9話 解
サブタイトルが決まらない……
「うまく誤魔化せたかねぇ……」
一人支局長室で煙草を吹かしながら、酒船は頭の裏で腕を組んだ姿勢で椅子の背もたれに身体を預けながら、今し方話を終えて支局長室を出て行った元河青年のことを考える。
本人自身は気がついていないようだったが野犬の話をした時、元河青年は恐怖を抱いた。少なくとも酒船はそう感じた。
野犬に対してではない。
そっちの方は隠すまでもなく怯えを顕にしていた。青年が恐怖を抱いた対象は、酒船の見立てが間違いなければ、野犬が人を喰ったという話を聞いたときに欠片も動揺しなかった霧前天鳥に対してである。いや、自覚しないままに心の奥に沈めてきた少女に対する恐怖が、具体的なあれら被害を聞かされたことで表に出てきてしまったというべきか。
「ま、自覚する前に上手くすり替えられた……とは思うし」
あの何かと聡い少女が、気がついて無視を決め込んでいたのも幸いだった。おかげでこうやって酒船の方からあることないこと吹き込んでフォローをすることが出来たのだ。下手に自覚などされていたら、即辞表コースだったのは間違いない。
「わかっちゃいたけど、結局面倒なケアを丸投げされた形だよね、これ」
まったく、ちゃっかりした子だよ。
酒船はそのめんどくさげな口調とは裏腹な、楽しそうな笑顔を浮かべながら背伸びをした。
◇ ◇ ◇ ◇
「なんじゃ、また鳩がポップコーンぶつけられたような顔をしおって」
少女はそう言うと腕を組み、顔を合わせた途端目を見開いて驚いている元河青年を軽く睨み付ける。
「あら、今日はずいぶん大人っぽくしてるのね」
石蕗が興味深そうにそう言い、視線を送るその先にいる少女の服装や雰囲気はなるほど、少なくとも中学生には見えない。
長い黒髪は邪魔にならないようにするためか、うなじのあたりで編み込まれている。もとよりその年にしては整った、どちらかと言えば怜悧な印象を与えるような容貌には派手すぎず、しかし雰囲気を変えるには十分な化粧がしっかり施されており、切れがよい美しい所作や、武術家らしい姿勢の良さ、謎の落ち着いた雰囲気などが合わさって、身長こそやや低いが本来の年齢よりも遙かに年上の女性に見えた。
服装も、実際に動き回ることを念頭に入れつつ、しかしそれなりに見栄えのするもので整えられている。
厚手の黒いミニワンピースに黒いタイツ。足下は、まあこれからの仕事内容を考えれば仕方ないのだろうが、ギリギリ野暮ったくない程度の厚さのレザーで仕立てられたヒールの低いベルト留めのニーハイブーツ。そして一応の防寒用にか深紅のレザーのライダージャケットに襟元に白いマフラーという、普段の制服姿しか見たことのない青年にとってはまさに見違えるほどの少女ではない、女性の姿がそこにあった。
「あんまり子供っぽい格好をしていて深夜徘徊するのもな。ましてや制服姿で歩いておったら儂じゃなく元河さんが職質されるぞ?」
「ああ、うん。それはそうよね。確かに」
「まぁ、念のため以前作ってもらった運転免許もあるから、早々ばれることはないと思うが」
と、とんでもないことを言い出す少女に、呆気にとられていた青年が慌てて声をあげる。
「ちょっ……それって有印公文書偽造じゃ……」
「大丈夫じゃ。こんな時に使用するための本物じゃよ。生年月日と年齢、住所の記載だけが正しくないがの」
「え?」
「ああ、確か去年作ってもらったって言ってたやつ?」
青年が目を丸くしている横から、石蕗は何でもないことであるかのようにそう言い、少女はちょっと自慢げに首を縦に振る。
「支局長が色々伝手を使ってくれたらしくての。まぁどういったやりとりがあったかは知らんし知りたくもないが、公安発行の間違いない本物じゃ」
ちなみに住所の方は関西にあるうちの分家になっておる。
そう言いながら少女はジャケットの内ポケットから取り出したパスケースを、動揺している青年に手渡した。
「……本物?」
「本物らしいですよ。確か前にも、職質受けた時に役に立ったって言ってなかった?」
「まったく、疑り深い奴じゃのぅ。石蕗さんの言ったとおり、以前二度ほど警官に見せたことがあるが、ばれなかったんじゃぞ?」
手渡されたパスケースを開くと、そこには二一歳と記載されている少女名義の普通免許証が入っていた。それを青年は目を細めて暫く睨んでいたが、どこから見ても本物にしか見えない。
仮に偽物であったとしても、少なくとも一見しただけでは分からないくらいの精巧さで作られているのだけは間違いはなかった。
青年は色々な物事に対する諦めの感情をその表情に浮かべつつ溜息をつくと、パスケースを少女に返す。
「どういう伝手持ってるんですか?あの人」
「さぁ……ただこんな仕事ですから、本省の担当すっ飛ばして他省からこっそり話回ってきたりしますし、特に警察と消防からはちょくちょく直で話が来ますからね。思いっきり公文書偽造だと思いますが、後から本省の担当を経由したことにすることも結構ありますし……その時に色々貸しと弱み握ってくるんじゃないかとは思いますけど」
「免許証はむしろ弱みの方でごり押ししたんじゃないかと儂はと思っておるがのぅ……ま、気にしても仕方なかろ。あれはああいう人間なんだとだけ覚えておけばええ。ああいう輩は下手にその領分に手を突っ込むと何が出てくるか分からんからの。藪蛇は御免じゃよ」
その、実に少女らしくはあるが、年頃の少女らしさの欠片もない台詞に青年は苦笑を浮かべた。
「それもそうですね」
「納得したなら行くとするかの。できれば今日中には始末をつけたいしのぅ……下手に時をかけるとまた誰が襲われるか分かったもんではないしの」
少女はそう言うと、帆布製らしいトートバッグを手に取ると先に立って歩き出した。
◇ ◇ ◇ ◇
「現場までは直線距離でおよそ一〇〇キロ。まぁ当然道は真っ直ぐではないんでプラス一〇キロってところでしょうか。一応途中高速を使いますから、うまく流れに乗れれば三時間半くらいで……どうしました?」
助手席に座った少女が自分のことを見つめていることに気がついた青年は、正面を見ながら視線だけを少女に向ける。
「……いや、何でもないぞ。うん、何でもない」
少女はそう言うと、あからさまに何かありそうな表情でくつくつと笑いを漏らした。
「……まぁ、いいですけどね」
「ああ、気にするな気にするな。ところでそろそろその敬語を改める気はないかの?」
「なんかこれで定着しちゃいましたからね。とりあえず改善に関しましては鋭意努力させていただきますということで」
「なんじゃ、官僚のような物言いじゃのう」
「官僚ですから」
冗談なのか真面目な返答なのか、判断に困る青年のその返答に、しかし少女は嬉しそうな微笑みを浮かべた。
格段の変化だった。
今日の午前中、酒船の話が終わる頃の彼は明らかに脅えていた。
人食いの野犬のことに関してもそうだが、少女の見立てでは同時にその話を聞いても一切動じていなかった少女――つまり自分に対しても程度の差こそあれ、恐怖を覚えていたはずだ。
あるいは嫌悪、もしくは畏怖か。
我慢して表に出さないようにしていたのか、さもなければ本人自身も気がついていなかったのか、どちらにしろ青年が少女に対し、何らかの仄暗い感情を抱いたのは間違いない。
それがどうだ。
支局に戻ってきた時もそうだし今もそうだが、支局長室から出るまでは青年の中にあった自分に対する暗い感情がきれいさっぱりなくなってしまっている。ついでに以前からあった蟠りのようなものが払拭されてしまっているのだ。
それに今までのどこか壁を感じる対応とは違い、こちらから話しかける言葉に対してきちんと意味のある言葉を返してくるのだ。ちゃんと会話をしよう、こちらを理解しようとしていることだけは間違いない。
おそらく自分が席を外した後に、酒船と色々話をしたのだろう。
あれであの男は話もうまいし、話を聞くこともうまい。性格は悪いがあちこちに伝手やコネを持ち、関係を維持し続けているということはイコールで話術が巧みであることを保証している。
腹の底に何を隠していようと、他人と楽しく会話ができない者にはコネを維持し続けることすら出来ないのだ。
それにまあ、本人に対して面と向かって言ったことは滅多にないが、あれで結構身内に甘いところもあるし、部下の面倒見もよい。
――下手に自分から動かなくてよかった……
少女は頬を綻ばせながら、青年に気がつかれないように小さな安堵の溜息をついた。
ぶっちゃけた話、自分で動くよりも丸投げした方が良さそうだと感じたので、午前中の支局室ではあえて青年の反応をスルーして話をしていたのだが、そこら辺の機微を酒船は察してフォローをしてくれたらしい。
正直なところ、予想よりも遙かにうまく青年のことを丸め込んでくれたことに関しては、素直に感謝してもいいと少女は思った。
――今度何か礼を……あれの家は奥方が強いからのぅ……まあ、時期を見て夫婦用の温泉旅行でも用立ててやればよいか。
と、どういった形で礼を返そうかと少女が考えを巡らせていると、
「時間が半端になりそうですけど、飯はどうします?といってもコンビニ寄るくらいしか時間がとれませんが」
暫く口を閉じていた青年が、そう声をかけてくる。
「いや、念のため食事は取らん方がいいじゃろう……何があるか分からんしの。とは言っても時間が半端なのもあるからのぅ」
そう言うと少女は抱えていた大きめのトートバッグの中から、少し大きめのマグボトルを取り出した。
「これから派手に立ち回ろうという時に、固形物を腹に入れるのはいかんからの。作ってきた」
「なんですそれ?」
「カボチャのポタージュスープじゃな。洋食はあまり得意ではないんじゃが、ま、これくらいはの。ああ、さすがに今すぐは飲ませんぞ?」
「……わざわざ出してきておいて、お預けですか?」
「阿呆。さすがに今口にするのは時間が早すぎるわ」
青年はその少女の言葉に溜息をついた。言われたとおり、まだ支局を出てから一時間も経っていない。
「ま、向こうに着いたら飲ませてやるから我慢せい。ついでに感想も聞かせてもらうからの」
◇ ◇ ◇ ◇
犬蔵金属加工株式会社は、創業から一〇〇年以上になる古い会社である。元々は神奈川の方で細々とした物を作っていた鋳物師の一族らしいのだが、明治維新の際に北関東に移ってきたらしい。こちらに移ってきた理由そのものは不明だが、その後はこの地に根付いて鋳物師を再開し、ほどなく小規模ながら会社を設立したらしい。
その後、太平洋戦争を無事に切り抜け、高度成長期に会社の規模を大きくし、いわゆる平成不況の頃に経営不振に陥るという、よくある中小企業の変遷を辿ることになる。
さすがに平成不況の際には倒産待ったなしの状況に押し込まれたのだが、特殊金属加工に関しては高い評価を業界で受けていたこと。どういう伝手があったのか旧くは宇宙開発事業団、現在の宇宙航空研究開発機構に数点の金属部品を納品していたこともあり、国際宇宙ステーション計画にも潜り込む事に成功。そちらでも数種類のネジを納品した実績を得たことで、緩やかではあったが業績を回復基調に乗せることが出来た。
現在は三〇人程度の社員を抱える、いわゆる確かな技術を持った会社として安定した経営を確立させていた。
「どうしました専務?」
時刻は七時を少し回った頃。
来季の事業計画案の確認作業をしていた専務――持ち株会社であるため、犬蔵の一族が経営陣になっている――社長の妻である犬蔵穂積は不意に立ち上がると窓を開くと、一緒に作業を手伝わせていた事業部長の声を無視したまま、既に夜の帳が落ちきっている窓の外を覗き込んだ。そして、形よく鼻筋の通った鼻を少しひくつかせる。
日中は大分暖かくなってきてはいるが、この時間になるとさすがにまだ風は冷たい。が、その風に乗ってその匂いは運ばれてきた。
脳が蕩けるような、唾液が止まらなくなるような匂い。甘いようで、香辛料のように刺激的で、なんともおいしそうな匂い。気を抜いたらそのままこの三階の窓から飛び降りて、匂いの元へと走り出してしまいそうな蠱惑的な匂い。
「専務?」
再びかけられた事業部長の声で、専務はなんとか匂いに幻惑されそうになった意識を立て直した。
「いえ、すいませんでした。ちょっと変な音が聞こえた気がしちゃいまして」
専務はそう言うと、表情を繕いながら振り返り、年齢よりも大分若く見える可愛らしいと表現してよい容貌に苦笑を浮かべて、小さくちろりと舌を出した。
「大丈夫ですか?頭の怪我は後から影響が出ることもありますから、あまりご無理をなさらない方が」
事業部長はそう言うと、専務の頭に巻かれた包帯に心配そうな視線を向ける。五日ほど前、自宅で転倒した上に、その時手に持っていた酢の瓶が転んだ拍子に手を離れ、左の米神のあたりを直撃したと聞かされていたのだから、その視線も仕方ないだろう。
幸い脳波などの異常はなかったとの話だが、それでも包帯が巻かれたままの頭を見せられていては、やはり心配になってくる。
「こちらの方も明日には終わりますし、定時も大分過ぎてます……今日のところはもうお帰りになってもよろしいのでは?」
「そうね……それじゃ悪いけどそうさせてもらいますね。あなたもあまり遅くならないようにして下さいね」
「ええ、戸締まりを確認しましたら私も上がらせて頂きますよ……ああ、忘れてましたが社長は今日は帰るのが遅くなるそうです。なんでも志田原商事さんと資材の納品の話をした後に飲んでくるとのことで……」
事業部長のその言葉に、専務は呆れたように溜息をつくと、仕方がなさそうな表情に苦笑を浮かべる。
「まったく……私から電話したら嫌みを言っちゃいそうだから、事業部長の方から連絡してもらえますか?せめて午前様にならないようにと」
「わかりました。あまり羽目を外さないようにとも伝えておきますので」
「お願いしますね。それではお疲れ様でした」
「お疲れ様です。お気をつけて」
専務はそう言うと、事業部長に挨拶をして会議室を出ると、駆け出したくなる衝動を抑えながら、しかしそれでも足が速くなるのを押さえきれずに小走りで駐車場に向かう。
「ふぅ……」
自家用車である赤い軽自動車に乗り込みドアを閉めた犬蔵穂積は小さく息を吐くと顔をうつむけ、その口元を大きく歪ませる。
犬蔵穂積は、自身に訪れた幸運を噛み締めるかのように、低く音のない笑い声を漏らした。
五日前、本来ならば余裕で狩れたはずの獲物から思わぬ反撃を受けた不運を覆すほどの幸運だ。今さっき鼻に届いたあの匂いは”特別な人間”が放つものだ。間違いない。
なにしろこの身体の持ち主であった女の匂いが、まさしく今鼻にしている極上の匂いなのである。
あの日あの時この女を喰ったことで、自分はこの無駄に人が溢れたこの世界に紛れ込むことができるようになったのだ。”特別な人間”とはただ美味いというだけではないのだ。あれを再び喰うことが出来たとしたら、自分は新たな力を得ることが出来るだろう。
「あの人も今夜は遅くなるだろうし……なんて幸運なのかしら……」
あの”特別な人間”を喰えば、更に大きな群れを作れるようになる事は間違いない。群れが大きくなれば、もっと広い範囲を自分の影響下に置くことが出来るようになる。そうすれば今よりももっと多くの人間を喰うことが出来るようになるはずだ。
「場所は……ああ、あの田舎道ね……それにしても……ああ、なんて素敵な匂いなのかしら」
今すぐ駆け出したい衝動を押さえ込みながら、赤い口紅を引いた唇を舌先でゆっくりとなぞる。さすがに今すぐ手を出すのはまずいことくらいは判る。幸い匂いの持ち主はゆっくりと郊外に向けて移動しているようだ。
方角から考えると後三〇分ほどすれば、人通りの少ない田舎道へと至るはずだ。そこでなら何の遠慮もなく眷属も呼び出せる。
「本当に楽しみ……」
犬蔵穂積は、再びそう呟いた。
一旦この章を〆たらこのまま話を進めるか、一回過去話を入れるか……
性転換タグがあんまり息してないし……
とりあえず次回は7/25前後で更新予定




