2話 特殊災害対策委員会職員
一組の男女が、夕暮れの堤防の上をのんびりと上流に向かって歩いていた。
片方は五〇過ぎくらいの、程よく年をとった痩身の男性。もう片方は、まだ幾ばくかの幼さを残した中学生くらいの少女。
一見すると親子のような、しかしそれとはいささか違うような、だが親密な空気を漂わせながら夕陽の照り返しで輝く川面を見下ろす堤防の上をのんびりと歩いて行く。
「……しかし、寒くないのですか?霧前さん」
男は傍らにいる少女に向かってそう声をかけると、白い息を吐く。日中は大分暖かくなってきてはいるが、三月初頭のこの時期の朝夕はまだまだ空気が冷たい。
実際男はグレーのフランネルで仕立てた三つ揃えのスーツを着込み、その上から濃いブラウンのブリティッシュウォーマーを羽織っている。襟元も落ち着いた深紅を基調色にしたタータンチェックのマフラーでしっかりと寒風から身を守っており、しかしそれでも寒いのか、時折背中を震わせていた。
「鍛えておるからの」
どこか幼さを残しながらも、将来の美貌をうかがわせる整った容貌に溢れるような笑みを浮かべ、それとは正反対の年寄りじみた口調で言葉を返す少女の装いは、そんな男とは対照的だった。
近在のちょっとした有名校である私立中学。そこの制服であるすっきりとした黒のセーラー服に、生地だけは厚めのウールで仕立てられた胡桃色のPコートに袖を通しただけ。吹きさらしの川風も気にならないのか、細く白い首筋も晒したままである。
唯一、脛の半ばまで保護するような、爪先がやや膨らんだ無骨なブーツが欠点にも見えるが、活動的な雰囲気を纏っている少女の一部として捉えると、それはそれでいいアクセントにも見える。
「……やれやれ、若い子は寒いのに強くていいですねぇ」
「確かに儂は、寒いのには強い方ではあるが……むしろ御倉さんの方が一方的に寒がりなよーな気がするぞ?」
「そう言われるとおじさんとしてはちょっと辛いですね」
特徴的というにはいささか酷いといえる彼女の口調に対して、特に口を挟まずに御倉は肩をすくめて苦笑を漏らした。
この少女がこんな口調で話す理由を知っており、普段はもう少し少女らしい喋り方をしていることも知っている。そして、こんな口調で話す相手が非常に限られることも当然、知っているからだ。
まだ中学生……この春から高校生になるこの少女の韜晦ぶりは、四期連続当選した与党国会議員並みであり、普段からかぶっている猫の皮は一〇枚程度ではとても足りないだろう。
ただまぁ、この春で高校生になるのだから、多少小言めいたことを言ってもいいだろう。
「しかし、そろそろ普段の言葉遣いも気になさった方がよろしいと思いますが」
「む?どこぞから苦情でも入ったのかの?」
「いえ、この春から高校生になるのですから、多少は艶めいた言葉遣いも覚えた方がよろしいかと思いまして」
「艶めくも何も、儂の見てくれはまだまだ童のようなものじゃろ?」
御倉の言葉に少女は呆れたような表情を浮かべ、御倉はそれを苦笑とともに受け止める。
「いやいや、そう思っているうちにいつの間にか成長しているものですよ?」
「そんなものかのぅ……ふむ」
御倉の言葉に少女は何か考えるかのように一頻り首を傾げると、何かを思いついたのか思い出したのか。人の悪い笑みをその整った容貌に浮かべ……唐突にその身に纏う当雰囲気を一変させた。
「たとえば、このような感じでしょうか。御倉のおじさま?」
薄く柔らかく微笑みながら、御倉のことを上目遣いでのぞき込んでくるその姿に、さきほどまでのどこか無邪気さを残した少女の面影はもうない。儚げな雰囲気の中に生来のものである芯の強さをどこかに残し、それでいて僅かに色気を湛えたその姿。
思わずその雰囲気に飲まれてしまった御倉は、しばし呆然と少女のことを見つめてしまい……その雰囲気を感じ取ったのか、少女は再び一瞬で雰囲気を入れ替え、勝ち誇ったような笑顔を御倉に向けた。
「……勘弁してくださいよ、霧前さん」
深々と溜息をついた御倉はそう漏らすと、額に右手を当てて軽く頭を横に振る。今のはまずかった。本当に色々とまずかったのだ。
「お主がやってみろと言ったんじゃろうて。まあ、儂の知っている中でも格別に色気のある奴を真似てみたんじゃが……これでも不足かの?」
「いえ……十分ですよ。まったく……あなたが被っている猫の皮の枚数を数え間違えていたようです……正直今のは心臓に悪すぎます」
「褒め言葉として受け取っておこうか。ま、一日中あれをやれと言われたら儂も御免被りたいが……幸い学校には授業というものがあるしのぅ」
「休み時間の間だけ保てばいい、と。なるほど」
まるで授業の方が息抜きのように語る少女の言葉に、御倉は今日何度目かの苦笑を漏らす。
コートの内ポケットに入れていたスマホが振動していることに御倉が気がついたのは、その時だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「……嫌な予感がするのう」
スマホでやりとりする御倉を遠目に見やりながら、少女は小さく呟いた。
現場到着の直前でかかってくる電話など、十中八九は支局からの無茶振りで間違いないと確信しているが、それでも他人にかかってきた電話を傍らで聞き耳を立てるのは、人間としてはしたない。
そう思って少しばかり距離をとったのだが。さほど長い話ではなかったらしい。
「すいません、終わりました」
ものの一、二分で通話を終えた御倉は少女の元へ戻ると軽く頭を下げた。
「それで?どうせ厄介事なんじゃろう?」
胡乱げな表情を浮かべ、どんよりとした眼差しを向けてくる少女に対して御倉は少し困ったような笑いを浮かべながら答えた。
「連絡は石蕗さんからで……端的に言えば、いつも通り本日付で着任した新人に職場見学をお願いしたいということで」
職場見学の言葉に少女は一瞬眉を顰めた。
「初めて聞いたんじゃが」
「異動してきた新人に現場を見せるのは、いつものことでは?」
「本日付で新人が来るという話の方じゃよ。初めて聞いたぞ?」
「……おかしいですね、一週間ほど前に笹座作君に連絡をするようにお願い……」
そこまで言って、御倉は開いていた口を閉じ、少女はそんな御倉に向かってなんとも生ぬるい視線を送る。
「これは、私のミスですね……笹座作君に口頭で伝言を頼むなんて」
「ああ、うん。たまにはそういったこともあるじゃろ」
少女は深々と溜息をつくと、職場で最もよく鍛え上げられた体躯を持つバカの顔を思い浮かべた。
無手に限定するならば、自分すら凌ぐ格闘戦能力を持つあの残念な男は、その身体能力に比するかのように粗忽な面が多い。
本当の意味で致命的なミスこそ犯さないのだが、それ以外の場面では細々とした書類の書き間違えや、連絡ミス等を頻発させる。それにどうも人の機微を察するのが苦手なのか、ちょっとしたことでつい余計な言葉を口走り、年下の石蕗によく怒られている。
少女自身はあのバカ呼ばわりしつつも、性根は善性の生き物なのでさほど嫌ってはいないのだが、今回のようなことの当事者にされればさすがに腹が立つ。
「あやつには後で千縞屋の限定モンブランを買わせることにして……まぁ急場で無茶を言われるのは今に始まったことではないしのう」
で、いつも通りでよいのかの?
少女の問いに、御倉は石蕗から伝えられた要望を伝える。
「できればあまり派手過ぎないようにと」
「別に派手なことをしているつもりはないんじゃがなぁ」
何しろ自身にできることと言えば、ただ切ることだけなのだ。立ちはだかるモノを切って切って切るだけ。時折やたらと走り回るハメになることはあるが、基本的に地味な作業の繰り返しだと少女は思っている。
「関西の足谷なんぞの方がよほど派手じゃろうに」
過去に何度か互いに協力し合ったことのある、いわゆる術者である年上の女性の所業を思い出し、少女は一人納得するように首を上下させた。五行を意のままに操り、禁呪を扱う彼女のやり方はとにかく派手である。禁術により行動の幅を徐々に削っていきつつ、草木が敵を絡め取り、炎がうなりを上げ大地は裂け、金属を盾と為し水が全てを洗い流す。
およそ派手というならばあれ以上派手なモノはないだろう。
それに比べれば自分なんてとてもとても。
「そこはまあ、見解の相違と言うことでしょう」
少女の言う派手とは、間違いなく立ち回りのことを指しているだろう。大して石蕗の指摘する派手は、状況終了後の凄惨な様相を示す現場事態のことを言っているのだ。ありとあらゆるモノを切り倒す少女が戦闘を行った後に現れるのは、紛うことなき血の海であるのだから、石蕗の指摘もあながち間違ってはいない。
「……ま、よかろうて。それで?」
続きを促す少女に、御倉は小さく頷いて言葉を続けた。
「異動してきた新職員の方ですが、元河真人さん二六歳。例によって当支局の業務内容は一切知らせていません」
「いつも思うんじゃが、本当に公務員は部署によってブラックさが桁違いになるのう」
「実働日数だけを考えればうちはそれほどでもないと思いますが」
「そこ以外がブラック過ぎるじゃろーに」
「そのようなわけで、霧前さんには普段通りに業務を行っていただき、元河さんの常識の殻を打ち破って頂くようにお願いします」
少女の突っ込みを完全に無視して、御倉は支局職員としての全ての要望を少女に伝える。彼自身もかつて、少女の前任者にやられたことがあるので思うところがないわけではないが、それでもこれはやってもらわないとならないことであり、この支局に配属された者が受けねばならない洗礼なのだ。
最初に常識をたたき壊し、実際の業務を見せつけ、甘さを捨てさせないとこの先どこで命を落とすのかわからない。
「ま、乱暴でも最適ではあるかの。それで、合流はいつ頃になるんじゃ?」
◇ ◇ ◇ ◇
あの後、真人が呆然としている間に笹座作は支局長に何らかの許可を取りに行き、その間に石蕗はこの場にいない職員――御倉と言うらしい――に連絡を取り、あれよあれよという間に連れ出されてしまった。
現在は支局の局用車に乗せられて、現地とやらに向けて移動中であった。
もっとも、乗せられている車が四ドアに荷台までついた大型の真っ赤なランドクルーザーというのは、公用車としてはどうなんだろうかと思いつつではあったが。
ともあれ、支局に着いてからようやくのことで落ち着いて話ができる状態になった真人は、隣でハンドルを握る巨漢に声をかける。
「どこに向かってるんですか?先輩」
「ここから二〇キロくらい上流にあるとある川の堤防。そこに今回の担当者二名がいるんで合流する予定……あ~やっぱり時間がよくないか……時間ギリギリになりそうだな」
なんだかんだで支局を出るまでに一五分程度はかかり、現在の時刻は一六時半を少しばかり過ぎた頃で、ちょうどこのあたりの道路が混み始める時間だったらしい。笹座作は小さく舌を打ったが、仕方がないと割り切ったようでシートに背中を預けた。
「ああそうだ。向こうに着いたら一応これ着ておくように」
いくつかの交差点を過ぎ、赤信号に引っかかった時に思い出したかのように笹座作はそう言うと、後ろのシートに放置してあったやたらにゴツそうな迷彩柄のベストを一つ手に取ると、真人の膝の上に置いた。
「これは?」
見た目よりもはるかに重いそれに驚いて、真人は思わず声あげる。
「ボディアーマー……いわゆる防弾チョッキと言った方がわかりやすいか?セラミックプレート入りだから頑丈だぞ?」
「いや、なんでこんなものを……」
「必要だからな」
まぁ、気休め程度なんだけどな。
そう続ける笹座作の言葉に、真人はさすがに不審に思い疑問を口にした。
「先輩」
「なんだ後輩」
「自分に“何”を見せる予定なんですか?」
この支局はどこかおかしい。
生来いささか暢気なところがある真人だが、さすがにこの特殊災害対策委員会が自分の知っている文系公務員の仕事とは、いささか外れているのではないかと思い始めていた。
異動時期を外れた急な辞令はともかく、誰に聞いても具体的な業務内容がまったく見えてこない支局。守秘義務がいくら厳しくても人間が運営している組織なのだから、多少は漏れ聞こえてこなくてはおかしいのにそれがない。
その一点だけでも訝しく思うべきであったと真人は思ったが、すでに船には乗り込んでしまっているのだ。ともかく最低限、どういった仕事を請け負っているのかだけでも把握したい。
そんな思いを込めた問いかけに対して返ってきた言葉は、しかしやはりいささか的を外した言葉だった。
「……なぁ、幽霊が本当にいるって言われたら、信じるか?」
「幽霊、ですか?」
予想外にも過ぎる言葉に、真人は胡乱げな視線を笹座作に向け、笹座作はその視線に対して苦笑でもって答えた。
「まぁ信じないよな。俺も信じちゃいない……が、幽霊と誤認されるような、思われるような何かがいる。あるいは何かが実際にあったと言われれば?」
「枯れ尾花、というやつですか?まぁそういったことは十分あり得るかと」
それが何の関係があるのかと訝しく思いつつも、真人はそういったことであるならばと、肯定する。
人間というのは基本的に誤動作の多い精密機械のようなものだ。しょっちゅう錯覚を起こすし、聞き間違いもよく起こす。記憶もよほど注意していなければ易々と自分の都合のよいものに改竄されていく。
例えば三つの丸模様に勝手に人の顔を投影して、勝手に恐怖を覚える件などはその最たるものだろう。人はそこに何もなくても勝手に意味を与えて勝手に恐怖を覚える、そんな性質を持って生まれた生き物なのだ。
所詮人間は主観で持ってしか生きられないのだから、その主観が一度幽霊を認識してしまえば、他の人間には単なる壁のシミにしか見えなくとも、それを幽霊であると認識した人間には幽霊以外の何物でもなくなってしまうのだ。
そんな枯れ尾花的なものをどうにかするのが、この支局の仕事なのだろうか?むしろそういったものに対処するのは文部科学省の外郭団体や、厚生労働省の仕事ではないのだろうか?
いや、そもそも防弾チョッキを渡される仕事というのは一体……?
「枯れ尾花みたいな害がないものならよかったんだけどなぁ」
ハンドルに顎を乗せた姿勢で、笹座作は小さくそう、呟いた。
主人公出ましたが、フルネームが出ていない罠
剣戟は次回に持ち越し(やっぱり)
次回更新は一応6/18~20の間を予定