5話 take a bath
元河真人が引っ越してきたマンションは、勤務先である特殊災害対策委員会北関東支局の敷地から四キロばかり離れた場所にあった。
駅からもほど近く、近くには何軒かのスーパーやドラッグストアもあり、少し足を伸ばせた複合施設化している駅ビルもある、なかなかの立地にある一〇畳・六畳のそこそこ広い一人暮らし用のLDK物件である。
地方都市であるため賃貸料金が都内よりも大分安かったために、多少奮発してみた個人の城だが、残念ながら未だ整理ができていなかった。
辞令から着任日まで時間が無かったせいで引っ越しが本当にギリギリだったこともあり、家具だけは引っ越し業者に任せていたため配置済みだが、さほど多くない私物と明らかに量が多い書籍類の整理はまだこれからの状態であった。
本来ならそこここで口を開けている段ボールの中身を、タンスやら書棚やらに詰め替えないといけないのだが、今日のところはもうそんなことをする気力が欠片も無かった。玄関を上がるとそのまま風呂場に直行し、湯船に湯を張るとそのまま風呂に飛び込んだ。
「……はぁ……」
湯船に肩までゆったりとつかると、真人は深々と溜息をついた。
今回の異動は、当初から赴任期間の長さをそれとなく伝えられていた。そのため風呂好き温泉好きな真人は選べる範囲で、できるだけ自分の好みに合った風呂を設置しているマンションを選んでいた。
そのおかげで長身の真人でも足を伸ばしてもなお、余裕がある湯船にゆっくりつかることができる。
「とんでもない日だったな……」
しばらく身体を揺らす湯に身を任せていた真人は、今日の出来事を思い出しながらぼそりと呟いた。
あらためて口に出すまでもなく、本当に大変な日だった。
午前中は引き継ぎを確認し、都内からここに来るために電車に揺られていただけだから、まあいい。午後も職場に顔を出したあたりは……うん、許容範囲だろう。しかし最後の業務見学は……
「大変なんてもんじゃないだろう……」
隔離された謎の空間に連れ込まれ、洋画のモンスターのような鬼と……距離はあったが対峙し、それを殲滅する少女を見せつけられた。
まるでどころかまるっきりファンタジーな話である。
「読むだけなら面白いんだけどな、ファンタジーやら何やらは……」
本好きというよりも、乱読家の気がある真人はその手の小説にもよく目を通している。
最近では忙しいのと専門書に目を通すことの方が多いが、ああいった気軽に読める娯楽本の類いも嫌いではない。
が、実際にその手の小説のような状況に叩き込まれたりするなら話は別である。正直なところ冗談ではない。が、
「辞表受け付けてくれないよなぁ……」
おそらくなんだかんだで慰留されるだろうし、正直特殊災害対策委員会に出向の辞令が下りた際、給料に加えられることになった手当は正直惜しい。
「……当面は様子見か……」
笹座作の話ではあの”鬼”が攻撃する相手はまず、あの執行官の少女だという。そしてあの少女は「執行官」の中でも相当の手練れらしく、あの少女が敗れる時は本当に打つ手がないような状況としか言い様がない時以外無い……らしい。少なくとも御倉さんと笹座作はそう考えている。
それを信じれば、彼女がいる限りは身の安全は保証されているに近い。
「我ながらなかなか最低な考え方だな……」
苦笑を浮かべると、青年は今日出会った少女のことを思い浮かべる。
「……霧前天鳥……か」
早生まれらしく、中学三年生なのにまだ一四歳と言っていた少女。暗がりでもはっきりはかるほどの整った容貌の、人懐こそうな笑顔を浮かべていた少女。
笹座作の言葉ではいたずら好きで明るく人当たりのよい少女らしい。そして変わったところがあるらしいが……あの運動能力というか、戦闘能力がそもそも一般人からは大分離れているのではないだろうか?
戦闘能力もそうだが、それ以上にあの度胸。いくら慣れているとはいえ、躊躇いなくあの鬼の群れに突っ込むのもそうだし、本当に紙一重に攻撃を躱す体捌き。ただの中学生が一体どれだけの修羅場をくぐってきたというのか。
「……本当、見た目は普通の女の子なのにな」
真人はそう呟くと、明日以降のことを思い浮かべ深々と溜息をついた。
◇ ◇ ◇ ◇
複合施設である駅ビル。
本日付で特殊災害対策委員会北関東支局に配属になった、新職員であるところの元河真人青年を自宅のマンションまで送り届けた後、御倉と笹座作の二人はその駅ビルに立ち寄った。
目的は駅ビルの中に入っているテナントの一つである、リラックスステーションという割と身も蓋もなくもわかりやすい名称のスパ施設である。自宅に帰る前にこの、ビルの最上階をフロア事占有している割と大きなこの施設に立ち寄るのが、現場に出た時の二人の習慣になっていた。
「大丈夫ですかねぇ」
施設の一つである壺湯に、とても一介の公務員には見えないよく鍛え上げられた肉体を沈めながら、笹座作は隣の壺湯に入っている御倉に声をかけた。
「まぁ、大丈夫でしょう」
こちらも年の割にはよく鍛えられた身体を持つ御倉が、お約束のように畳んだタオルを頭の上に乗せ、気持ちよさそうに目を閉じながら答える。
「三郎塚さんの代わりになりますかねぇ」
「そうなるように仕込むのが我々の仕事でもありますよ?笹座作君」
周囲には同じように施設を利用しているサラリーマンが何名かいるため、二人は肝心なところを口に出さずに話を続ける。
「あれで何か特技でもあるんですかね?御倉さんみたいに」
「私のあれも、こちらに来てから身につけたものですけどね。そこら辺を仕込んでも面白そうですが……ともかく彼には早々辞めていただくわけにはいきませんから……ぼちぼち仕込んでいきましょう」
「そういえば天鳥ちゃんの後輩になるやつが来るのが半年後でしたっけ?」
「ええ、三年ぶりの新人です。もっとも、彼女よりも年上にはなりますが……彼の支局への配属は三郎塚君の辞職で人手不足になったことも理由でしょうけど、それの絡みもあるかもしれませんねぇ……まぁ、その時私は多分そちらの方の研修に回されるでしょうから、それまでには一通りの立ち回りを覚えていただかないと」
御倉の言葉に心底面倒くさそうな表情を浮かべて、笹座作がため息をつく。
「天鳥ちゃんに丸投げじゃだめなんですかね?」
「いいわけないでしょう」
相変わらずな笹座作に、やや強い調子でたしなめる。
「あまり年下の女性に負担をかけるものではないですよ?」
「いやまぁ……でも天鳥ちゃん、どうにも年下に思えないことが多いんすよね……なんかこう、爺ちゃん婆ちゃんと話してる気になることが多いっていうか……」
「……まぁ、気持ちは分からないでもないですが」
笹座作の言葉に、御倉も消極的ながら肯定の返事を返す。御倉自身、あの破天荒な少女と話をしていると、どちらが年上なのか分からなくなることが度々あるのだ。笹座作がそんなことを考えるのも分からなくはない。
まぁそれはそれとして、祖父や祖母と比べるのはどうかとも思ったが。
「ともあれ彼女も来月からは新しい環境に移るのですし、暫く忙しいでしょうから、案件の処理時以外にはあまり手を煩わせないようにしてくださいよ?」
あまり意味が無いかなと思いつつも、御倉は笹座作に一応の釘を刺した。
◇ ◇ ◇ ◇
特殊災害対策委員会北関東支局のあるこの地方都市には、古い神社がある。
鎌倉中期のものらしい一振りの太刀――拵えは備前刀の特徴がでているが、何故か銘は削られており作刀者は不明ではあるが福岡一文字派のいずれか――を御神体とし、武甕雷男神を主祭神とする朽羽神社がそれである。
このあたりではそれなりに尊崇を集めた神社故か、あるいは歴代の宮司の運営能力が高かったおかげか、かなり広い敷地を保有している。建物の配置はごく一般的な神社の配置と言っていいが、一点特徴的なのは宝物殿の隣に道場が一棟建っていることだろうか。
朽羽古流――そう呼ばれる剣術の流派を現代へと伝える師範の一族でもある宮司の家の名は霧前。三級執行官霧前天鳥の生まれた家である。
「ふぃ~……沁みるのぅ……」
少女は広々とした檜造りの湯船につかると、年寄り臭い台詞を吐きながら両手を組んで大きくのびをする。
今日の案件は、少女的にはまずまず満足のできる内容だった。
今年に入ってから回ってきた案件は全て単体の、しかしそれなりの力量と知能を備えた鬼ばかりが相手だったので、少々食傷気味だったのだ。
無論、難敵を相手にするのは心躍るものではある。が、さすがにそればかりではいささか飽きてしまう。たまには口直しに、今日のような数に任せて襲ってくる鬼共を相手にするのも悪くない。
「……しかしまぁ……改めて考えてみれば面妖な話よの」
少女はふと、霧前本家の家長であり朽羽神社の宮司でもあった父の後を継ぎ、一〇の頃から始めたこの稼業のことを思い返し、苦笑を漏らす。
何の因果があったのか――あるとすればあの死の間際の妄執なのだろうが――かつて久遠寺潮五郎を名乗っていた老人が再び生を受けて、あの頃とは大分在り方は変わってしまっているが、また剣を振る稼業に就いている。
――まぁ……おなごの姿に生まれ変わったのは些か驚いたが……――
誕生日が三月末日という早生まれのせいもあり、同級生達と比べると些かささやかではあるが、それでもそれなりの大きさに育った膨らみに両手を添え、軽くもんでから少女は少々色っぽい溜息をつく。
自身の生まれる前の一生――久遠寺潮五郎のそれを思い出したのは、忘れもしない五つの時だった。
霧前の家は宮司の家であるが、それと同時に剣術家という一面を併せ持つ家でもある。
その所為であるのだろうが、霧前の家にはいくつかの形式じみた儀式が存在する。五つの誕生日に初めて木刀をその手に握らされる”太刀初め”という儀式もその一つで、霧前の家に生まれたものはそれを迎えることで、初めて朽羽古流の稽古を始める資格を得るというものである。
少女が生まれる前の自分自身を思い出したのは、その儀式のさなか、今生の師である父から木刀をその手に渡されたときだった。
「あの時は……何やら夢を見ているような感じじゃったのう……」
当人の感覚としては、死んだと思ったのに、目が覚めたらなぜか木刀を手に握っていたという状況である。
「それでも木刀を一振りして見せたのじゃから……我がことながら、業の深い話じゃの」
少女はそう呟くと、チャプンと音を立てて両手でお湯を掬うと、その中に映り込んだ自身の顔をまじまじと見つめる。そこには、白い肌をほんのりと赤く染めた、美しい少女の顔が映っている。
「…………」
少女は何も言わず、両手をお湯の中に戻すと、小さくため息をついた。正直この身体については色々と思うところがないではない。が、それは言ってはいけないことなのだろうと、少女は考えていた。
あの、無念とも妄執ともいえる思いを残して死んだ後、こうして再び生を受け、また剣を振るっているのだ。
それ以上を望むのは贅沢というものだ。
それに……ついに両親に話すことはできなかったが、齢九〇の年寄りの記憶を取り戻してしまったせいで、その行動や言動にいささか奇矯な点が目立つようになったおかしな娘を、それでも今生の父母は愛してくれたのだ。
多少意にそぐわないことがあったとしても、あの二人の娘であることを辞めるつもりは、少女にはなかった。
「あ~……やめじゃやめじゃ。剣士としても生きる。娘としても生きる。自分でそう決めたくせに我が事ながら未練がましいわ」
少女はそう声を上げると、はしたないと思いつつ勢いよくお湯を蹴り飛ばす。
「そんなことよりも明日じゃ明日」
気持ちを切り替えるように、少女はそう言いながら両手を頭上で振り回した。
「今日は顔見せ程度じゃったが……まぁ印象付けはできたじゃろうし」
あのあと御倉に確認したところ、今日顔合わせを済ませた新顔の青年は二六歳。少女から見た印象は、真面目でまだ色々と染まっていない官僚の卵と言ったところか。
正直なところ北関東支局長である酒船を筆頭に、どちらかというとあまりまともでない役人が集まりやすい傾向にある特殊災害対策委員会に出向してくるにしては、珍しい種類の人間に見える。
「早々にばらすか、しばらくは今日の路線で行くか……」
どちらでもそれなりに面白い反応を返してくれそうではある。
「……ま、明日顔を合わせた時のその場のノリで決めればいいかの」
そう呟いた少女はその顔に、人の悪そうな笑顔を浮かべてから湯船から出ると、髪の手入れをするために洗い場へと足を向けた。
本日はここまで
週末が忙しいので次回投稿は多分一週間後くらいで