第01話 プロローグ
「むぅ、スキルを持っておらぬ――無能者か」
ひんやりとした床の上で寝ていた僕が、目覚めて最初に聞いた言葉がそれだった。
何だよ無能って。酷いこと言うなぁ。よし、聞かなかった事にしよう。
ぼんやりした意識のままスルーすると、ここが何処なのかと辺りを見回す。
さっきまで道を歩いていたような気がするんだけど……どう見ても建物の中にいた。
部屋の端に階段らしきものはあるけど、それ以外には何も無い広々とした空間。遠くにある壁に高い天井。
薄暗い室内を、所々に立っている蝋燭と窓からの月明かりが照らしだしている。
何とも異様な雰囲気の場所だ。
建築中で間仕切りもしていないマンションのフロアのようにもみえるけど、冷たい床はコンクリートではなく古めかしい石造り。
壁も天井も同じく石で出来ているようだ。
風通りは良いようで、すこしカビ臭い空気に錆びた鉄のような臭いが混じっている。これ、血の臭いか?
臭いの元はすぐ近く。足元の床から漂っている。
見るとそこには真っ赤な魔方陣が描かれていた。
うわっ、血の魔方陣て! 中二病こじらせすぎだよ!
「その上、このゴミのように低い能力値は何だ。良質の素体が手に入るはずだったのに……召喚陣に不備でもあったか? これでは何の役にも立たぬではないか」
ドン引きしている僕に気が付かないのか、さっきからずっとブツブツと悪口のようなことを言っている目の前の男。
意図的に見ないようにしていたけど、さすがに無視しきれなくなってきた。
もしかしてこれ僕に言ってるの? 酷くない? 泣いちゃうよ?
チラリと見るだけでも怪しいと分かる人物だ。
黒っぽいローブを着て三角帽子を被り、手にはねじくれた木製の杖を持っている。
まるでファンタジー映画に出てくる魔法使いのお爺さんみたいな格好だ。
そして目付きが鋭い。めちゃめちゃ恐いです。
すぐに視線を逸らし――視線が硬直する。
怪しい男ではなく、その後ろにいる少女に。
白い振袖にスミレ色の袴をはいた、凛とした立ち姿。
艶やかで真っ直ぐな長い黒髪は白無地の細い紐で一つにまとめられ、一度立ち上がった後に腰まで流されている。
少し垂れた前髪の中には綺麗に整った小さな顔。その小顔には切れ長の大きな瞳。
髪と同じ黒い色をした瞳は心配そうにジッと僕を見つめていた。
「……」
物言いたげな様子だけど、紅を引かずともうっすらと桃色に色づいた唇は引き結ばれたまま一言も発さない。
剣道少女などという枠では収まらない雰囲気をまとっている。
武家の娘、女侍という言葉が思い浮かぶ。刀は持っていないけど。
僕程度では一目惚れをすることさえ、おこがましくてとても出来ないくらいに整った顔立ち。
十六、七歳くらいの未完成な状態でこの美しさだ。あと数年したらどんな美人に育ってしまうのか是非とも見てみたい。
これほどの存在感を放つ女の子がいることになぜ気付かなかったのか。
めっちゃ怪しくて恐すぎる男のすぐ後ろに立っていたせいだ。なるべくその周りに視線がいかないようにしていたからね。
「苦労して召喚した者が無能とはな……」
彼女に見惚れている間にも男は何やら愚痴っていた。
また召喚の力を溜めるまでどれだけ時間が掛かると思っているのだ、とか意味不明なことを言って嘆いている。
わけが分からないなりに蔑まれ罵倒されている事は分かるので、とてもムカつくのだけど。
睨もうとすると逆に強烈な視線で睨まれて、思わずキョドって視線を逸らしてしまうけどね。
恐い、恐い、恐い! 何なのこの人!?
こんなの、何も言い返せるわけないじゃん!
「何故声も出さん。言葉も分からぬのか?」
黙っていると何黙ってんだと言われて凄まれる。
そんなふうに言うから、こっちは何も言えなくなるんじゃないか。空気を読んでよ。
「魔力も感じられんし、無能の男では生贄にしても下級悪魔さえ呼べぬ……」
生贄、悪魔ときましたよ?
「魔物のエサくらいにしかならぬか」
魔物て。
なんでもこの塔の外に魔物を放し飼いしているらしいです。
もう付いていけませんわー。
「どう検討してみても駄目か。無能は要らぬ。――死ね」
吐き捨てるように言った男の目が妖しく輝き、僕の身体を射竦める。
背筋がゾクリと震えた。
なっ、何……? 視線で殺せたらってヤツ?
そしてしばし、黙ったまま見つめ合ってしまった。
いや、こんな男よりも後ろの美少女と見つめ合っていたいよ。
男の後方に視線を逸らすと、彼女はさっきよりも切迫した感じの目を僕に向けていた。
思いもよらず願いが叶ってしまった。ちょっとうれしい。
「……」
僕が男に何かされないかと心配してくれているのかな。綺麗なだけじゃなく優しいのかぁ。
でもそんな綺麗な目で見られていると、何だか落ち着かない。僕の心の汚い部分まで覗かれてしまうようで。
「貴様……レジストした、のか?」
「……? レジ、なに……?」
男の視線攻撃がゆるいと思ったら、少し呆けた表情をしていた。
それで僕の緊張が解けてようやく声が出せた。本当に少しだけだったけど。
レジ……レジスト? 抵抗って事?
そりゃ理不尽過ぎることを言われれば抵抗するよ。心の中でだけどね!
男が何を言ってるのか分からず訝しげな目で見る。
「ふむ……欺瞞を言っているわけではなさそうだな。
精神耐性も持っておらぬのだから、元々精神抵抗が強い人種という事か?
娘のほうも中々に手強かったしな。まぁ、無能では何の意味もないが」
一人で納得したように頷いて、また何かブツブツと言っている。
後ろの美少女ちゃんもコイツに何か言われたのかな。「髪が艶やかすぎる!」とか。見た目に欠点がなさ過ぎて悪口が思い付かないや。
佇まいからは気が弱いようにはみえないし、色々言い返しちゃったから喋るなって命令されてるのかもしれない。
さっきから気遣わしげな視線を僕に向けたまま一言も発さず、微動だにすらしないで立ったままだ。
また飽きもせず少女に見惚れていると、男はおもむろに手の平をこちらに突き出した。
そして何事か呟いたと思ったら、その手の前が揺らぎ、唐突に赤い炎の玉が浮かんでいた。
「一瞬で死ねたほうが楽だったろうに。手間を掛けさせてくれる」
えっ!? なにコレ!?
燃えさかる火球が一直線に飛んでくる!
驚愕で飛び退いた僕の足元に火球が突き刺さり、燃え上がった。
吹き上がった熱気が、火を追って下を向いた僕の顔を撫でる。
本物の炎!? 手品じゃないの!?
「あまり当たってくれるなよ。ヤツは焼き肉よりも生肉のほうが好みのようだからな」
熱いのに冷や汗を垂らして視線を戻すと、男の手の上には先程と同じ炎の塊が浮かんでいた。
無造作に放たれたそれが僕の足元を再び燃やす。
「ひぃっ!?」
迫る炎から逃れようと無様に後ろに跳ねる。
ギリギリ避けられる速度だけど、必死にならなければ確実に当たる場所に火球が来る。
予想もしなかった事態に混乱し、急な動きと緊張で息が荒くなってきた。
「うわぁあっ! ひっ、やめっ!」
いきなりこんなことになったら情けない悲鳴を上げてしまうのも仕方ないよね。
魔法のように生み出された火球が次々と襲い掛かって来くる。
焼かれはしなかったものの、緊張と全力回避を繰り返した僕は全身汗だくで足はガクガクだ。
も、もうこれ以上は動けない……。次に火球を投げられたら確実に燃やされてしまう!
壁際にまで追い詰められてしまった僕は、大きく壁をくりぬいただけの窓の淵に手を掛け、恐怖に震えていた。
「ほう、何発かは当たると思ったのだがな。すばしこいのか運がいいのか」
感心したような口調だけど、ヤツの目には興味の欠片も宿っていない。
道ばたに落ちているゴミを見るような、無関心な目をこちらを向けている。嫌だけれど見慣れている視線だ。
チラリと視線を女の子に向けて様子を伺う。彼女もみっともない僕の姿を見て呆れているだろうか。
「……」
そんなことはなかった。
少女は変わらずに心配そうな視線を僕に向け続けてくれていた。
口も身体も動く気配はないけど、彼女が僕を気遣ってくれていることだけは感じられた。
少しだけ心が温かくなる。
「生肉を与えてやればヤツも喜ぶだろう」
そう言って視線を僕の後ろに向けた。
不穏な言葉に戦々恐々としながらも、手の平に火球が浮かんでいないことに少しの安堵を感じて、釣られるように後ろを振り返ってしまった。
窓の外は意外に明るかった。
夜空には異様なほどに大きな満月が浮かんでいる。
その光に照らされた景色は森。
昼間ならば見渡す限り一面の緑色だったのだろうが、夜の闇をまとった森は黒々としていて不気味な印象しか僕に与えてくれない。
遠くから近くへ視線を戻すと僅かな目眩を覚える。
――高い。
本当にここ、塔だったのね……。
地上までの距離はあまりに長く、落ちれば確実に生きてはいられない高さだ。
そして地上でうごめく大きな影。
この高さから見れば人間なんて小指の先くらいの大きさになってしまうはず。
それなのに。
その影の持ち主は握り拳くらいの大きさに見える。
象だってあんなにデカくないよ。
……魔物? 本当に?
「無能を召喚してしまうとは我ながら運が無かったな……。
仕方あるまい。最初が当たりだったのだから良しとしよう」
自嘲するように言う男の意識にはもう僕は入っていないようだった。
逃げたい。だけど足が震えていて動くことも出来ない。
背後から吹きつける風が背筋を撫でて寒気を感じさせる。
「風よ、我が敵を打ち据えよ――突風」
男が何か中二臭いことを呟いて、また無造作に腕をこちらに突きつけてくる。その手に火球は浮かんでいない。
だけど見えない何かがそこから確かに放たれた。
大きなバットで叩かれたような衝撃に胸を押され、耐えることも出来ずに窓から投げ出された。
「あぐぅっ!?」
吹き飛ぶ程の衝撃を受けたにしては痛みはほとんどなかったけど、窓の淵を掴む余裕もなく、僕の身体は完全に空中へと投げ出されてしまった。
チラリと見えた男の瞳には何の感情も宿っておらず、紙屑をゴミ箱に捨てるような目をしていた。
少女の瞳は最後まで逸らされることなく僕へと向けられていた。その瞳は悲みで揺れていているように見えた。
そんな僕の感傷はすぐに頭の片隅へと追いやられてしまう。
放物線を描いて落ちる速度が急激に上がり始めたからだ。
森と、塔のすぐ近くを流れる川が視界に入っているものの、僕の身体は間違い無く土が剥き出しの茶色い地面へと向かっている。
血の気が引いていくのがわかる。
落下予定地点のすぐ近くで一匹の魔物が二対の瞳でこちらを見上げていた。
そう、頭が二つあるのだ。それがただの獣ではなく魔物であることを証明している。
大きな二つの口が仲良く開けられている。落ちてきたらすぐにでも分け合って食べようとでもいうように。
この高さから落ちて死なない確率なんて万に一つもないけど、その奇跡が起こったとしても魔物に引き裂かれ食べられて確実に死ぬってわけですね。えげつなさすぎる!
とか冷静に考えている場合じゃない! 冗談じゃない! しっ、死にたくない! 誰かっ、誰か助けてぇっ……!
窓から落とされたときに胸に受けた衝撃の影響で口も開けず、言葉にならない悲鳴を夜の闇で叫んだ。
『大丈夫、安心しろ! お前を死なせはしない!』
だけど僕の声を聞き届けた者がいた。
――強烈な横風。
さっき塔から落とされた時に受けたものに似た圧力。
だけど痛みも苦しさももたらさないその風は、僕の身体を優しく包み込んだ。
僕は地面衝突コースから反れ、速度を減じながら川へ向かって落ちていく。
その様を見ていた魔物は一瞬呆気に取られた後、慌てて新しい落下地点へと向かってきた。
だけどもう遅い。
ヤツが辿り着く前に僕の身体は川の中へと落ち、そのまま急な流れに乗ってその場から逃れることが出来る。
少し川辺を走って追いかけてきたけれど、泳げないのか塔からあまり離れることが出来ないのかすぐに諦めて戻っていった。
『気をしっかりと持て! 息は出来る。決して意識を失うなよ?』
謎の男に火で追い立てられ、高所からの落下後すぐに生身一つで急流下りという危難の連続で千々に乱れていた心が、頭の中に響く頼もしい声を聞いて落ち着いていく。
安心感をもたらしてくれる彼の声に従って意識を強く持つ。
言葉通りに呼吸が出来ていることが、その安心感を裏付けてくれる。
川の中には岩場もあり、大きな尖った岩にぶつかりそうになるものの、何か柔らかいものに包まれているようにスルリと通り抜ける。
そんな天然ウォータースライダーを二十分か三十分くらい続けていただろうか。
さすがに気を抜くことも出来ずに消耗し、そろそろ気力が尽き欠けた頃――ようやく水の中から浮上し、そのままゆっくりと河原へ転がり出た。
森の端まで流されてきたようで、目の前には夜の平原が広がっている。
吹き抜ける風が草の匂いを運んでくる。
肌寒くない。川の中を流れてきたというのに服も身体も全く濡れていなかった。
不思議に思っていると、頭の中に響く声が優しく気遣ってくれる。
『もう大丈夫だ。疲れたろう? 少しそのまま休むといい』
安堵をもたらす声の主を僕は良く知っている。
それは無二の親友にして頼れる相棒、脳内人格であるマモルの声だった。