伝説のスーパー勇者様
ギガレッサーニャンコロベアー。
魔獣と呼ばれる、個体差はあるが体長二メートルを超え、岩をも砕く頑強な牙、裂かれれば数時間で死に至るほど強力な猛毒の爪、そして、目が合っただけで居竦んでしまう鋭い眼光を宿した、白いモコモコの毛皮に黒と赤褐色の斑点模様が特徴のモンスターだ。
基本的には四足歩行で行動するが、有事の際、威嚇行動として身体を大きく見せるため、二足歩行もある程度可能である。
縄張り意識が強く、同じモンスター同士でも争いの絶えない、非常に交戦的で、獰猛なタイプのモンスターだった。
また、ギガレッサーニャンコロベアーの幼少期は、丸い毛玉に短い手足が付属しているような、ヒマラヤンにも似た可愛らしさを伴っているものだから、庚の地でも、その人気は密かに高い。
しかしまあ、いくら人気の高い幼少期であっても、自身より一回り大きい岩を両手で軽々と持ち上げ、フリースローよろしくぶん投げる事が出来るというのだから、愛玩動物にはどうしてもなり得ないと言うのは、頷ける話であった。
そんなギガレッサーニャンコロベアーのボスとも言える、余裕で僕の二倍以上の体躯を持ち、鼻と目の間に一筋の刀傷を負った、厳つい臨戦態勢のモンスターが、僕たちの目の前に、今まさに立ち塞がっていた。
魔王城に続く道、魔界の最深部にまで到達していた僕たちは、これまでの戦闘経験から、この程度のモンスターでは、動じない。
「ふん、魔王との前哨戦には、丁度いい相手だな。行くぞ、宜!」
僕はスラリと、腰元に差した長剣、伝説の勇者が持つと言われる伝説の【最果ての剣】を抜き、身構える。勇者である僕の構えは、伝説的な天地一体の究極の構えであり、隙はおろか、そもそも相手には僕の存在自体を察知することが不可能な勢いであった。
「ハイ! 勇者様!」
僕の掛け声に反応して、宜も小剣の柄に手を添え、臨戦態勢に入る。
「ウゴアァオォォォ!!」
ギガレッサーニャンコロベアーの重低音の効いた咆哮が、大気を震わせる。
「風の精霊の名のもとに、我に疾風の如き疾さを与えよッ! 『疾風駆道』!」
宜の疾風属性魔法、自分に掛ける強化魔法の類で、一時的に目にも止まらぬ神速を付加することが出来る。
一足のもとに、ギガレッサーニャンコロベアーの懐に宜が飛び込み、一閃。居合の超神速抜剣術、抜剣の際に大地を蹴り、跳び上がりながら斬り抜き、宙を舞う。対空にも対応出来る宜の得意技『翔空烈斬』が、ギガレッサーニャンコロベアーにヒットし、ギガレッサーニャンコロベアーが仰け反る。
しかし。
流石に巨大魔獣、タフネスは相当に高く、宜の一閃に怯みこそすれ、傷は浅かった。
「グォォォォアァァッッ!」
ギガレッサーニャンコロベアーが仰け反り態勢から両腕を広げ、鋭い爪が太陽の光に反射し、光る。
そのまま両腕で獲物を捉え、爪で引き裂くギガレッサーニャンコロベアーの大技、『Gハング』が、跳び上がり、宙にいる無防備な宜に炸裂――する間際。
「良い攻撃だったぜ、宜! 次は僕の番だ!」
伝説の最果ての剣が、僕の闘志に呼応し、光り輝く。その光に気をとられ、ギガレッサーニャンコロベアーの攻撃が、わずかに遅れた。
「遅いっっ! うおおおぉぉぉっ!」
「グゴォォォガァァァ!」
伝説的な、空間を歪ませる程の他を寄せ付けない見事な剣撃が、ギガレッサーニャンコロベアーを斬り裂いた。
「グ……ガァァガ……グァム……」と、ひとしきり呻いた後に、何故か太平洋にあるマリアナ諸島南端の島の名前を呟いて、ギガレッサーニャンコロベアーは倒れ、生き絶えた。僕は生粋の日本人なので、グァムの事をグアムと発声するのだが、通ぶりたい人(正確な発音らしい)はガムという風に発声するらしいなぁ。と、どうでもいい事を考えたのだった。ちなみに、ギガレッサーニャンコロベアーの発声は、ガム寄りだった。通なのだろうか……?
ふわっと、宜が華麗に着地する。僕に指摘されて、髪を兜から出し、女戦士風の鎧にイメージチェンジしたから、もう宜が男に間違われる事はないと思う。
むしろ、めちゃくちゃ可愛かった。これで男に前違える奴がいたら、眼科を受診する事を勧める。
いやしかし、まったくけしからん格好だな。女戦士という格好は、こんなに扇情的だったとは。
実は知っていたけれど。
うん、実際に見るとやはり、グッとくるものがある。ホント、デザインした人は天才だと思う。そして、僕のリクエストに応えてくれた宜に、感謝の言葉を贈りたい。
とまあつまり、完全に僕の趣味だった。
「流石勇者様ですね! すごいカッコ良かったです!」
「ふ、僕の『伝説斬』に、斬れないものはないさ」
「ふふ、長かった旅も、もう、魔王を倒すだけですね」
「ああ、だけどこれで、やっとみんなが待ち望んだ平和が訪れるんだ。気を抜くなよ、宜」
魔王城の見える丘の上、暗雲立ち込め、落雷が鳴り止まぬ城を前にしても、僕たちに不安はない。
僕たちは、勝利を確信している。
「ハイ! あの、勇者様……」
「ん? どうした、宜?」
「その、魔王を倒して、平和が訪れたら、その時は――」
「…………」
少し潤んだ宜の瞳が、僕を見つめる。
ああ、宜から言わせるなんて、まったく僕はなんて気の利かない男なんだろうか。そうだな、ここはビシッと僕から言うべきなのだろう。
「そうだな、魔王を倒した暁には、宜、僕と――」
――なんて。
なぁんて。なんちゃって。
全部、僕の妄想だった。
注釈として、「このモノローグはフィクションの中のフィクションです。実在するフィクションの登場人物、魔法、必殺技、物語とは、一切関係ありません」と書かれるべき事柄であった。
実際の僕は、剣なんか握った事もないし、最果ての剣なんて、一体どういう剣なのか、そもそも存在しないというレベルで、嘘八百だ。
宜にしたって、そんなハレンチな格好はしていない。むしろ提案してみたものの、「そそそ、そんな恥ずかしい格好するくらいなら、自害します!」と完全に突っ撥ねられてしまった。自害するほど嫌なのかと、ショックのあまり、僕の妄想の中で活躍してもらったという訳だ。
しかしまあ、完全に僕の頭の中からポッと出てきたという事でも、実はない。
国立庚考古研究図書館。
なにやら漢字が並んで仰々しく思えるが、中身はただの図書館である。
そこで僕は今、「世界魔物名鑑」という図書を読んでいて、このギガレッサーニャンコロベアーのページから妄想を繰り広げていたという訳だった。
しかし、実際にこんな奴が僕の前に出たら、恐怖で失禁失神雨あられ――泡を吹いて蟹の様にひっくり返るであろう……頼むから、そんな展開にだけはならないでくれと、切に願う。
「きゃああっ!」
悲鳴と同時に、バサバサと分厚いハードカバーが、何冊も床に散らばる。僕の席から正面左、「世界の伝承」コーナーから本を選んで、持ってこようとした宜が、自分の左足に右足が躓いて転んだのだろう。
『不運体質の呪い』
前回、僕よりも以前に拉致――いや、召喚されてきた勇者の末裔である増田宜にかかっている呪いだ。この呪いの特徴は、本人が行動を起こした時、全てが裏目に出るというものだった。
つまり、本を持ってこようとした宜が転んでバラバラに散らかしたのは、この呪いのせいであると、言えなくもない。というより、もしこれが呪いのせいでなければ、凄まじいドジっ子、ドジっ子の中のドジっ子、ドジっ子の王、ドジキング。いや、王女ドジクイーンであろう。
何度も本を取りに行く度に転ぶ宜の姿は、第一印象からは考えられない醜態だった。宜のキャラクターが、どんどん崩れていく。
「うう、また左足に右足が躓いてしまいました……」
赤面して、僕の隣に座る宜。
「まあ、今日はあんまり人がいなくて良かったな。『赤い騎士団』の団長が、こんなに転んでいるところを見られたら、ファンが減っちまうぜ?」
宜は、魔王討伐軍のひとつ、『赤い騎士団』という軍団の団長を務めていた。こんなによく転ぶ奴が、よく団長なんて務まったなと思ったのだけれど、実はこの軍団、形だけで、まだ一回も出撃したことが無いという。
要は勇者、つまり、僕を召喚するまで魔王と戦う気はさらさらなく、勇者に奮起してもらうために作った、急拵えの軍団らしい。とはいえ、『青い騎士団』だけは、元々この国にあった軍隊をそのまま運用しているらしいのだが。
まあ、「運」だけで魔王を倒す勇者なら、別に素人の軍だろうが関係ないだろうと、そういう事情もあるのかもしれない。
しかし、勇者の御旗のもとに集いし軍団という名目もあって、その軍に所属している人物に、人気が出るのは自然な流れだったようだ。「ようこそ庚国」というパンフレットを行政が発行していて、その中に三つの軍団の団長が写真付きで紹介されていた。まったく、ファンタジー感が薄れるから、そういうのはやめた方が良いのではと、僕が老婆心を起こしてしまう。
「別に構いませんよ、だって私は、なりたくて団長になったわけではありませんから」
「そうか、不運体質のせいで、祭り上げられちゃったって、言ってたっけ」
「ええ、でも、こうして勇者様とお近付きになれた事は、とても幸運だったと思います」
不運体質とはいえ、幸運が訪れない訳ではない。結局、自分の無意識には、この呪いは反応しないみたいだった。
「うん。でも僕だって、宜に会えてなかったら、きっと今ごろ、大変な目に遭ってたんじゃないかな。それを思えば、僕だって幸運に恵まれたよ」
それは、僕の持っているパワーストーンによる強運だったのかもしれないけれど。
あの後。
僕と宜が、出会いをやり直した崖から、街へ帰る為に、下山していた時だ。
日も暮れ始め、僕は暗い山道を、宜に手を引いてもらいながら下りていた。いきなりこんなアウトドアな一日を送ったものだから、既に全身がピクピクと、筋肉痛になりかけている。なにやら、大変な事になったなぁと、今日あった出来事をうつらうつらと思い返していたら、ある事に気が付いた。
「なあ、宜……」
「なんですか? 勇者様」
「宜の先祖……僕の前に召喚された勇者の事なんだけれど。たしかさ、召喚された当時、六歳の子供だったんだよな?」
「はい、そう聞いています。あ、ここ、大きい石があるから、気を付けて下さいね」
ひょいと、石を避けて。
「……でもって、そのまま魔王を倒した。それならさ、普通、自分の世界に帰らないか? 六歳の子供だったら尚更、自分の両親に会いたいもんだろうに」
恋人が出来たから――とは、考えにくい。
なんで、帰らなかったのか。
「うーん、私はそこまで考えた事、なかったです。そうですよね、なんででしょう?」
「……僕、すっごい嫌な予感がするんだよな。もしかすると――いや、おそらく……」
気のせいであって欲しいけど。
でも、六歳の子供がこの世界に居続けたという事実は、きっとそういう事なのだろう。
「もしかして僕は、元の世界には帰れないのかもしれない――」
それが、魔王のかける呪いに関係があるのか、それ以外の理由なのかは、確かではないけれど。
それでも、勇者の末裔にかかっている不運体質の呪いを、勇者本人がかからないという事はないだろう。僕の持つパワーストーンが、魔王を倒した後まで強運を保っているのかも、歴史を見れば疑わしい。
各地にいるという、勇者の末裔達。それはつまり、この世界に居続けた、自分の世界に帰れなかった勇者が、数多くいたという証拠なのではないか。
「……勇者様、それならきっと、今なら勇者様の世界に帰れるかもしれません」
不意に、宜が言う。
「恐らく、勇者様の仰っていることは、真実です。それなら、今なら。魔王を倒していない今なら、帰れるという事じゃないですか?」
このパワーストーンの、強運で。
元の世界まで。
「……そう、なのかな」
「きっとそうです。もしそうなのだとしたら、勇者様に不幸を背負わせる訳にはいきません。私は、勇者様が不幸になるなんて、嫌です――だから、元老に相談してみましょう。今日はもう遅いので、明日の朝にでも」
僕は気持ちがはやってしまい、思いの外、早く下山出来たと思っていたのだが、結局僕たちが街へと戻ってこれたのは、どっぷりと日が沈んでからの事だった。
流石に夜遅くに元老に会うことは出来ず、とりあえず僕は手配されていた宿屋に泊まった。流石に、元の世界に帰れるのかが気になって、ゆっくりと休む事は出来なかったが。
翌朝、元老のいる官邸まで宜と共に出向き、そして、元老、極楽院浄蔵に、僕はことの真偽について、問い質す。
ジジイは、特に誤魔化すでもなく、白状した。
「そうですか――その事に、気付かれてしまいましたか」
「気付かれ……てことは、やっぱり騙していたのか? 僕を騙したのか!?」
「元老……! それはあまりにも酷すぎます……っ!」
ジジイは俯き、両手を上げて制止して、鼻で深く深呼吸した。
真っ直ぐな眼をして、ジジイは言う。この眼ばかりは、流石に元老といった感じで、迫力があった。
「勇者殿。先ずは謝らせていただきます。全てを伝えずに、勇者殿に負担を強いた事は、この極楽院浄蔵の落ち度であって、責任は全て、ワシが背負うべきものなのじゃ。どうかそれだけは、誤解して欲しくない」
「責任なんて、そんなことはどうでもいい、なあ、教えてくれ、僕は……帰れるのか?」
ジジイは、元々細い目を更に細くして、眉間に皺を寄せる。
……答えを言うのを、躊躇っている。
この焦らしは、僕を不安にするには充分だった。
「帰れない……のか!?」
もう一度、問いかける。
ジジイの額が汗で少し湿り、シワシワの肌が、部屋のライトの光に反射して、テカっていた。その光景は、なんだか脳みそを連想させて、気持ち悪かった。
次第に、僕の眉間にも、皺が寄っていく……。
そしてついに、ジジイが沈黙を破った。
「……最終回答?」
「……………………」
ぶっ殺すぞ。
言いかけて。
「元老! ふざけている場合ですか!」
僕が怒るより先に、宜がジジイを怒鳴りつけた。
普段温厚な性格なのに、怒る時は結構激しいようだ。そういえば、大人しいやつ程、怒った時が恐いと言うしな。
宜が怒っているおかげで、僕は一気に冷静になっていた。
「ほっほっ、すまぬ。つい緊張すると、ボケたくなるのでな」
年は取りたくないのぅ、とジジイは言うが、それはボケはボケでも、違うボケだっ!
おまけに、ボケたくてボケるわけでもない!
「そうだったのですか、すみません、怒鳴ったりして……」
「宜……!? ちょっ、真に受けるな、ジジイが付け上がるだけだぞ!」
「えっ、もしや、嘘なのですか?」
「嘘じゃないぞい」
このジジイ、しれっと……。
それを聞いた宜は、「ホラやっぱり」といった顔をしている。
宜、僕はお前がすごく心配だよ。
お年寄りに優しいのは、良い事だと思うけれど。
人の言うことを鵜呑みにしちゃいけないよ。
「――とにかく、答えるのはジジイ、お前だろーが!」
本題に戻る。
「勿体ぶるな、戻れるのか!? 頼むよ!」
「戻れますぞ」
「――え?」
サラッと、言われた。
「今なら、戻れる。やはり魔王を倒してしまうと、呪いの影響で、元の世界には繋がらなくなってしまうみたいじゃが」
戻れる。帰れる。
聞いた途端、安堵が押し寄せた。
宜を見ると、宜もホッとした表情をしていた。微笑みを、僕に向けてくれる。
「なんだよ、驚かせてさ。人が悪いぜ、ジジイ」
「ほっほっ、すまぬのう、まあワシらとしては、勇者殿がいなくなると困るのでな。意地悪しちゃったのじゃ」
「――そう、か」
僕が――つまり、このパワーストーンを使える勇者がいなくなったら、魔王を倒せる奴がいなくなるって、事か。
それは……。
「ほっほっ、気にしなさるな。勇者殿が帰られても、また違う勇者殿を召喚すれば、魔王を倒す事は出来ますのでな」
「また違う……だって?」
「ハイ。これまでも、呪いの存在に気付いて、帰ってしまう勇者殿はおりました。その度、新しい勇者殿を召喚して、魔王を倒してもらっていたのじゃ」
そうじゃなきゃこの世界が、魔王によって滅ぼされてしまうのだろう。
「――でも」
しかし、それでは結局、別の誰かが……。
「仕方のない事なのじゃよ」
ジジイは、静かにそう言った。
「勇者などと、聞こえの良い、耳障りの良い事を言って持て囃していても、ワシらだって分かっている――【生け贄】じゃとな。じゃが、誰かにその役目を負ってもらわんと、ワシらが滅びてしまうんじゃ」
要するに、誰か一人か、全員か。
滅びを避ける【生け贄】それが、この世界の勇者の役割だった。
「心が痛まん訳ではない。じゃから、先代の勇者殿から、ワシら極楽院家が、代々増田家の援助をしておる。勿論、勇者殿がこのまま魔王討伐を成していたら、極楽院家が一生、不自由はさせない覚悟じゃった」
宜が、不運体質でも優遇されていたのは、ジジイの力添えがあったからこそ、だったのだ。
そんな、裏があった。
「例え、勇者殿に恨まれようとも、この世界、いえ、正直に言ってしまえば、我が子、我が孫の未来の為。どうしようもなかったのじゃ」
そりゃ、そうだ。
もし、僕が逆の立場であったなら、例え騙してでも、祭り上げていただろう。どうしてこのジジイを、世界を責められようか。
「とはいえ、勇者殿にとって、元の世界に帰った方がいいのは、確実じゃ。ワシに止める権利などない。残念じゃがのう」
正直、僕は迷っていた。
この世界を知って。
綺麗な景色を見て。
宜に、出会って。
僕はただ、その場に立ち尽くす事しか、出来なかった。整理がつかない。
ジジイが言う通り、帰った方がいい。そんなの、考えるまでもなく、正論だった。当たり前だ。僕にメリットがない。しかも、勝手に連れて来られた世界に、未練なんてあるものか。
帰る。そうだ。僕にはまったく、関係のない世界なのだから。
不意に、右手に暖かく、柔らかい感触が伝わる。
宜が、僕の手を握っていた。
宜が、微笑っていた。
「帰りましょう、勇者様。私たちは、大丈夫です。きっと、魔王には屈しません。勇者様は、元の、戦いのない世界に帰るべきなんです」
「宜……」
未練なんて、あるわけがない。
この世界を知ったのは、つい昨日の事だ。
帰って一眠りでもしたら、夢を見ていたと、そう思うくらいだろう。
「元老、勇者様をお送りします。どうすればいいのか、教えて下さい」
初めて会った時の、凛々しい顔をした宜だった。まだ、出会いをやり直す前の、僕が少年だと思っていた時の。
「ま……待ってくれ、宜」
絞り出すように、僕は宜を引き止めた。
少し驚いた顔をして、宜が振り向く。
「待ってくれよ、まだ僕は、答えを出してない」
心臓が脈打つのが聞こえる。
こんな人生で大事なこと、一度たりとて、決断した事なんてない。
でも。
「僕が決める事だろう? へへ、勝手に連れて来られたのは確かだけれど、僕はもう、一枚噛んじゃってるんだ」
未練が――出来ていた。
きっと僕は、今更帰ったとしても、後悔するだろう。
夢だったなんて、思えない。
「僕は、帰らない――」
「勇者様……!?」
宜の手を、僕は両手で握りしめる。暖かくて、柔らかい、宜の小さな手。
「宜、僕は心配なんだよ、宜はきっと、これからも勇者が召喚されたところで、絶対に魔王討伐をさせられないだろう?」
――結末を、知ってしまったから。
宜の性格は、こんな短期間でも、よくわかったつもりだ。絶対に、人を陥れることなんて、出来やしなかった。
「それは……」
答えを聞くまでもない。そう、顔に書いてある。
「だから帰らない。帰らない――」
帰れるわけ、ない。
宜が、僕を見つめて、そして。
「……震えていますよ。迷っているなら、やっぱり帰るべきです。それに、帰らなかったら、魔王を倒しに行くんですか?」
呪われてでも――?
『不運体質の呪い』
魔王を倒すには、それにかかる覚悟が、絶対に必要だ。
どちらかしか選べない。この世界か、僕の世界か。
僕の幼馴染、嵐ちゃん。エガ夫、ジャイマン。……なにより、父と母。
行方不明の僕を、きっと心配している。
イレギュラーは、確実にこの世界なんだ。僕とは関係のない、この世界。
しかし、見捨てたくない、世界。
どうしたらいいのか、わからない。
選べない。
どちらだけ選ぶなんて、出来ない。
――ふと。
僕の頭の中で、電流が流れた様に、その瞬間、閃いた。
「――ひょっとしたら……呪いなら、ちゃんとした知識さえあれば、解けるんじゃないか?」
僕の世界でさえ、呪術、解呪の法があるくらいだ。真っ先に魔王に立ち向かわずに、ちゃんと準備してかかれば、或いは……この世界でなら。
「呪いを、解く……?」
「そんな事が、出来るのじゃろうか……」
確証はない。
今まで誰もそれに至っていないところをみれば、希望は薄いのだろう。
でも、かける事が出来る呪いなら、解く事だって、出来るはず。
この絶望の闇の中で、微かに光る、小さな希望。
でも、確かに希望だ。
「うん……僕はそれに賭ける。呪いを必ず解いて、僕はこの世界も、宜も、僕自身だって、救ってみせる!」
いつの間にか、震えは止まっていた。
宜の目が、少し涙ぐんでいる様に見えた。やっぱり、宜にしたって、不安で仕方なかったのであろう。俯いて、「ありがとうございます」と、小さく呟いたけれど、僕は何も聞こえなかった振りをして、ジジイに言う。
「そういう訳だ。魔王を倒すのは時間がかかる――いや、いつになるか分からないけど、文句無いよな?」
「ほっほっ、結果、倒して下さるなら、文句など誰が言えましょう。では、勇者殿は、まだ帰らないという事で、よろしいのですかな?」
「ああ、僕は、まだ帰らない。必ず魔王を倒して、全てを救ってやる」
勇者として召喚されて。
平凡な中学二年生の僕が、この世界に来て、初めて勇者らしいセリフを言った、瞬間であった。
そして、満面の笑みのジジイ。
待っていましたとばかりに、口を開く。
「最終回答……?」
正直、青臭かったからな。ボケたくて仕方なかったのだろう。
「まったく……ファイナルアンサーだよ! クソジジイ!」
こうして。
魔王討伐の前に、呪いやこの世界の伝承など、色々と調べて準備しなければならなくなった僕たちは、庚で一番古くて大きい、この国立庚考古研究図書館で、本を読み漁る日々を過ごしているのだった。
――とはいえ、ちゃんと読んでいるのは宜で、僕はこうやって、図鑑みたいな絵がメインの本しか、満足に見ていないのだが。
「もう、また勇者様はそんな図鑑を見てるんですか? ちゃんと、調べる気はあるのですか?」
「う、うん、あるにはあるよ? いや、でも僕は向こうの世界でも、ろくすっぽ、勉強とか出来なくてさ……文字を読んでると、寝ちゃうんだよね」
「はあ。勇者様、もう随分と時間を無為に過ごしてしまっています、もう少し……その、しっかりして欲しい……です。それか、もう新しい情報がないのでしたら、旅立つべきだと思いますよ!」
そうなのだ。
実は僕が妄想に耽っている間に、既に一週間が経過していた。
だから、最初は僕の体たらくを見ても、「疲れているのですね、大丈夫、ゆっくりでいいですよ」と、優しく声を掛けてくれていた宜も、次第に僕を叱責する様になってきたのだった。
「うーん、でも僕たち、今、旅に出ても戦えないからなぁ」
道中、モンスターに襲われでもしたら、大変だ。
僕はからっきしだし、宜は不運体質だし。妄想の様に上手くはいかないだろう。
魔王を討伐する訳でもなく、軍は動かせない。兵士に不和が生じるだろうし、なにより軍を長期間維持するのは、無理な話だった。だから、解呪の旅は、僕たち二人だけで行こうと決めていた。
その為に、目的地でもなんでも、とにかく情報が無いかと思っていたのだけれど……やはり、腕の立つ傭兵を付けてもらうしか、ないのかもしれないな。
僕個人としては、この学園ラブコメを彷彿とさせる、宜との図書館通いライフは、なんやかんやで楽しいから続けたいという気持ちも捨てきれないでいるのだが。
世界平和そっちのけであった。
そんな感じで、「世界魔物名鑑」を閉じ、もう一冊の本を手に取る。
手に取った瞬間、違和感がした。
「なんだ……!?」
ズッシリと、その薄さからは考えられない程の重量が、その本にはあった。
「……どうしたんですか?」
半ば呆れ気味に、宜が僕を見る。
おいおい、ラブコメみたいって言ったそばから、もう倦怠期!? 早いよ! 僕、置いてけぼりだよ!
「この本、なんだか、重いんだ。ほら」
宜に手渡す。
「たしかに、少し重いですね――って、なんなんですか? この本。なにか、得体の知れない文字で書かれてますけど……」
「え……?」
僕は、普通に読めるけど。
この世界の書物を僕が読めて、宜が読めないとは、おかしな話だった。
ちなみに、僕は金玉の翻訳機能のおかげで、この世界の誰とでも喋れるし、どんな書物でも読むことが出来る。
ということはつまり、この書物は、かなり古い文字で書かれているか、暗号の様になっているのだろう。
もし宜が読めないと言わなければ、僕はこの本に、注目することはなかったかもしれない。
「えっと、『勇者あげぽよ伝説』……らしいけれど、なんだこれ?」
恐ろしくダセェ勇者も居たもんだな。とはいえ、僕も人の事は言えないか。
「ゆ! 勇者あげぽよ!? 勇者様! 本当に、そう書いてあるんですか!?」
僕の椅子に片手をつく勢いで、宜が僕に近づいて、『勇者あげぽよ伝説』を覗き込んできた。僕の肩に、宜の髪が触れる。けれど、身体は決して触れるまでには至らない。しかしそれでも近く、宜の息遣いが僕の耳を刺激して、女の子特有の甘い香りが、僕の鼻を刺激する……。
これこれ。
僕はこれを、待っていた。
そうか、こうやってフラグを立てないと、発生しなかったのか。まったく、本当に無為な時間を過ごしてしまっていたな。
「勇者様……?」
「へ? あ、ああ、たしかに書いてあるぜ? なんだ、知ってるのか?」
「知らないんですか! 勇者あげぽよといえば、伝説のスーパー勇者様、勇者あげぽよですよ!!」
まったくもって、知らない……。
しかし、なんとなくではあるが、僕はこの『勇者あげぽよ伝説』が、結構重要なキーアイテムなのだろうと、そう思ったのだった。
なんたって。
伝説のスーパー勇者様、らしいからだ。