7話 野犬
ちょっと内容にそぐわないようなのでタイトル変更しました。
ついでに章立てしてみました。
「……なんか違うな」
元河真人は自分で淹れたコーヒーを一口口に含むと首を傾げ、そう呟いた。
別に淹れ方を間違えたわけではない。確かに朝食を作るときのちょっとしたルーチンワークになっていることは否めないが、それだけに手順は間違えていないし、以前はこれで十分美味いと感じていたはずだった。
だがしかし、ここ最近少女の手によって淹れられたコーヒーと比べると、数段落ちることは明らかだった。
豆が違うのか、あるいは手順に何かコツがあるのか。もしくはもっと単純に、片手間で淹れているのが問題なのか。
いつの間にか舌を慣らされていたことに気がついた青年は、小さくため息をついた。そして今は春休みということもあってか、あるいは待機義務のようなものでもあるのか、ほぼ支局に入り浸っている少女のことを考える。
支局裏の職員用駐車場で素振りをしたり、笹座作と組み手をしたり、給湯室で勉強をしていたりする少女だがどうやって察しているのか、青年が休憩を取ろうかなと思っているとどこからともなく現れて、コーヒーを置いていくと言うことが繰り返されていた。そしてその少女と昨日短い会話を交わしたことで青年は、ようやく自分から少女に対して話しかけたことが一度もないことに気がついた。
「……正直、ないわー……」
いくら少女に対して未だ得体の知れなさを感じていたとはいえ、毎度コーヒーを淹れてくれていた少女に対し、それに対するお礼以外の言葉を返していなかったとは……ちょっと自分が信じられなくなるくらいの失態である。
昨日少女自身から声をかけてくれなければ、あの短い会話とも言えない会話すら成立していなかったのかと思うと、正直言葉も出ない。
だというのに舌の方だけはしっかりと少女の淹れてくれたコーヒーに慣らされているというのだから、余計に恥ずかしい。
「何かきっかけがあればいいんだけどな……」
今更ながら、一人の成人男性として情けないにも程がある自身のとってきた態度に閉口しながらも、どうにも打開策が思いつかない。
深々と溜息をついた青年の耳に、テレビから妙なニュースが届いたのはその時だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「野犬の類いとは思うがのぅ……」
朝食を終えた少女は、テレビから流れるニュースを見ながら手に持った湯飲みに口を寄せると、その淹れたての焙じ茶の香りを楽しみつつ一口口に含み、幸せそうな表情で小さく息を吐く。
少女の朝は、同年代の少女達よりも大分忙しい。
神社の方は父の友人であったとある神職の方の采配に全てを任せているので、最低限の関わりだけで済んでいるが、道場の方はそうもいかない。
五つの頃から道場に入り浸り、一〇になる頃には朽羽古流の全てを受け継ぎ、すでに道場内では敵なしとなっていた少女である。少女と見て侮る者は、少なくとも門下生の中からはいなくなってから久しいが、それ故に週に二、三度は早朝の稽古に顔を出さなくてはならない。無論、それがなくても鍛錬を怠ることはできない。
具体的には朝の四時に起床し、一〇キロほどの距離をかなりのハイペースで走破。
戻ってきたら身体を冷やさないように柔軟等をこなしつつ、道場がない日はそのまま素振りから型稽古。道場がある日は下は五時頃から顔を出している下は一〇歳から上は六〇くらいまでの門下生と、ひたすら打ち合い。
それを七時まで続けると朝の稽古を終了し、軽くシャワーを浴びてから朝食の用意をして食事となる。
学校が始まればまたスケジュールは変化するのだが、長期休暇中の少女は、大体がこんな風に朝を過ごしていた。
「木に登って助かった……か」
テレビに映る野犬に襲われたらしい小柄な男性の言葉に、少女は僅かに眉を顰める。キャスターの言うとおりならば男性が襲われたのは一昨日。時刻は二二時を過ぎた頃。男性の自宅は郊外にあるらしく、バスを降りた後一人で人家の少ない田舎道を歩いていたらしい。
「で、その途中で数匹の野犬が後をついてくるのに気がつき、怖くなって近くの木に登って朝が来るまでやり過ごしたと……そりゃ大変じゃったのぅ」
春が近いとはいえ、まだまだ朝晩は大分冷え込む時期である。その上遮るものもない木の上で一晩寒風にさらされて過ごしたという男性に同情しつつも、少女は男性の話のうちのいくつか気になる点を小さく呟く。
「野犬は……よくはないがまあよかろう。数も二〇以上というのも置いておくかの。しかし」
――野犬が、野犬の上に乗り、木に登ろうとしていたとな……
幸いと言っていいのかどうか、男性は小柄な上ある程度は身軽だったらしく、さらに上へと登り難を逃れたらしいが、最初に落ち着いた枝のあたりでは間違いなく襲われて引きずり落とされていたと、やや興奮しながら話をしている。
「……鍛冶が媼の話は四国だったかの?山形のあたりに似たような話があった気もするが……いや、同じような話はそれこそ日本中どこにでもあるが……」
朽羽神社の跡継ぎとして、霧前の家を継ぐものとして育てられた少女にはそれ専門の学者ほどではなくともそれなりの民間伝承の知識がある。
類型としてはいわゆる千疋狼。
旅人が狼の群れに襲われ、木に登ってやり過ごそうとすると、群れの親玉になる狼や古い猫や鬼婆を呼んでくるというあれである。
狼の部分を野犬に置き換えれば通用する話である。気になるのは親玉に当たる存在がついに現れず、男性は木の上で一晩過ごしはしたが、無事に家に帰れた点だ。
親玉がいない群れだったのか、たまたま親玉が来られない状況があったのか、あるいは多少の知恵をつけただけの本当の野犬の群れであったか。
「要注意ではあるが……どうせもうある程度はつかんでおるじゃろうのぅ」
少女はそう呟くと、昼行灯気取りと呼んでいる特殊災害対策委員会北関東支局長のうさんくさい笑い顔を思い出し小さく溜息をつくと、すっかり温くなってしまった焙じ茶を口に含み、顔を顰めた。
◇ ◇ ◇ ◇
「八割方黒だねぇ」
執行官に対する管理監督権限を有する、いわば霧前天鳥の直接の上司に当たる特殊災害対策委員会北関東支局長の酒船は、相変わらずうさんくさい笑顔を浮かべながら自身の前にたった二人の局員――霧前天鳥と元河真人の二人に開口一番でそう告げる。
その言葉をどう解釈すればいいのか、困惑する青年の方をチラリと見た少女は何かを諦めたような表情を浮かべ、溜息を一つついた。
「結論だけ言ってもわからんじゃろうが」
「別に周知のことを説明する必要はないんじゃない?」
「儂だけならかまわんが、元河さんもいるだろうに」
少女はそう言うと、ともに支局長室へと呼び出された元河真人の方に顔を向けた。
「ああ、そう言えばそうだったな。すまんね元河君、ちょっと説明不足だったようだ」
支局長はそう言うと青年に向かって失敬失敬と頭を下げ、上司に頭を下げられた青年は棒を飲み込んだような表情を浮かべ、少女は汚物を見るような視線を支局長に向ける。
「部下で遊ぶのも大概にしておいた方がいいと思うがの……」
「別に遊んでるつもりはないのにひどいなぁ、霧前君は。大体遊ぶ云々では君だってあんま変わらないと思うけど」
「時と場合くらいは選ぶわ阿呆。例の野犬の話じゃろ?」
上司に対するものとはとても思えない少女の態度に青年が驚いていることを感じたが、少女はそれを無視して酒船に話の続きを促した。正直こんな態度をとっていると青年との距離がまた開きそうな気がしないでもなかったのだが、優しく対応しているとこの上司は時間の許す範囲で話を脱線させてくるのだ。
それを防ぐためには適度に話を合わせつつ、時には強引に話を促さないといけない。
その少女の態度そのものをどこかで楽しんでいる節があるあたり、この上司の性格の悪さは人一倍であろう。本気で嫌がることだけはしない辺り節度を弁えているとも言えるが、嫌らしいことこの上ない。
「まぁその件なんだけどね。ああ、元河君。昨日か今朝のニュースで野犬の話やってなかったかい?」
「ええ、今朝のニュースで……野犬に襲われた男性が木に登って助かったとかなんとか」
青年が答えると、支局長は腕を組み、大仰に頷いてみせる。
「そうそれそれ。大変だよねぇ、まだ寒いのに一晩木の上で過ごすなんて、おじさんにとっちゃ悪夢みたいなもんだ。まぁ浮気がばれて家から追い出されて一晩外で過ごすのとどっちがましかは分からんけどね」
「なんじゃお主、愛妻家かと思っていたが……そういった火遊びをしたことがあったのかの?」
「いやぁ……中学生の霧前君の前で言うのもあれだけど、まあ若い頃に上司との付き合いでキャバクラに行ったことがあってさ。嫌だよねぇ、悪しき昭和の風習。まぁもうその頃は平成に入ってたんだけどね……下戸だって言うのに無理矢理連れてくんだもの」
「それで?大方マッチでもポケットに入れたまま家に帰りでもしたんじゃろ?」
「ご名答、よく分かったね?でまぁ一晩ていうのはちょっと大げさだったかな……雪が降ってる日だったんだけど四時間も外に出されてさ。それ以降上司の飲みに付き合う回数は大分減らしてるんだ。もっとも今は直接の上司なんかは本庁にしかいないから気楽なもんだけどね。ああ、話は変わるけど、三週間くらい前にあった小学生行方不明の事件覚えてる?」
唐突に切り替わった話に青年は慌てて首を縦に振り、慣れているらしい少女は黙って視線で続きを促す。
「あれなんだけどさ、知り合いに確認したら捜査本部が解散してたんだよね」
「見つかったのかの?」
何かを察したのか、少女が支局長に厳しい視線を向けながらそう尋ねると、支局長は椅子に背中を預け……憂鬱そうに一言だけ答えた。
「頭だけがね」
その言葉を聞かされた青年はその言葉の意味をすぐには理解できず、一瞬考え込んだあと顔を青ざめさせ、少女の方は方眉を僅かに顰めると、無言で話の続きを促す。
「酷いもんだったって。見つかったって言っても半分は喰われてて、歯の治療痕でなんとか身元の確認が取れた状態だったそうだ。親御さんが大変だったらしいよ。続報がないのはまぁ、報道規制ってやつ」
さすがにマスコミも遠慮したらしいね。
酒船はそう言うと机の引き出しから煙草を取り出し、火をつけずに口にくわえる。
「もっともこれだけだと単に野犬に襲われただけってこともある。痛ましい事件ではあるけど、僕達の管轄にはならない。んでまぁ、ちょいと伝手を使って調べてみたんだけど、面白い証言を見つけたんだ」
「面白い証言……ですか?」
青年が遠慮がちに問いかけると、酒船は煙草に火をつけると大きく吸い込み、盛大に煙を吐く。
「五日ばかりまえに似たような事件があったんだとさ。被害者は酔っ払ったホームレスだったんで、まぁマスコミが食い付くにはちょっとね」
左手の指に挟んだ煙草をもてあそび、天井を見上げながら、酒船は話を続ける。
「まぁ、酔っ払いの戯言だと思われても仕方ないんだけどさ。何でもそのホームレスの話によると野犬が喋ったそうなんだよね『口惜しや、あと僅かで届かぬ』とか『誰ぞ桑島の嫁様を呼んで来い』だったかな。酒飲んでるホームレスが言ったんじゃ信憑性皆無だ。むしろこんな発言を証言記録にきちんと残してた警察官の真面目さを賞賛したいね。いやはや彼のような警察官には是非出世してもらいたいもんだ」
そこまで話すと、酒船は再び煙草をくわえると正面に立つ二人に視線を戻した。
「で、野犬が本当に呼んできたのか、女性がやってきた。やってきたのは普通のどこにでもいそうな主婦っぽい女性だったそうでね、妙に目につく赤いエプロンが印象的だったと証言してる」
「……それ、本当に人間の女性だったんですか?」
あの一件……ここに来た当初、どさくさ紛れに巻き込まれた”鬼”との遭遇をする前であったら決してしないような質問を、青年は微かに声を震わせながら尋ねた。それに対して支局長はさぁねぇ、と首を傾げてみせる。
「ともかくその女性は野犬に襲われることもなく木の根元までたどり着くと、肩車してる野犬の上に乗ってホームレスに手を伸ばしてきたんだって」
「それで?そのホームレスはどうやってそれを凌いだのかのぅ?」
「自家製の濁酒を入れてた一升瓶を持ってたそうで、そいつで顔面をぶん殴ったってさ。女性はその一発で酒まみれになって逃げ出し、野犬も散り散りになって助かったってことで、めでたしめでたしかな。少なくともこのホームレスに関してはね」
そこで話を一旦切ると、酒船は煙草を灰皿でもみ消し、どこか飄々としていた表情を引き締めて二人にひたりと視線を定めた。
「……改めて周辺の状況を洗ったところ、半径二〇キロの圏内でこの半年ほどの間に失踪者が複数発生している。件の子供もそうだが、高校生が一名、大学生が三名、社会人が三名。それと最近姿を見かけなくなったというホームレスが五名。範囲を広げれば恐らくもっと数が増えるだろう。無論、その全部が全部関連があるとも言えないが……少しばかり数が多すぎる」
酒船のその言葉に、青年は額に冷や汗を掻きながら表情を引き攣らせた。それを横目でチラリと見ながら少女は内心、いくつかの失敗をしていたことを悟った。
青年との関係が未だギクシャクしていたことを理由に、ここがどういった案件を扱う場所であるのか、きちんとした説明の場を設けていなかったのだ。
あるいは年度末と言うことで大量の書類の処理をする必要性があったため、そっちの方を優先した事も理由になるかもしれない。ともかく最低限の心構えをさせておくべきであったのに、それをを怠ってしまっていたことを、青年浮かべた表情を見て思い至ったのだ。
だが、今はそのことをどうこう言っている場合ではない。
少女は表情を変えずに酒船に問いかける。
「それで、支局長殿はどういった対応をするつもりじゃ?」
「……あまりいじめないでよ天鳥ちゃん。おじさんこれでも結構ナイーブなんだよ?」
「お主がナイーブなら笹座作も非力に例えられるだろうよ」
「いや本当に……子供に頼らざるを得ないってのは、いい大人にとっては本当きっついんだよ……霧前天鳥三級執行官殿」
「気にしすぎじゃよ酒船支局長。これが儂の仕事じゃ」
少女の言葉に酒船は色々と諦めた表情で溜息をつくと、改めて姿勢を正すと命令を下した。
「本日ただいまを持って命令する。元河真人を監視官として伴い、その能力全てを持って事態の収拾を図るように」
「了解じゃ」
少女はそう答えると、未だ蒼い顔をしている青年の背中を軽く叩いた。
ちょっと展開が性急だったような気がしなくもない……
次回更新は7/11か7/12あたりを予定。