 少しの沈黙。

 「じゃあチーズ嫌いだとか」

 「基本嫌いな物も駄目な物もないから」

 勇者がそう答えると、「よかった」と魔王は安心したかのように笑った。その笑顔が嘘ではないように見えてしまって、勇者はますます彼に混乱する。

 「あ、もしかして勇者ナイフ使う人?」

 「使わない」

 「…なら、ハシ、とか?」

 「……何それ」

 「解った、目玉焼きよりスクランブルエッグのが好きだとか…!」

 「そんな事気にしないし!」

 「それじゃあ何かかけるものが欲しいんだ! 待ってて今取って来るから…」

 「ちょ、ちょっと待って!」

 勝手に色々考えて行ってしまいそうになった魔王の腕を、勇者は慌てて掴んだ。それはもう、反射だった。そうじゃないのに行ってしまおうと魔王がしたから、止めた。それだけだったのに、魔王は酷く驚いた顔をした。そしてその反応に、勇者も驚いた。

 「何…」

 声を掛けると、魔王はあっさりいつもの笑顔に戻った。へらり。そして腕を掴んだままでいる勇者の手に、自らの手を重ねた。そのあたたかい手の平の熱が、勇者の頬を赤らめる。

 「なっ、何して…!」

 「触った」

 「は!?」

 魔王は、笑って答えた。

 「勇者から僕に、触った」

 あのきれいな両目をきらきらさせながら細め、少し頬を赤らめて。何がそんなに嬉しいのかと、誰もが訊ねたくなるような笑顔を魔王はしていた。そしてその理由が自分だと言うのだから、勇者は驚く他ない。

 手を引くのを忘れ、ただ呆然と魔王を見ていた。

 このぬくもりを、受け入れてしまいそうになった。

 その瞬間、全身を拒絶という絶対零度が駆け巡る。

 バシッ

 魔王の手を、勇者は払った。

 衝撃と共にぬくもりは離れ、魔王は表情から色を失う。だから、どうして。

 「…どうして、こんな事するんだ」

 人間のように振る舞い、

 「どうして、そんな風に笑うの」

 人間のように笑う。

 「あんたはッ」

 そんな彼を、勇者はどうしても

 「魔王じゃないの!?」

 “魔王”として見れなかった。

 彼から伝わる温度は、どうにも嘘に思えなくて。『人間のよう』と重ねてみるけれど、実際彼のが理想の人間像には近くて。

 こんな彼を何処からどう見れば“魔王”など恐ろしい者に見えるのか、勇者には教えて欲しかった。

 しばらくの沈黙は発される一言でさえも鋭い剣のように感じ弾けてしまいそうな程繊細に思えた。お互い交わらせた視線を外す事はないない。勇者はただ、魔王と呼ばれる彼の答えを待った。

 「…勇者は」

 外の風が窓を強く叩いたのと、魔王が口を動かしたのはほぼ同時の事。

 彼はもう一度「勇者は、」と口にしてから、言葉を続けた。

 「僕に魔王でいてほしい?」

 訳の解らない問いに勇者は戸惑ったが、問い返そうとは思わなかった。そして答えようとも思わなかった。

 魔王は続ける。

 「討つべき対象でいてほしい? 恐怖の対象で、憎むべき、恨むべき対象でいてほしい?」

 魔王は問いながら徐々に微笑む。その笑顔もきれいだとは思えたけれど、今までとは違う。何処か悲しげで、痛々しく、勇者は胸が詰まるような感覚に襲われた。

ほら、また彼が。

 「勇者」

 人間(ヒト)のように見える。

 「君は僕に、何を求めるの?」

 大きな音を立てて、魔王が翼を広げた。なかった角が伸びて、彼を異形の姿へと変える。

 鋭く伸びた爪が生えている手。アメジストと目があった時、それはもう勇者の首を掴んでいて、その勢いのまま勇者は壁に押し付けられた。短い呻き声が、息と一緒に吐き出る。噎せそうになったが、息が足りなくて出来なかった。首が、絞められている。

 「あはは」

 魔王が笑った。呟くような笑い声だった。吐息がかかる程の至近距離で、魔王は勇者に問う。

 「ほら言ってごらん勇者。君は何を求めるの。栄華や人々の崇拝心を手に入れる為に必要な、僕の首? それとも絶対的な無に辿り着く為の死?」

 魔王の瞳に自分の苦しげな姿が映ってるのが見えて、勇者は今苦しいんだと知った。苦しい。視界の端に机から落ちて零れた料理と割れた皿が見えた時、何故だか酷く悲しくなった。そんな余裕はないはずなのに、魔王の笑顔が脳裏に浮かんだ。優しげで、嬉しそうな笑顔。人間の、ような。

 「勇者覚えてる? 昨日の夜、君は『帰れない』と言った」

 あぁそうだ、自分は帰れない。

 「『殺されなくちゃいけない』とも」

 その通りだ。

 「どうして?」

 ドウシテ? そう問われた時、勇者は答えを失った。今まで上手に、きれいに理解していた自分が崩れていくのを感じた。

 机の端で落ちそうになっていたフォークが、落ちた。絨毯の引かれた床に拒絶されるように弾かれても、フォークは床に落ちた、小さな音を立てて。

 自分が崩れた時も、あれ位小さな音がした気がする。

 「アタシはね、」

 息苦しさから、掠れた声が喉から出た。

 「偽者の勇者、なんだ」

 ぼんやりとした告白だった。まるで自分に言い聞かせて、同時に確認するような――いや、実際そうなのかもしれない。

 これは魔王へと、自分への言葉。魔王の訝しげな表情を見た後、勇者はそう思いながら続けた。

 「ほんとの、本物の勇者じゃない。偽者。剣を持ったのも、人へ振ったのも初めての勇者。守るものも、帰る場所もない、偽者勇者」

 愚かな人々の知恵と嘲笑と(けが)れを着せて持たせて出来上がった、

 「殺される為に作られた、勇者」

 自嘲の笑みが、いつの間にかに零れていた。魔王は、呆然としている。瞳が、水面に映る月のように揺れていた。きれいだと、思った。

 「何で…そんな…」

 魔王が出すとは思えない、情けない声での問い。それに対する答えは、単純なものだった。

 「みんなにとってアタシは邪魔な存在だったから」

 思い出すのは、人々の罵声と望まれた別れの言葉。

 「勇者として、アタシを村から捨てたんだよ」

 “いらない”という完全否定。“帰って来るな”という、繋がりの遮断。

 「そしたらほら魔王が殺してくれるだろうから、みんなは手を汚さなくて済む」

 背を突き飛ばすような、“さよなら”。

 「アタシは勇者として、ありがたく死ねてさ」

 押され進んだ先に待っているモノは、昔から知っていた結末。

 「ハッピーエンドって訳」

 死という、存在の消滅。

 物語に終わりがあるように、自分には死がある。そんな事小さな頃から知っていた。だから、怖くなんかなかった。

 それが一気に近付いて来た位で後退る程、自分は臆病者なんかじゃない。

 「くっだらないでしょ、人間って」

 その人間の中には自分も含まれていた。くだらない、くだらないんだ全て。全部。

 「笑ってやってよ」

 そして、殺して、アタシを。

 魔王と勇者は互いを見交わしたまま、再び沈黙を受けた。

 魔王は、今の話が信じられないとでも、信じたくないとでも言うように目を見開いていたが、やがてくしゃりと顔を歪めて俯いた。漆黒の前髪が垂れて瞳を隠す。

 首が解放された。立つ気にもなれず、勇者はそのままずるりとだらしなくその場に座り込む。深く息を吸ったら、吸い過ぎて噎せた。咳き込んだら、今度はその咳で苦しくなって、思わず背を丸めて咳を続けた。このまま自分の中にある汚いモノが全部出て行ってしまえばいいのに。そしたら自分には何が残るのだろう――と、消滅を受け入れたはずのこの身で無意識にも考えてしまった。残らない、何も残してはいけない。

 止めるに止められなくなってしまった咳を続けていたら、魔王のあたたかい手が伸びて来た。彼は蹲る勇者に身を寄せ、その体を抱き締めた。そして背を、ゆっくりと優しく叩き始める。

 「小さい背中」

 咳が治まって来たなら撫でて、また叩いて。

 「折れちゃいそう」

 「折ればいいじゃん」

 「折らないよ」

 あはは、と魔王が笑った。息も整って来た頃に降って来た雫に、勇者は目を見開いた。顔を上げて一瞬にして全てを奪われた。魔王が、涙を流して微笑んでいた。

 泣く、というにはあまりにも静かで。笑う、というにはあまりにも切なくて。

 彼の今の姿を言葉にすることは、勇者にとって月に触る位難しい事で。

 ただきれいで滑稽だと、そう感じた。

 「同情?」

 訊ねると魔王は「そんな立派なものじゃない」と首を振って笑みを深めた。

 「ただ悲しいだけだよ」

 言葉に嘘はないように思えた。あんなにも鮮やかな瞳から流れているというのに、透明である涙がまた魔王の頬を伝う。

 何が悲しいのかと訊ねようとしたら、魔王が勇者の左頬に触れた。そこには、傷がある。幼い頃村人につけられたもので、今はもう厚いかさぶたで覆われてある大きな傷。どうして、何で、どういう風につけられたかは覚えていないが、凄く怖かった記憶がある。

 その傷を悲しそうに、魔王は指でなぞった。

 「魔王…?」

 勝手に口が彼を呼んだ。なぞられた傷は何故か熱を持ち、熱く感じる。魔王は、言った。

 「僕ももしかしたら――魔王じゃないかもしれない」

 彼がそう告げた時、勇者は考える事を忘れていた。ただ、彼の次の言葉を待った。

 「多くの人がね、僕を魔王と呼んだから、僕は魔王になった」

 ただ、それだけ。と、彼は笑った。

「気付いたらこの姿をしていた。ちょっと他の魔物よりも力が強かった」

なりたくてなったんじゃない。

「生き始めたときから、僕が僕を知った時から僕はこうだった」

その事を望んでいないのか、彼は、魔王はただ寂しげに笑っていた。涙は、止まっていた。まるで自分の為に流す涙などないとでも言うように、アメジストは雫を零すことをやめた。

「まぁ、あんま嬉しくなかったよ、魔王なんて。大袈裟だと思ったし、何だかとっても寂しかった」

涙の伝った痕の残る顔で、魔王は苦笑する。

 「けど、僕にはそれしかなかった」

 誰もいない、誰も知らない、自分もよく覚えていない、朧げな始まりから生まれた自分。

 「“魔王”として存在する以外、僕の居場所はこの世になかった」

 異形の姿と生まれながらの孤独が、彼を魔王に仕立てた。

 望んで立った場所じゃなくても、其処にいるしかなかった。

 偽りの勇者も、成行きの魔王も。

 望む場所を手に入れる為の孤独を愛すより、立ち止まる事を選んだ。

 「勇者」

 其処を自分の居場所(もの)にすべく努める事が、彼等の

 「僕と一緒にいない?」

 唯一の自由だった―――

 「え…っ?」

 魔王の突然の誘いに、勇者は愕然とした。彼の言葉に耳を、彼の優しげな微笑に目を疑う。

 何故、どうして、何で。似たような意味の言葉が浮かんでは消えの繰り返し。何か言おうにも口は半開きのまま動かず、息さえ上手く吸えない。

 ただ真っ直ぐに魔王と、魔王の瞳に映っている自分を見つめた。

 「僕等は何処か不安定な所がよく似てる」

 魔王の紡ぐ言葉に、耳を欹てる。

 「それでも存在していたい所も、また同じように」

 彼の言葉は子守唄のように心に沁みて、安らいだ。

 「だから、一緒にいよう」

 その旋律は悲しげで切なくて痛ましかったけれど、

 「お互いがこの世に生きている事を、存在している事を証明する為に、一緒にいよう」

 思わず耳を塞いでしまいそうになる位、怖かったけれど

 「僕は魔王として、君は勇者として」

 それでも、とても

 「此処に、いよう」

 あたたかかった。

 騙されているのかもしれないと、本当の勇者なら考えたかもしれない。信じてはならないと、耳は傾けてはならないと、勇者である本能が告げたかもしれない。けど、自分は違った。

 「…いいの…?」

 自分は、偽者だから、魔王に問いた。

 「アタシ…存在して、いいの…?」

 愚かだと、嗤うなら嗤ってくれていい。

 くだらないと、蔑めばいい。

 けれど彼は答えた。

 「もちろん」

 だから勇者(アタシ)は、魔王を、信じた。

 「―――…う…っ」

 漏れたのは嗚咽だけじゃないと。流れたのは涙だけじゃないと。

 「ぁぁっ…わあぁぁんっ…!」

 解ったけど、知らないフリをした。

 知ってしまったら、勇者でいられない気がした。

 少女じゃいけない、人間じゃいけない。

 アタシは、“勇者”なのだから。

 「…よしよし…」

 魔王の大きな体に包み込まれて、アタシは思い切り声を上げて泣いた。

 まるで今生まれ、初めてこの世を吸い込んだ時の赤ん坊のように泣いた。

 魔王ももしかしたら泣きたかったのかもしれない。

 だってアタシ達はやっと今生き始めたのだ。たった一人の相手にしか聞こえない位小さい音で、存在の鐘を鳴らし始めた。

 此処から始まる。

 アタシ達は生きる。

 絡め合わせた指は五本でも十本でも足りない気がしたけれど、

 光と闇を繋ぐには、不安定なアタシ達には、

 これ位が丁度いいと思えた。



 戯曲は、乱れる。











 季節は僅かに進み、秋は完全に一年の眠りについた。

 館を守り、人を拒むように茂っている木々は冬になっても枯れず、まるで勇者と魔王がお互いを見つめ合ったあの日から時が止まってくれているような、そんな幸せな錯覚を呼んだ。

 そんな事はありえない。

 身は凍て付くような寒さをより一層感じ始め、吐く息は白く染まり、空は徐々に高く遠くなる。

 そして勇者と魔王はより深く、より重く、より確かに互いを思った。

 時は、流れていた。

 流れれば流れるだけ愛しさは積り、流れれば流れるだけ未来(サキ)を恐れた。

 善と悪が、光と闇が交わる事をセカイが許すはずないと、二人は知っていた。

 いつか別れが来る事を、何処かで覚悟していた。

 それでも繋ぎ合った手を、絡めた指を解く事はしなかった。

 別れが運命なら、共にいる事も運命だと信じた。

 そして、同時に

 二人でならセカイに刃向かえると、希望を宿していた。


 見放してくれていいと、セカイに祈った。


 忘れてくれていいと、セカイに告げた。 


 セカイの盲目を、心から望んだ。


 二人は忘れていた、空が高く遠くなればなる程にセカイの視野が広まる事を。

 セカイは高い所から、全てを見下ろす。

 寒さのように凍て付いた心で、吐いた息のように真っ白な何も知らない心で。



 二人を―――見つける。











 人間は冬眠しない。だから晩冬を迎えた今も、街に人は溢れている。

 忙しそうに動いている人々を、勇者は少し離れた所から一人で眺めていた。

 魔王は二週間に一度、人の姿をしてこの街の市場に必要な物を揃える為に訪れる。それは勇者と共に暮らし出してからも変わらず、丁度今日がその日だった。

 何でも此処は魔王のお気に入りの市場だそうだ。食べ物の味良し鮮度良し品質良し、その上人と人との触れ合いが盛んでいてあったかい。魔王らしい理由だと、勇者は思う。彼は人のぬくもりを、愛しているから。

 ぶんぶんと手を振る姿に焦点を合わせれば、やっぱり魔王で。片手に大きな紙袋を抱えている彼は、勇者が自分に気付いた事に気付くと、とても嬉しそうに笑った。

 その笑顔につられて笑いながら、勇者は魔王の許へと行く。

 魔王は近付いてくるその姿に手を伸ばしながら、こう言った。

 「お待たせ」

 勇者はその手を取り、こう返した。

 「遅い、バカ」

 笑顔で二人はどちらともなく手を握り合う。

 そしてまた、人波にまぎれて歩き出した。

 「他に買う物は?」

 見上げて問う。魔王は前を向いたまま答える。

 「マーマレードのジャム」

 「あぁ…朝食にアタシが使うやつだよね? もうなかったっけ」

 「まだ少し残ってるけど、多分二週間はもたないよ。勇者、一回に使う量凄いし」

 「そんな事ない」

 「あるよ。だって確かこれ前回の買出しの時も買ったもん。勇者しか使ってないのに、この消費量はおかしいでしょ」

 「聞こえない」

 「あ、またそうやって! もー」

 慣れた会話、溢れ零れる笑顔、手を繋ぐという当たり前の行為。

 全てが、夢のように幸せで。あったかくて。

 今自分は幸せなんだと、勇者はそう思っていた。

 果物屋に足を運び、ジャムを買う。オレンジ色した果皮と果肉の詰められた瓶をひとつ手渡され、笑みが零れた。きれい、と呟くと、銀貨を店の女性に渡した魔王がそうだね、と微笑んだ。瓶の中身よりもずっときれいな魔王の瞳が優しく細められていたから、勇者は何だか嬉しくなって頬を赤らめた。

 「あぁ、そういえば聞いたかい?」

 魔王から受け取った銀貨をしまいながら、女性が勇者達に問う。この女性は物凄い噂好きで、その上噂で仕入れた情報を人に教える事も同じ位好きである事を、この店の常連である二人は知っていた。

 「何をです?」

 その情報を聞かされる事もしばしばだったのでいつも通りに聞き返したのだが、どうやら今回のはいつもの情報のように面白おかしい物ではないらしい。何やら複雑そうな表情をしている女性に、勇者と魔王の二人は顔を見合わせ、女性の口が動くのを待った。

 「この国の双子の王子がもうすぐ成人するのは知ってるかい?」

 問いに、勇者は迷わず首を左右に振った。まずこの国に王子がいる事すら初耳である。一方魔王は 「もうそんな御歳なんですか」と驚いているので、どうやら知ってるようだ。

 女性は二人の反応に言及せず、話を続ける。

 「それで王様ももう結構な御歳だろう? だから王位を第一王子に譲ろうとしたらしいんだけどね、お妃様はそれに大反対」

 「お妃様は第二王子を次の王様にしたいんですか?」

 「どうやらそうみたいなんだよねぇ…」

 どうせ同じ顔で同じ位の実力なんだからどっちでもいいと思わないかい?と言う女性に、魔王は追従笑い。

 「で、その決着を来月、ひと月まるまるかけて行うらしいんだよ」

 「へぇ興味深いですね。一体何で決着つけるんですか?」

 魔王の調子良い相槌に気を良くしたらしい女性は、もったいぶるようにたっぷりと間を空けて一言こう言った。

 「―――魔物狩りだよ」

 その言葉が耳に触れた瞬間、息が詰まった。衝撃で倒れてしまいそうになる体を、勇者は踏ん張って支える。ジャムの瓶を、縋るように握った。嫌な汗が体の心から噴き出て来る。自分の鼓動がうるさくて、他の音が聞こえない。

 「どうして魔物狩りなんですか?」

 隣で魔王が信じられない位平然とした声を出している。女性は肩を竦め、呆れ声で言った。

 「さぁ。王族の考える事はあたし等凡人には理解出来んよ。この国の魔物は大した悪さしないし、変な波風立ててほしくないんだけどねぇ」

 ちなみに勝敗は狩った魔物の数らしいよ。女性の情報に勇者は目眩さえ感じた。体中の水分が全部汗となって出てしまっているのか、酷く口の中が渇く。こんなにも汗が出ているのに、体は熱い所か氷のように冷たくなっていた。

 「東の…」

 声が震える。

 「此処から東の方にある深い森にも…王子は来るんですか…?」

 勇者の尋常でない様子に訝しげな表情をしながら、女性は答えた。

 「あぁあそこの館の魔王はこの国じゃ結構有名だから、行くんじゃないかね」

 瓶を、落とした。弾けて割れた瓶の破片と共に、宝石のような果実が飛び散る。大好きなマーマレードのにおい。

 女性が短い悲鳴を上げた。聞こえない。崩れそうになる体に鞭を打ち、勇者は行く先決めずに走り出す。

 魔王が大きな声で呼んでいる。聞こえない、何も聞きたくない。耳を塞いで、必死で逃げた。アタシは何も知らない解らない聞こえない見ない。目も瞑って、ただひたすらに足を動かした。人にぶつかった。それでも走って、逃げた。何処に、何処かに。魔王とアタシしかいない、幸せな場所に。

 「勇者待ってッ!!」

 曇天。冬の空の下、

 アタシは、ただ逃げた。

 セカイから。



 

 

 セカイお願い、

 貴方達の居場所をアタシ達は侵さないから

 どうかアタシ達の居場所を

 壊さないで―――











 怯える勇者に、魔王は微笑んだ。大丈夫だよ、と幾度も囁いた。

 魔王を信じるしかなかった、どうしたらいいか解らなかった。

 怖かった。ただ迫って来る何かが怖くて。

 ぬくもりに抱かれながら、ひたすら逃げようと喚いた。

 魔王は、微笑んでいた。

 いつも通り、微笑んでいた。

 大丈夫だよ、と。











 噂を聞いてからも何も変わらない何日かが、当たり前のように過ぎた。

 変わった事といえば自分の中に蠢く負の感情が今までより大きくなった位で、魔王は今まで通り魔王らしくない、実に人間臭い呑気で平和な日々を送っている。

 あの情報は嘘だったんじゃないだろうか。実はあの女性が自分達をからかう為に嘘をついて――なんて、

 (……ない)

 そんな事は、ない。いい方へと自分を誘う思考に嫌気が差す。大体あの女性が自分達を騙して何の得になるというのだ。突っ込めば突っ込むだけ崩れて行く幸せな未来の幻は、自分を痛め付けるだけで悲しい。

 窓から見上げた空は、眩しい位に晴れていた。こういう日の事を、冬日和とでも言うのだろうか。 昨晩『明日は冬日和になるよ』と言っていた魔王の姿を、瞼の裏に閉じ込める。

 (あと、三日)

 吐く息はますます白くなり、冬も終わりに差し掛かっているというのにも関わらず毎日寒い。

 (あと三日で)

 この国の双子の王子の王位継承を巡る、“魔物狩り”が行われる月になるというのに。

 セカイも、自分達も、何も、変わらないでいる。

 それが、勇者には信じられなかった。

 「ゆーうしゃっ」

 お気楽な甘え声を出して、魔王が後ろから抱き付いて来た。冬の寒さを纏っていた体は彼の体温によって徐々にあたためられ、同時に他の意味でも勇者の体温は一気に上昇する。

 「離せバカ魔お…っ」

 「わー、勇者鼻真っ赤。かーわいっ」

 振り返りざまに払い除けてやろうとしたのは見事に失敗に終わり、その上魔王に顔をまじまじと見られて、勇者はより赤面した。突かれた鼻を手で隠しながら何か言い返してやろうと試みるが、口がぱくぱくと動くだけで何も出やしない。

 「女の子は体冷やすのよくないんだよ? その上勇者は寒がりなんだし、風邪でも引いたらどーすんの」

 「うるさいバカ! 余計なお世話!」

 結局出たのは低レベルな悪口。叩いてやろうとしたが、魔王はそれさえもひらりと避け、笑う。

 「勇者、今すぐ外に出る用意をして」

 勇者のくせっ毛をくしゃりと撫でて、魔王は囁くように言う。その何処か浮かれている声に、撫でられた所を手で整えながら、勇者は訊ねる。

 「何、どっか行くの?」

 「うん」

 それに魔王は、満面の笑みで楽しげに答えた。

 「僕がこの世で一番美しいと、思った場所に」











 「―――わぁ…っ!」

 目の前に広がった景色に、勇者は思わず声を上げた。顔が自然と綻び、恍惚として辺りを見回す。一面が咲き乱れている花で埋め尽くされていた。まるで楽園のような世界が、此処にはあった。

 飛ぶから、僕にしがみ付いていて。そう魔王に言われた時、正直戸惑った。大体三ヶ月位勇者は魔王と一緒にいたのだが、その間一度も彼が翼を使って移動している姿を勇者は見た事がなかった。飛ばないのかと以前問いた所、魔術の方が楽だからあんまり使わないと答えていたものぐさ魔王の、突然の飛行宣言。一瞬生命の終わりを感じる危うさを心に覚えながらも、勇者は魔王を信じた。

 結果目にごみがーだとか、風で軌道がーだとか、疲れたーだとかと口にしてはフラフラと予想通り危ない飛行を魔王は行った。乗り心地は最悪だし、落ちそうにはなるしで文句を言いっ放しの勇者だったが、本当は悪くなかった。

 見上げていたはずの空がこんなにも近くて。風は何処までも冷たくて。

 辺りには何もない。壁も、木も、人も。あるのは果てしない空間と、自由な風と、魔王と自分だけ。

 二人だけに、なれた気がした。辿り着きたかった場所は、此処な気がした。

 涙が出たのはごみが入ったからだと魔王に嘘をついた時自分は、どんな表情(かお)をしていたのだろうか。

 「きれいでしょ」

 後ろから魔王の声がして、振り返る。魔王は森と花畑の境界のような場所に立って笑っていた。

勇者は頷く。

 「うん!」

 「凄いでしょ」

 「うん!」

 此処があの気味の悪い森の一部だとは思えなかった。まるで別世界別空間。

 冬なのに花が咲いているのはおかしな事だと思ったけれど、今はそんな事どうでもよかった。後で魔王に聞いてみればいい。

 今はこのまま、思い切りはしゃいでいたかった。

 「あんまり奥に行っちゃ駄目だよ。僕の目の届く所にいて」

 「うんっ」

 出来るだけ花を踏まないように、跳びはねるように歩く。まるで蝶にでもなった気分になった。

 ふわりと吹いた風は花の甘い香りを舞い上がらせて、花びらを散らす。

 きれいだと、ただひたすらそう思った。

 ずっと此処にいれたなら。そう思った瞬間、突き刺すように負の感情が勇者の胸に入り込んで来た。―――いられない、此処には。跳ねる事をやめ、森の方へと振り返る。愛しい魔王が、笑っていた。

 (アタシ達は逃げなくちゃいけない)

 二人の存在を守る為に、逃げなくてはならない。

 だからもう、此処へは来られない。

 「まおうーっ」

 呼ぶ。魔王はこちらを見てるだけで、こちらには来ない。けど、今はそれだけでよかった。

 この声が、届けばいいと。

 「今度住む家には庭作ってよーっ」

 貴方に、聞こえればいいと。

 「そしたらさぁー、いろぉんな花咲かせよーっ?」

 ただ

 「アタシとぉー、魔王のー、ふたりでーっ!」

 貴方が笑ってくれたらいいと、思った。

 勇者の声が聞こえたらしく、魔王は一瞬ぽかんとしていたが、やがて花にも負けない位眩しい笑顔で笑って頷いた。その返事に勇者は嬉しくなって、もう一度大声で言う。

 「約束だからねぇー!」

 彼は今度は笑いながら手を振って来た。

 勇者もその手を振り返す。











 咲き乱れる花の中で楽しそうにしている勇者を見ながら、魔王は近くの木の幹に背を預けてその場に座った。角と翼をしまおうかと思ったのだが、どうせ帰る時もう一度飛ぶ訳だしそのままにする事にした。一々出したりしまったりはめんどくさい。

 一時勇者から目を離して、空を見上げる。晴天。冬日和だと、思った。微笑む。

 初めて此処に来たのは、確か七十年前だったと思う。凄い雨の中で、雷も鳴っていて、それでも自分は飛んでいた。前に暮らしていた館から追い出された自分は、あてもなくフラフラと飛んでいた。

館から追い出された理由は、確か近くの村の村長が突然病で死んだからだったと思う。そんな事自分は知らないし、関係ない。けれど村人達は確かな殺意と憎悪を瞳に宿し、おまえのせいだと叫んでいた。

 笑って、しまう。笑ってしまう位悲しかった。魔物、自分達は、存在するだけで彼等を不幸にしてしまう。

 館も森も、みんな焼かれた。弾が、幾度となく体を傷付けて。

 たくさん、硬い物で殴られた。右足を、潰された。羽を、多少毟られた。

 でも、自分は生きている。こんな酷い傷もやがて癒え、また生き続ける。

 幾年生きているのか、自分が訊ねたくなる位で。

 生きていたく、なかった。死にたくも、消えたくもなかった。

 どうしたいのかは、――自分が一番解らなかった。

 朧げになりつつある視界は、いつまでも深い森の暗い緑と雨空の灰色を魔王に映す。

 希望のないセカイだと、魔王は虚ろに思った。嗤ってやりたくなったけれど、最早口角を上げる力すらも出なかった。

 ガクン、と。体から突然力が抜けた。遠かったはずの緑が勢い良く近付いて、灰色が遠くなる。

 急速な世界の移動と残像。木々に突っ込んで、やっと自分が力尽きて落ちた事に魔王は気付いた。とはいえ衣服やら髪やら翼やらが枝に引っ掛かってしまっているらしく、地面への直接落下は免れたようである。

 痛みは、ない。何かが皮膚を押しているような感覚は何となくあるけれど、痛みはもう感じられなかった。麻痺してしまったのだろう。

 下向きになってしまったらしい自分の体からではもう緑しか見えない。色まで失ったら、自分は何を見て進めばいいのだろう。遠退いて行く意識、迫る闇。

 もう眠ってしまおう。そう思った時、視界の端に明色がちらついた気がして、魔王は閉じかけた目を見開いた。

 混濁しつつある意識の中、目を凝らし、それを探す。それは確かに木の下にあり、オレンジ色をしていた。何なのかは視界がぼやけているせいでよく解らない。小さな点に見える。

 魔王は手を伸ばし、“それ”を求めた。“それ”が点であろうが何であろうが、どうでもよかった。ただ、“それ”の近くに行きたかった。

 手を伸ばすだけでは届かない。魔王は力を振り絞って、枝の中をもがいた。刺さったって構わない、痛くなんかない。“それ”に近付けるなら、構わない。

 やがて身は枝から解放された。落ちて、地面に体を打ち付ける。凄い衝撃だった。一瞬暗転した視界から闇を払い、見る事に全ての力を使う。“それ”が視界から消えた時、酷く怖くなった。早く見つけないと。焦燥と恐怖が氾濫した川の水のように溢れる。

 “それ”は、魔王の伸ばした指の先にあった。

 小さな、オレンジ色した花だった。

 小さくとも、たった一輪でも凛と咲き、誇らしげに其処で根を張る、ただの花。

 緑に囲まれようと、灰色に見下されようと、孤独を儚さに変えて咲く、オレンジの花。

 “それ”を見付けた時、その姿を見た時、何故だか涙が出た。雨の雫とは違う、伝った肌を溶かすような熱を持った雫。それが目から零れ、流れる。

 泣く力なんて残っていたのか。こんなにも体は冷たいのに、目がとても熱い。

 どうして泣いているのかも、どうしてこんなにもこの花を愛しいと思うのかも魔王は解らなかった。

 ただ泣いた。泣いて、気を失った。

 花は、魔王の傍にずっといてくれた。其処に咲いて。

 「魔王―っ!」

 はっと意識を現実に戻す。慌てて焦点を勇者に合わせると、彼女はこちらに向かって走って来ていた。

 「どうしたの? 勇者」

 自分の目の前に来た勇者に魔王は問う。問われた勇者は笑顔のまま、「はい」と背に隠していた何かを魔王に差し出す。それは一輪の小さなオレンジの花だった。

 「魔王にも、“きれい”のお裾分け」

 花を、受け取る。勇者を見る。勇者は、嬉しそうに顔を綻ばせていた。

 「…ありがとう、勇者」

 「どーいたしましてっ」

 つられて微笑みながら魔王が礼を言うと、勇者はまた花畑へと走り出した。

 「転ばないようにねー」

 そう言葉を掛けると、大きなお世話と返された。あはは、と笑う。

 花畑を、勇者が駆ける。

 魔王は渡された一輪の花を見る。あの雨の日に見付けた花に、よく似ていた。

 七十年かけて、魔王はこの花畑を育て作った。最初はあのオレンジの花から始まって、今はこんなにもたくさんの花になった。もう、魔王が何もしなくても、花達は生き、育ち、増えていくだろう。

 花達は花達の、居場所を作った。

 魔王はただ最初に生きる場所と、栄養と、少しの優しさを与えただけ。

 花は、もう大丈夫。生きていける。

 魔王は、必要ない。

 「…寂しいなぁ」

 風が、言葉をさらう。花びらを巻き上げて、勇者を彩る。

 花の、たくさんの花の中で彼女は幸せそうで、楽しそうで――きれいだった。

 「勇者は、たくさんの花に囲まれていた方がいいよ」

 独り言。顔には笑顔を、手には花を。

 花に、キスを。

 「僕は……これだけでいいから」

 アメジストの瞳が、悲しげに細められていた。

 風が、また何かをさらう。












 月がどうしてあんなにきれいなのかを、幼心で考えた事がある。結論は随分とファンタジックなものだった為、今思い出すと何だか笑ってしまうし恥ずかしい。あの時は納得していたのに、真面目にそうだろうと思っていたのに、大きくなった自分は色々かわいげという物を何処かに置いて来てしまったようだ。

 けどそれが間違ってるとは、一度も思った事はない。月と彼を重ねている今だってそうだ。寧ろ彼を知って、何だかこの答えは合ってる気さえしてきた。

 月は夜空で独りぼっちで寂しいから、かわいそうだから神様がきれいにしてあげたんだ。そしたらみんなが見てくれるから、寂しくないって。

 「勇者?」

 窓の外を見ていたはずの魔王が、いつの間にかに振り向いていた。名を呼ばれ、魔王に見とれていた勇者はびくと身を震わせ我に返る。

 「な、何?」

 「いや、ぼーっとしてたからどうしたのかなぁって。寝る準備出来た?」

 「うん」

 「歯磨きちゃんとした? トイレ行った?」

 「いい加減それ訊くのやめてよ、子供じゃないんだし」

 出会ったあの日から、勇者は魔王はずっと同じベッドで一緒に寝ている。ベッドがひとつしかない、というのが大きな理由だが、魔王がそうしたいと言ったのも理由のひとつだ。二人で寝るとあったかいでしょ?なんて言って抱き付いて来た魔王を蹴ったり殴ったりして拒否した勇者も、今は当たり前のように寝ている。実際ほんとにあたたかくて心地良いのだ。

 あたしの事バカにしてんの?という問いに魔王は笑うだけで否定も肯定もしない。勇者はとりあえず一発殴ってからベッドに入った。魔王も後から続いて入る。

 「今日は疲れたでしょ、早く寝な?」

 そう言って魔王は勇者の短いくせ毛を指で梳き出す。魔王はこうやって人の髪をいじるのが好きだ。どうしてなのかは知らないが、一緒にいるとよく人の髪に触れて来てはこうして梳いたり結ったりしている。一種の癖なんだろうか。

 「…だから、子供扱いしないでよ」

 勇者が少しむくれてそう言うが、魔王はへらりと笑って返答。

 「してないしてない」

 「してるように聞こえる」

 「気のせいだよ。あぁでも今日の花畑での勇者はいつになく女の子女の子してたね。こう、なんて言うか少女の煌めきがきらき」

 「うるさい」

 それ以上言うなと遮るが、魔王はかわいかったんだよーとへらへら。言葉は通じない、と勇者は少し赤くなった顔を隠すように魔王に背を向け壁の方を見る。えー勇者こっち向いてよーなんて声が聞こえるが無視だ。

 (…これで、今日が終わる)

 魔王の自分を呼ぶ声を聞きながら、思う。

(あと、二日)

 早く逃げないと。そう思うのに魔王は動かない。明日此処を出るのだろうか。急かせばいいのに自分も何処かこの館を、魔王と出会ったこの館を捨てる事が寂しくて言えない。魔王もそうなのだろうか。そうだと、少し嬉しいかもしれない。

 「魔王、」

 身を捻り、魔王を見る。アメジストの瞳は、今日もきれいな色をして自分を見てくれている。それがとてつもなく嬉しい。

 「アタシね」

 魔王の手を掴んで握る。あたたかい手の平に、愛しさを感じた。

 「魔王に出会えて、よかったって思ってる」

 アメジストの瞳が、言葉に驚き収縮する。

 「魔王と一緒にいれて幸せ」

 何だか、恥ずかしくて顔が綻ぶ。

 「幸せだよ」

 大切な事だから、伝えたい言葉だから二回言った。魔王は驚いた顔をして、勇者を見ている。

 「……そんだけっ」

 その視線が段々恥ずかしくなって来て、勇者はまた壁の方を向いた。顔が熱くなって来て、心拍数が上がる。

 「おやすみ」

 震える声でそう言うと、後ろで魔王の小さく笑う声が聞こえた。きっと魔王のことだから、また微笑んでいるのだろう。

 髪を撫でられて、頭にキスを落とされた。口にはして来ないけれど、魔王はよくキスして来る。それがどうしても慣れなくて、真っ赤になった顔をよく笑われる。現に今も真っ赤だ、頭なのに。

 「おやすみ、勇者」

 魔王の声。勇者は瞼を下ろす。

 明日逃げる素振りがなかったら言おう、逃げようって。

 「おやすみ」

 彼が月なら、自分は月のうさぎになろう。星でも太陽でもない、月のうさぎ。

 ずっと傍にいよう。

 彼が、自分が、寂しくないように。

 月もうさぎも―――もうきっと寂しくなんかない。











 窓の桟に、小さな花瓶を置いた。その花瓶には、今日勇者にもらったあの小さなオレンジの花が挿してある。

 少し生気を失っていまってはいるが、こうしておけば朝にはまた元通りだろう。きっと勇者が見る頃には、きれいに咲いてくれている。

 魔王は微笑んで、月を見上げた。満月。確か勇者と出会った日も、こんなきれいな満月だった。きっと今日で丁度出会って三ヶ月なのだろう。思い返せばあっという間で、噛み締めると長いようにも感じれた。

 勇者に出会って、勇者と一緒にいて、純粋に毎日楽しかった。きっと今まで生きて来た中で、一番幸せな三ヶ月間だったと思う。そして、一番大切な三ヶ月間だった。

 ‐魔王に出会えて、よかったって思ってる‐

 勇者の声が、よみがえる。まさかあんな事を言われると思ってなかったので、本当に驚いた。

 「…かわいいなぁ、勇者」

 何を思って言ったのだろう。きっと彼女の事だから、言いたくなったから言ったのだろうけど、それにしてもタイミングがばっちり過ぎて、バレたんじゃないかとハラハラした。

 「かーわい」

 どうして、こうも彼女は自分が求める言葉をさりげなく零すのだろうか。

 ‐魔王と一緒にいれて幸せ‐

 まるで心を見られているようで、怖くなる。この愚かな想いの詰まった醜い心を見られてるんじゃないかと、時々酷く怖くなる。

 だって自分には、彼女幸せになど出来やしない。

 「勇者…」

 出来やしないのに自分は、彼女を愛している。

 ‐幸せだよ‐

 こんなにも彼女を求めている。

 こんなにも、彼女を自分のものだけにしたいと望んでいる。

 こんなにも―――醜い。

 「あ…?」

 頬に何かが伝う。触れると、指先が僅かに濡れた。まさか、と窓ガラスに手をついて己を見る。ガラスに映っている自分は、泣いていた。人間のように、泣いていた。

呆れた。

 「……あは、は」

 何が、悲しいと言うのだ。何が、辛いと言うのだ。

 「僕、まだ泣けるの?」

 これは彼女の為であり、

 「…バカらしい」

 自分の為でもあると言うのに。

 「こうするって決めるまで、さんざん泣いたってのにさ…っ」

 そう言って、魔王は顔を歪めた。溢れるように、瞳から涙が流れる。目が熱い、痛い。

 「いた、いッ…」

 居たいと願う心が、痛かった。咳のような嗚咽を漏らし、声なく泣いた。

 オレンジの花が、落ちた涙の水滴を吸った。


 魔王は今夜、自らを消滅させる。

 魔力と、自らの手によって。











 せめて消える時はきれいな顔で、と思っていた訳ではない。それでも窓に映る自分の情けない顔に、魔王は呆れた。正直泣くと自分でも思ってなかった。もう覚悟は出来てると。けど泣いた事により、何だかすっきりした気分になれたので、よしとする。

 (これでいい。僕はもうたくさん生きた)

 無駄に生きたとは思ってない。だって勇者に会えた。勇者に会えたから、自分の命のも意味があったんだと思えた。

 (ありがとう勇者)

 勇者にはたくさんのものをもらった。

 これ以上は、もういいよ。これ以上は、もったいない。

 これだけあれば、もう充分だ。

 「勇者…」

 僕の、愚かで情けないバカな魔王の、最後のお願い。

 魔王は翼を広げる。窓に映る角の伸びた自分を見る前に、その場に崩れるように跪く。

 (どうか)

 「――――――」

 己の胸に手を当て、呪文を唱える。これは、今まで自分に襲い掛かる何人もの人間を消した呪文。

 そして、―――これから自分を消す呪文。

 ドクン、と一度心臓が大きく脈打ち、視界が揺れる。それきり何もない。

 あとは、徐々に消えて行くだけ。

 手の平を見ると、左の指先が砂のように、あるいは泡のように消え始めていた。

 一気に恐怖が込み上げて来る。

 (どうか勇者として幸せになって)

 きっと勇者に、本物の勇者になれたら、人としての幸せが手に入る。

 (君は、人として幸せになって)

 消えて行く自分。骨も、灰も残らない。ただ衣服と、“いた”という過去だけが残る。

 怖くない訳がない。死ぬ事が、消える事が怖くない者がいるはずない。いたとしたらそれは、とても寂しい者だ。とても、悲しい者だ。

 (そして、どうか)

 恐怖の中に混じる、彼女への狂おしい程の愛おしさ。

 身を焼くような、愛しさ。

 (どうか、消えて行く僕を)

 あんなにも今まで愛でて来たのに、まだ足りないという醜さ。

 会いたいと、願う愚かさ。

 (死ぬ僕を)

 彼女の名を呟きかけた時、魔王は聞こえた音に身を震えさせた。扉の方を見る。開け放したままの扉、聞こえた足音。

 闇から浮かび上がるようにして、姿を見せる影。戸惑いながらも近付いて来る、足。

 恐怖に満ちた――――勇者の顔。

 (見ナイ デ)





 「魔王!!!」











 きっとこの突然訪れ、過ぎ、終わろうとしているアタシの幸せを、神様は必然であったとか偉そうに説明するのだろうか。



 弾けるような叫び声と共に駆け出した勇者を、魔王は思い切り抱き締めた。それは姿を見られたくないという思いと、身を支配する彼女への愛しさから来た行動だった。

 抱き寄せた少女は小さく、か弱く、脆く、そしてあたたかい。

 「どうしてッ…!」

 勇者が嘆く。

 「どうして…こんな…ッ!」

 声は震えていた。体もまた同じように。

 魔王はよりきつく勇者を抱き締め、その頭を撫でながら囁く。

 「…僕は、幸せだった」

 「だったら!」

 勇者が魔王の胸板に押し付けていた顔を上げ、叫ぶ。その顔は怯えていて、悲しそうで、どうしようもない怒りを抱いて泣いていた。

 「だったらどうしてこんな事しようと思ったんだッ!」

 魔王は、微笑む。勇者の全ての感情を受け止めることしか今の、消え行く自分には出来ない。

 全てを弁解出来るなど、思ってはいない。それでも受け、答えたかった。ひとつでも多く。

 「……置き手紙、読んでくれた?」

 問われ勇者は頷いた。あの紙切れ一枚で全てを終わらせようとした彼を、信じられない奴だと思った。

 あんな独りよがりの優しさが詰まった手紙、自分は欲しくなかった。

 ‐勇者、おはよう‐

 ‐突然だけどさよならです‐

 「理由は、あの通りだよ」

 ‐起きたら、冷蔵庫に入ってる朝ご飯を食べてください‐

 ‐それから二回の一番奥の部屋に行って下さい‐

 「勇者に、幸せになってもらいたかった」

 ‐其処にある、僕の右手を衣服を持って、王様のお城に行って下さい‐

 ‐ちゃんときれいな服を着て。お城に着いたら「魔王を倒しました」って言って下さい‐

 ‐本物の勇者になって、‐

 「人間として幸せになってほしかった」

 ‐人間としての幸せを、手に入れてください‐

 魔王は、優しく笑った。消えつつあるというのに、どうしてそんな顔で笑えるのか。勇者には理解出来ない。

 自分は、もう殆ど消えてしまった彼の左翼を視界に入れるのさえこんなにも恐れているというのに。

 勇者は魔王の左頬を思い切り引っ叩いた。バシッという音がして、魔王の白い頬がみるみる内に赤く腫れる。呆然と勇者を見る魔王。勇者は涙を零し続けている瞳で魔王を睨んで、彼の首に手を回す。

 そして彼の腫れた頬に、小さく口付けた。

 人のように、柔らかい頬だった。

 「…人間と魔物の幸せって、何が違うの」

 魔王があのアメジストの瞳を瞠目させていた。

 「アタシ、魔王といれて幸せだって言ったじゃん」

 魔王の瞳はこんな時でもきれいで、ずっと見つめていたら吸い込まれてしまいそうで。

 だから、吸い込まれてしまえばいいと思って見つめ続けた。

 「一緒に暮らして、一緒に過ごして、一緒にいて、それが幸せで」

 ひとつになってしまえたら、ずっと一緒だ。

 「幸せなのに、人間も魔王もあるの!?」

 離れてしまうのは、怖い。

 貴方がいないのは、怖い。

 「人間も魔王も、生きてるんだから同じだッ」

 ―――アタシを、

 「一緒に幸せになっちゃ、いけないのッ!?」

 アタシを貴方のいないセカイに置いて行かないで。

 「…やだっ…」

 「勇者…」

 魔王の首に縋り付くように抱き付く。彼の左手が消えてしまっているのを、視界の端で見てしまった。

 怖い、嫌だ。頭が正常に動かない。どうしたらいいか、解らない。

 「やだぁッ…!」

 ぬくもりが、消えてしまう。

 「勇者…」

 右手だけを残して。

 「独りにしないで…!」

 アタシの届かないセカイに行ってしまう。

 嫌だ。

 泣く事しか出来ない。消滅を止められる訳でもないのに、勇者は泣き続ける。

 こんなにも自分は泣けるんだと、頭の何処か冷静な所が驚いていた。こんなにも自分は誰かの為に泣けるんだと、こんなにも自分は彼を愛しているんだと。

 そんな時突然、魔王が今までにない位の力で勇者を、残る右腕で抱き締めた。

 苦しさに息が止まる程の力だった。今まで魔王は勇者の事を壊れ物のように抱き締めていたというのに、今は思いのままに抱き締めているように思えた。

 彼の心は、こんな風に自分を抱き締めたかったのだろうか。

 「僕は、知らないぞ」

 魔王の声が震えていた。魔王のこんな弱々しい声、勇者は聞いた事がない。

 「きっと僕は勇者の事を幸せになんか出来ない。きっとたくさん泣かせるし、悲しくさせる。それでも、いいの」

 問い、だった。魔王が、問いている。消滅し始めてから初めての問い。

 これが何を意味するか解らない。それでも勇者は迷いなく答えた。

 「いい」

 今更の問いだと、思った。

 この三ヶ月間、何を魔王は見ていたのかと、バカにしたくなった。

 「まおぅと、一緒にいられるなら…いいっ…!」

 魔王がぐいっと自分の身から勇者を離した。お互いの顔を、見つめる。お互い、泣いていた。

 魔王が勇者の額に自分の額を重ね、言う。

 「ヴァルト」

 アメジストの瞳が、いつも通り優しく細められる。

 「僕の名前は、ヴァルトだ」

 初めて聞いた音だった。初めて知った名前だった。けれど勇者はその音を名前を、聞いた瞬間から愛しく思えた。

 ヴァルト、と口にして、嬉々として自らの名を名乗る。

 「アタシは、リアっ」

 「リア……勇者にぴったりで、かわいい名前だね」

 魔王が笑った。勇者も顔を赤らめながら、つられるように笑う。

 恐怖が少し遠ざかったような気がした次の瞬間、魔王の体が左に傾き崩れた。魔王の服を掴んでいた勇者も同じように崩れる。床に打ち付けた痛みが不安と恐怖を再び呼び戻し、勇者は取り乱しながらも倒れた魔王を支える。

 「魔王!!」

 「大丈夫。左足が、消えただけだよ」

 見れば魔王の左足は膝の所まで消えてしまっていた。右足も、つま先から消え始めている。そういえば右翼ももう殆どない。

 「魔王…ヴァルトッ、どうしよ、どうしよ消えちゃ…!」

 「落ち着いて」

 また震え出す勇者を、魔王は宥める。

 「落ち着いて、僕の話を聞いて、リア」

 ゆるゆると髪を梳いてくれる魔王の指はあたたかく、微笑は悲しい程優しい。

 勇者はぐちゃぐちゃになっていまいそうな頭の中を何とか落ち着かせて、言う通りに魔王の話に耳を傾ける。

 「リア、僕が消えたら、必ず手紙にあった通りにして。本物の、勇者になって」

 魔王の角が、今度は消え始める。恐怖に狂わないよう、勇者は必死で堪える。

 「そしたら僕は今から三度目の初雪が降った日、」

 魔王のあたたかい手が、今度は勇者の頬を撫でる。そして魔王は続けた。

 「人間となって、再び君に会いに行く」

 言葉に、勇者はこれ以上ない位目を見開いた。少し遅れて、溜まっていた涙がひとしずく零れる。

 魔王は、まるで月のようにきれいな顔して笑っていた。

 「…ほんと…?」

 信じられなくて、驚き過ぎて声が掠れる。

 魔王は肯きも、否定もせず、答えた。

 「無理かもしれない。でも、僕を信じてくれるなら、三度目の初雪まで待っていて」

 角が、全て消えた。いつの間にかに、消滅は腰にまで至っていた。

 「それで僕が現れなかったら、忘れて」

 賭け、なんだろうか。忘れてという言葉がとてつもなく怖い。でも、勇者は信じるしかなかった。

 それが自分の、唯一の出来る事だった。

 返事として頷くと、魔王は微笑んだ。いい子だね、と髪をまた撫でる。

 「リア、最後にいい?」

 最後。解っている、魔王はもう消えてしまう。

 消滅している魔王の体は風船のように軽く、勇者でも抱えていられた。

 最後まで彼が自分を見て消えれるようにと、勇者は魔王を抱き寄せる。何?と返すと、魔王は幸せそうに微笑んだ。

 「愛してる」

 心臓が、高く鳴った。今更な言葉だけれど、今まで一度も言われなかった言葉。どうして、今。赤面するより涙が出た。もう何が何だか解らない。最後まで魔王はバカだ。

 「アタシも、ヴァルトの事…」

 自然と零れそうになった告白は、魔王の人差し指に止められた。まるで言うなとでも言うように当てられた指の腹。

 勇者が何かを言う前に、魔王は勇者に顔を近付ける。きれいな、顔。

 そして魔王はゆっくりと、勇者の唇に当てた指の背に口付けた。

 二人は、指を隔ててキスをした。触れぬ、口付け。今はまだ、触れられない。

 唇を離した魔王は、言った。続きは三度目の初雪に、と。

 彼は、優しい魔王は、勇者が口を開く前にひとつ上手に微笑んだ。

 別れを、鳴らす。



 「ありがとう」



 ゴトリと、白い手が床に落ちた。

 部屋には、静寂が満ち始める。

 ヴァルト、と。勇者が名を零した時、其処には魔王が着ていた服と魔王の右手しかなかった。

 オレンジの花が、月明かりに照らされて咲く部屋。

 消えたのは、ぬくもりと微笑。

 残されたのは、愛しさと約束。




 得たモノは、

 代わりのモノは、

 彼を描く、最後のモノは、

 偽りの勇者の、存在。



 オレンジの花びらが、一枚散った。























 重苦しい色をした空はちらちら、ちらちらと白を降らす。兵士が数人歓喜の声を漏らし、皆が顔を上げる。

 雪だ、と誰かが言った。その声に誘われ、馬の世話をしていた勇者も顔を上げ、白を見た。ちらちら、ちらちら。吐く息と同じ色をしている、あれは確かに、

 「雪、ですねぇ」

 声に、勇者は白から目を離した。声の主は近くにいた、兵士の一人である。彼は腰に手を当て、降る白に目を奪われていた。

 勇者も再び白に目を戻し、答える。

 「そうですね」

 「朝から曇ってたんで雨でも降るのかと思ってたんですが…雪でしたか」

 「私も雨だと思ってました」

 「おや、勇者様と同じ事を思ってただなんて光栄ですな」

 おどけてそう笑う兵士に、勇者は一笑する。

 日頃自身の顎を撫でる癖のある彼は、今も顎を撫でながら白を見る。確か二十歳まで南の方に住んでいたと話していたので、未だに雪が珍しいのだろう。北の方、と言われる国の中じゃ南寄りであるこの国も、彼にとっては立派な北の方の国である。

 「…今年は、」

 兵士が考えながら呟く。途切れた言葉を目で問うと、兵士は少し嬉しそうに顔を綻ばせて続きを口にした。

 「これが、初雪ですよね」

 初雪という単語に息が止まる。乱れかけた心を悟られないようにと、勇者も白を見上げ息を吸った。氷の粒が入っていそうな程冷たい空気を肺に入れ、吐く。

 「…そうですね」

 あれから、三度目の。あの日から三度目の初雪。月のようにきれいな、あの人が脳裏で笑う。

 (魔王)

 覚えているだろうか。

 約束の白は、今日降った。

 貴方は、現れるのだろうか。

 骨もなく消えた、貴方は。











 あの夜から、今年で三年が経つ。あの夜の次の年から、今まで雪なんか毎年降るか降らないかの状況にあったこの国に毎年雪が降るようになった。まるで魔王が早く会いたいから律儀にも毎年降らせているようにも思えて、何だか笑ってしまう。とりあえず、今年で三年だ。

 勇者はあの後魔王の言っていた通りにし、今は国の城に使える立派な勇者になった。魔王を退治した、と言って勇者になった初めの頃は英雄だなんて謳われ騒がしかったが、今はもう随分と静かだ。寂しい、訳がない。謳われていた頃はそれが悲しくて、魔王がいない事が寂しくて。誇らしげに笑う事や魔王と命懸けで戦ったとかいう嘘話を作ることが辛くて仕方なかった。魔王の悪口を聞く度、その言った人を殴ってやりたくなった。そして魔王の優しさについて聞かせてやりたかった。毎日が苦しくて辛くて悲しくて、死んでしまいそうだった。

 けれどその日々は随分と自分を精神的に成長させてくれたと思う。具体的にどうとは言えないが、勇者自身そう思えた。

 外見だって少しは変わった。身長は殆ど変わらないが髪は伸びたし、胸も少しは大きくなった。顔だって大人びたと、最近仲良しであるメイド達に言われた。要するに自分は全体的に成長したのである。

 魔王は、どうしているのだろうか。今、この地の何処かで自分と同じように立って生きているのだろうか。

 ‐人間となって、再び君に会いに行く‐

 何も忘れてない、何も薄れてない。魔王の顔、声、仕草、笑顔、体温。

 あの夜からずっと、約束を胸に進んで来た。

 ‐僕が現れなかったら、忘れて‐

 忘れる事なんて、出来ない。











 途中で雨になるんじゃないかと言われていた雪だったが、結局夜まで降り続いていた。

 強まる事もなく、弱まる事もなく、ちらちらと降る雪は、まるで花びらのようである。

 その花びらをひとつ手の平に向かえ、勇者は見つめる。花びらは、溶けた。呆気なく。勇者は夜のテラスで一人、白い息を吐いた。

 (魔王に最後つれてってもらったあの花畑、きれいだったなぁ)

 ふと思い出す、優しい思い出。胸を揺らす、きれいな思い出。

 (……ヴァルト)

 そして声なく呟く、教えてもらった名前。

 あと数分で日付が変わる。三度目の初雪が降った日が、終わってしまう。

 約束までもが、消えてしまう。

 彼のように、花びらのように消えて、そして涙だけが残る。自分だけが残る、残されてしまう。

 もう一度呟いた名前も、音にならないで白くなっただけ。彼を呼び出してはくれない。

 駄目だったんだ、きっと。人間になるなんて、戻って来るなんて、会いに来るなんて。だって彼だ。何か凄いイメージというものがない。魔術とかバリバリ使って何でも叶えちゃうようなイメージがない。ない。無理だったんだ。

 ギシ、とテラスを囲う白塗りされた策が軋む。手が、寒い。

 (………でも)

 彼なら何とかしてくれるイメージが、あったのだ。何でも何とかしてしまう、イメージが。

 だからこの約束も信じれた。

 けど結局駄目で、無理で、終わってしまったのだ。魔王は消えた、自分のせいで。そして自分は勇者になった。もしかしたら魔王はこれを、全てを考えて嘘を言ったのかもしれない。そういう人だった。きっとそうだ、そうに違いない。無駄に優しい人だった。絶対そうだ、そうなんだ。やっぱり魔王は自分のせいで消えたのだ。

 目の奥がずんと重く痛くなって来た。泣いてやる事なんかない、あんなバカの為になんか。それでも意に反して視界は歪む。

 ヤバイ、こんな所で泣く訳にはいかない。部屋に帰ろうと思った時、影がかかった。きっとテラスを閉めに来たメイドだ。タイミングが悪い。泣き顔なんかメイドに見られたら、明日には城中に広まってしまう。普通だ、普通。普通に振舞おう。

 よし、心を決めて勇者は振り返る。そして止まった。

 「こんばんは」

 影はメイドではなかった。だからと言って兵士でも王様でもお妃様でも庭師のおじいちゃんでもない。

 その青年は城内の眩しい程の明かりを背負って、笑う。

 「君、誰?」

 目眩は眩しさから生まれたものじゃない。あぁ、どうして? 理解と疑問。顔が歪んで、視界が歪む。それでも青年をしっかりと見つめて、答える。

 「私は、勇者」

 青年はきれいなアメジストの瞳を細めて微笑む。

 「へぇ、かっこいいね」

 漆黒の髪が風に揺れる。透き通るような白い肌。何も変わってない、何も。

 花が咲くように笑って、心地良いテノールの声が鳴る。

 「僕は、魔王」

 彼が、こちらに手を伸ばして広げる。勇者の手はテラスの柵から、離れた。二人分の、足音。

 「君に会いに来た、魔王だよ」

 「ヴァルトッ!」

 抱き締める、抱き締められる。ぬくもり。笑顔、優しい声。抱き締める、力。

 三年間我慢していた涙が溢れ、零れた。ヴァルト、ヴァルトと名を呼び続ける。呼べた、届いた。

 魔王は此処にいる。

 私の魔王は、此処に。



 「ただいま、リア」



 こうして、存在している。

 泣きながら、お互いが潰れてしまいそうな程抱き合った。

 このぬくもりを二度と離さないと、雪の中誓った。



 この奇跡と必然は、セカイの白にまぎれて、また進み出す。






                             END.



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