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ささくれ黙示録 ~ショートショート集・ソノ1~

ショートショート032 現代のジンクス

作者: 笹石穂西

 一人の男が、ベッドでぐっすりと眠っていた。時刻は明け方。すでに外は明るくなってきている。


〈そろそろ、起きてください……〉


 安眠枕に仕込まれたスピーカーから、気持ちのいいトーンの機械音声が流れ始めた。


〈まもなく、起きる時間ですよ。目を覚ましてはいただけませんか……〉


「あと少し。もう起きるから……」


〈そうおっしゃらず。おいしい朝食も用意してありますので……〉


 枕元の装置から合成香料がわずかに流れ出し、味噌汁の香りが漂いはじめた。


「ああ……。わかった、わかった。そんないい香りを出されてはたまらない。起きるとするよ」


 男はゆっくりとベッドから起き上がり、小さく背伸びをした。


〈おはようございます〉


「ああ、おはよう」


〈本日もきちんと目を覚ましていただけて、助かります〉


「そうしないと、後が怖いからな」


〈私はそんなに怖いでしょうか〉


「そういう意味じゃないさ」


 男は、軽く笑いながらベッドから降りた。


〈朝食はできております。とりあえず顔を洗って来てください〉


「そうしよう」


 男が洗面所に行くと、妻が顔を洗っていた。


「おはよう」


「あら、あなた。おはよう。よく眠れたかしら」


「ああ。ぐっすり眠れたし、いい夢も見られた。おかげで目覚めもすっきりだ」


「それは良かったわね。さ、空いたわよ」


 妻はそう言い残し、リビングに入っていった。男も顔を洗い、軽くひげを剃って、リビングに入った。


 食卓には、炊きたての白ごはんとあつあつの味噌汁、それからすだちが添えられた焼き魚が並べられていた。


「今朝はサンマか」


「ええ。昨日、占いでサンマがいいって出たから、買っておいたの」


「朝からサンマとは、最高の朝食だな。今日もいい一日になりそうだ」


「あなた、そんなにサンマが好きだったかしら」


「いや。ただ、ついさっきまで、夢の中でサンマを食ってたからな。これはたまらないよ」


「みごと的中というわけね」


 妻は笑ってそう言い、男も席に着いて食事をはじめた。


 味噌汁をすすりながら男がテレビをつけると、占いが始まった。


『……今日の旦那さまの運勢は大吉です。いつもどおり過ごしていれば、すべてうまくいくでしょう。若い女性に親切にすると、良いことがあります……』


「やはり、いい一日になりそうだ」


「あら、若い子と仲良くなれるからかしら」


「そういうことじゃないさ。おれに浮気できるような甲斐性なんてない。それは、お前がいちばんよく知っているだろうに」


「そうだったわね。これは失礼いたしました」


「そんなにあっさり信じられても、それはそれで悲しいんだがな」


 男が冗談を言うと、妻は、ばか、と言ってくすりと笑った。


 そんなやりとりをしているうちに、妻の分の占いが始まった。


「さて、お前の番だぞ」


「……小吉かあ。ラッキーアイテムは長靴ねえ。あなた、うちに長靴なんてあったかしら」


「どうだったかな。なあ、うちに長靴はあったかな」


 男がたずねると、室内のスピーカーが答えた。


〈ありますよ。下駄箱に、奥さま用の赤色のものが一足〉


「だとさ」


「そういえば、そうだったわね。めったに使わないから忘れてたわ。でも、どうして長靴なのかしら」


「さあね。水遊びをすることになるとか、トイレ掃除をすることになるとか。あるいは下水管が壊れて、いつもの道が水びたしになっているのかもしれないぞ」


「いやね。あの長靴、けっこう可愛いのよ。水遊びはいいけど、トイレや下水で汚したくないわ」


「ああ、わかったぞ。そういえば昨日の天気予報で、今日の昼前にかなり雨が降ると言っていた。まだ会社にいる時間なのにお前に必要になる理由はわからんが、とにかく履いていったらどうだ」


「ああ……ああ、そういうことね。わかった、そうするわ」


 妻は何か思い当たることがあったのか、納得した様子だったが、男はそこまで興味を抱かず、それ以上聞くこともなかった。夫婦の会話はそれきりなくなり、二人は黙々と食事を続けた。


 テレビはすでに占いを終えており、自動的にニュース番組に切り替わっていた。それを眺めながら朝食をたいらげ、後片づけをしてから、二人そろってそれぞれの自室に戻った。




 部屋に入った男は、朝食のあいだに機械が用意していたワイシャツに袖を通した。それからネクタイを選び、機械にたずねた。


「今日はこれにしようかと思うんだが、どうかな」


〈占いによれば、その二つ隣のネクタイが良いようですよ。今日のラッキーカラーは赤ですから〉


「そうか。じゃあ、これでいこう」


 真紅のネクタイを選んだ男は、次に香水を選びはじめた。手にとったのは、やや甘めの香りがするお気に入りのもの。


「これはどうだろう」


〈占いにしたがえば、もう少し、さわやかな香りのものの方がよろしいかと〉


「なら、こっちかな」


 男は選び直した香水を少量つけ、準備を終えて部屋を出た。


 玄関に行くと、もう下駄箱に長靴はなかった。どうやら妻は先に出たようだ。男は靴を選んで機械にたずね、占いにしたがって選び直したものを履いて家を出た。


 いつもの道を歩いて駅に向かう。改札を通ってホームの列に並んでいると、前にいた若い女性がハンカチを落とした。そういえば、親切をするのがいいんだったな。そう思って男が拾おうとすると、女性も同時に腰をかがめた。二人は顔を見あわせて苦笑した。


「どうもありがとうございます」


「いえ、私の方こそ失礼しました」


「その靴、素敵ですね」


 朝から若い女性にほめられ、男は悪い気分ではなかった。


「そちらこそ、上品なハンカチですね」


 男がお返しにほめてみると、女性は少しはにかみながら、いえ、そんなことは、と小さく言った。けっこうな恥ずかしがりのようだ。


 まさか、朝からこんなに可愛らしい人と会話できるとは。やはり今日も、いい一日になりそうだ。


 男はそんなことを思っていたが、分別はきちんとわきまえていた。それ以上女性に話しかけることはせず、そのまま電車に乗り込んだ。




 しばらくして会社へ着き、朝礼が終わって、男はいつものように仕事を始めた。端末を開いて一日の計画を確認する。


 今日は得意先回りだったな。だが、あまり行きたくない会社が一件ある。あそこの担当者は、機嫌を損ねると面倒なんだが、どうしたものか。


 男は少し考えたが、まあ、なるようにしかならないさ、と割り切って会社を出た。


 何件かの訪問を済ませ、次は例の会社だった。ビルに入り、受付で担当者を呼んでもらい、しばらく待った。


「やあ、どうも、お待たせしました」


「いえ、こちらこそ、いつもお世話になっております」


 そんな、ごくありきたりな挨拶から商談が始まった。男は、相手の気を悪くさせないよう細心の注意を払いつつ、自社の新企画について丁寧に説明した。それが功を奏したのか、商談は無事成立し、かなりの量の品目を取り扱ってもらえることになった。


「まさか、こんなに置いていただけるとは、思いもしませんでした」


「いえ、御社のこの企画はおもしろいですからね。うちとしても、ぜひ積極的にやらせてほしいのですよ」


「ありがとうございます」


「まあ、それだけではないんですがね。あなたの今日の香水、それは私もお気に入りでして。さわやかな気分になれるので、好きなんですよ。そういうところで妙に共感してしまった、というのも実はあります」


「そうでしたか。実は私も好きで、ときどき使っているんです」


 こういうことだったのか、という思いが脳裏をちらっとかすめたが、男はもちろんそれを表に出すようなことはせず、適当な建前を並べて商談を終えた。




 その後、もう何件か回ってから会社に戻った。雑務がけっこうたまっていたので、次々に片づけていく。


 そうして気がつくと、終業時刻になっていた。


 そういえば、今日は早く帰った方がいいんだったな。今日の仕事はだいたい片づいたし、たまには定時で帰るとするか。


 昼に確認した占いのことを思い出した男はそう考えて、どこかに寄り道をすることもなく、占いどおりにまっすぐ家に帰ることにした。


 玄関を開けると、妻の長靴があった。今日はやけに早いな。いつもはおれと同じか、おれより遅いくらいなのに。


 いったいどうしたんだろうかと、首をひねりながらリビングに入った瞬間、火薬がはじける音がした。


「お帰りなさい、あなた。そして、お誕生日おめでとう」


 クラッカーから飛び出た紙テープがひらひらと舞い落ちる中、男はあっけにとられて目をぱちぱちとしばたたかせた。室内はいろいろな飾りつけがなされていて、妻はにこにこと微笑んでいた。


「誕生日……そうか、今日はおれの誕生日だったか」


「いやねえ、忘れてたの。でも、自分の誕生日は忘れてるのに、わたしとの結婚記念日は覚えてくれていたなんて、うれしいわ」


 男は妻の言葉を聞いて、あっ、しまった、と思った。そうか、今日だったか。すっかり忘れていた。だが妻はどういうわけか、おれがそのことをちゃんと覚えていたと思っているようだ。なぜだろう。


 男は動揺を必死に隠しながらそんなことを考えていたのだが、妻はうれしさのあまり夫の動揺にはまったく気づくこともなく、浮かれて話を続けた。


「初めての結婚記念日のときに、誕生日プレゼントを兼ねてわたしが贈ったネクタイを、今日ちゃんと選んで着けてくれているなんて。本当にうれしいわ」


「あ、ああ。もちろんだとも。ずっと前から気にしていて、今日もちゃんと選んだんだ」


 男は、そういえばそうだったと思いつつ話を合わせ、それからいいわけをした。


「だが、すまない。何かプレゼントを用意したかったんだが、どうにも忙しくてね。間に合わなかったんだ」


「いいのよ、今日はあなたの誕生日でもあるんだし。それに、あなたが今日そのネクタイを着けてくれていて、今日ちゃんと早く帰ってきてくれた。それだけで、わたしはうれしいの。それが何よりのプレゼントよ」


 男は妻にばれないようにほっと息をつき、じゃあ着替えてくるよと言って自室に入った。




 そのあと、妻がひそかに準備していた豪勢な手料理を堪能し、妻が買ってきた良い酒を味わいながら、まったく、誕生日に結婚するなんて本当におかしいよなあ、などと笑いながら夫婦で談笑していた。


 そのとき、男はふと思い出したことがあって、妻にたずねてみた。


「そういえば、あの長靴は役に立ったのかい」


「ああ、あれね。役に立ったわよ、ちゃんと。すぐに止んだけど、昼前にかなり強い雨が降ったでしょう。もう仕事は始まっていたから通勤中に濡れはしなかったけど、今日はこの準備のために昼過ぎに会社を出たの。だからまだ道がずいぶん濡れていて。長靴がなかったら、きっと水たまりをよけるのに苦労していたわ」


「なるほどね。それにしても、昼から準備をしていてくれたとは」


 男は妻の気づかいに感謝して、また別のときにデートをしようという約束をした。


 そうして夜は更けていき、機械が優しい声を流しはじめた。


〈旦那さま、奥さま。愛の言葉をささやきあっておられるところ申し訳ないのですが、明日のためにも、そろそろお休みになってはいかがでしょうか〉


「ちょっと、やめてよ、愛の言葉なんて」


「そうだぞ。そんなことは言わないでくれ。恥ずかしくなるだろう」


〈これは失礼いたしました〉


 機械が少しおどけたように言った。


「しかし、そうだな。もうこんな時間か。よし、そろそろ寝るとするか」


「そうね。じゃあ、デートの計画は頼んだわよ。お返しも期待してるから」


「これはまいったな」


 夫婦はそう言って笑いながら、それぞれ寝る準備をはじめた。




 寝支度を終えた男は部屋に戻り、寝間着に着替えてベッドにもぐりこんだ。


 そして、いつものように機械にたずねる。


「さて、明日は何時ごろに起きればいいのかな」


〈今日と同じお時間でよろしいようですよ〉


「そうか。じゃあ、また同じ時間に起こしてくれ」


〈すんなり起きていただけると、うれしいのですが〉


「起きるさ。その時間に起きないと、明日という一日をうまく過ごすことができない。そう占いで出たんだろう。起きないわけにはいかないよ。あとが怖いからね」


〈では、期待しております。それでは旦那さま、おやすみなさいませ……〉


 機械の挨拶に、ああ、おやすみと小さく答えてから、男はぼんやりと考えた。


 今日もいい一日だったなあ。運気というものが科学的に解明され、より正確な科学的占いが生まれてからというもの、暮らしはとても良くなった。朝の目覚めもよく、仕事もうまくいっている。おれも妻もいらいらしなくなって、喧嘩もなくなった。占いはインフラ化され、各種の機械にも導入されて、もはや欠かせない。おかげで、充実した毎日を過ごせる。なんと素晴らしいことだろう。


 そこまで考えて、しかし、と男は思った。


 しかし、これは本当に占いなのだろうか。あまりにも、うまくいきすぎなんじゃないだろうか。もしかしたら、おれや妻、そして他のやつらの行動にも方向性を与えて、ことがうまく運ぶようにしているだけなんじゃないだろうか。


 たとえば、朝食のサンマ。あれは、昨日妻に買わせておいたうえで、機械が安眠枕を操作して、おれにサンマの夢を見せたんじゃないか。


 それから、朝の占い。あれの言うとおりにしたおかげで、可愛らしい女性と話せたわけだ。だが、女性のほうも、上品なハンカチを落とすといいことがある、男性にほめられるとか、そういうことを占いで言われていたんじゃないだろうか。


 妻の長靴だってそうだ。妻は昼に退勤すると決めていた。それも占いが指示したことかもしれない。そして天気予報が雨だったから、長靴をラッキーアイテムにしただけなんじゃないだろうか。


 そのほか、香水の件も、ネクタイのことも、早く帰れという昼の占いも、すべてそういうふうに仕組まれていただけなんじゃないだろうか。


 もしそうだとしたら、おれたちのプライベートから何からすべて、盗み見ているやつがいるということになる。


 ありそうな話だ、と男は思った。


 だが、すぐに疑問がわいてきた。


 けれど、あそこまで人の行動を厳密に操作できるとは思えない。香水やネクタイみたいなことは仕組めるだろうが、ホームであの女性の後ろに並んだのは偶然のはずだし、ほめたのはおれの意志だ。それに、天気予報も百パーセントじゃない。おれの考えすぎか。


 そのとき、強烈な睡魔がやってきた。安眠枕が作動しはじめたのだ。


 しだいに薄れていく意識の中で、まあ、それでもいいかな、と男は思った。


 本当にそうなのかはわからない。おれは科学にうといからな。しかし、それで実際にみんなうまくいっているのだ。そう悪いことでもないのだろう。


 あんがい、裏でおれたちの生活を管理している何か、黒幕みたいなものは本当にいるのかもしれない。だが、したがっておいて損はないんだ。気にしないほうがいい。


 それに、ハンカチの件のように、当たるかどうかわからない、偶然性の強いものもある。そういう意味では、結局のところ昔の占いと大きく変わっているわけでもないんだろう。


 要するに、発達した文明社会における、科学占いという現代のジンクス。そんなようなものなんだろうな。信じておいたほうが、無難に、幸せに過ごせるというものさ。




 そうして、男は深い眠りに落ちていった。


 部屋では、安眠枕だけが静かに動いていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] いつもより長文でしたがすんなりと読めました。 生活の一コマ一コマがなんとも不思議な感じです。 世の中知らぬが仏という事もありますが、知らない方が良いことも知りたくなる時がありますね。
[良い点] 怖面白いと思いました。人生の円滑は素直に羨ましく、もしあれば欲しいインフラです。たとえ機械に消される可能性があったとしても
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