ゾンビ始めました
春休みのとある日、いつもなら客でいっぱいの飛龍飯店に客の姿は無かった。
「メグル。これ何?」
結は、今時珍しいピンクの公衆電話が据えられた電話台の傍に立ち、一枚の紙きれを手にしたまま厨房の中のメグルに声を掛ける。電話台には年季の入った黄色い電話帳が数冊積まれていて、その紙切れは電話帳を漁っているうちに結が見つけたものだ。
「暇だからって変なとこいじんなよ、結!」
暖簾のしまわれた店内で厨房に立つのは、この店の店主の息子であるメグルだ。激しい炎に熱せられた鉄製の中華鍋を振る姿は、なかなか様になっている。
「おー、米粒が踊ってる! いつ見ても職人技ですな、三代目!」
結が実におっさん臭い口調で褒める。
「……勝手に人を三代目呼ばわりすんな」
黒光りした重そうな中華鍋を手際よく煽っていたメグルが、結のひと言に途端に不機嫌な顔になる。百八十を越すガタイの上に乗っかる、目じりの切れ上がったくっきり二重のメグルの顔は、そこそこ整っている分、相手に圧迫感を感じさせる強面だ。
「まだおじさんと喧嘩中? どうせメグルもそのつもりなんだしさっさと店継ぐって言えば? それとも何、まだまともに作れるのは炒飯だけだから、気が早いって事かな~?」
不機嫌になった事で、一層強面ぶりに拍車がかかったメグルの顔にたじろぐことなく、結は言い放つ。結は少年のようなスレンダーな体型に、女にしては甘さの無いすっきりとした顔立ちの少女だ。伸ばしかけのゆるく癖の掛かった髪に結の女としての主張を感じるが、今の所あまりその主張は功を奏しているようには見えなかった。結は十七歳になった今でも時折男の子と間違われる事があった。
「お前、喧嘩売ってんのか」
鍋から皿へと炒飯を盛り付ける手は止めず、メグルは鋭い視線で怒りを表す。メグルをあまりよく知らない人物なら、その視線だけで土下座して謝ってしまいそうになる強面ぶりだが、こう見えて彼は実に人畜無害な人種だ。幼稚園に上がる前から幼馴染の結にとってみれば、気さくで友達思いのいい奴なのだ。
「事実を脚色なく言っただけだし。それに腹を立てるのは、図星の証拠」
舌を出す結にメグルは言葉を詰まらせる。
飛龍飯店の炒飯は絶品で、客が必ずと言っていい程注文する人気メニューだ。一人息子のメグルも炒飯の腕前だけでいうと、既に店に出すことを許されるレベルにあった。
「おじさんもメグルの腕を認めてるんだし。まああの、店を継がせる気満々のはりきりようはイタダケナイけどさ。メグルもへそ曲げてないで一度ちゃんと話し合えば?」
「……くそ、お前は親父のまわし者か」
「何か言った? それよりこれ見てみなよ」
二人分の炒飯が並べられたカウンターに、結は手にしていた紙切れを置く。鍋を流しで洗いながら、ちらりとメグルが視線を寄越す。
「……何だよソレ。新手の営業妨害か」
じろりと睨まれ、結はムッとした。
「誰が営業妨害するかボケ! 私がこんなガサツで不恰好な文字を書く訳ないだろ!」
バンッと結は紙を叩いた。電話帳と同じ大きさの白い紙には、太い黒のマジックペンで堂々と下手くそな字で『ゾンビ始めました』と書かれていた。
結の口の悪さには慣れっこのメグルは、気分を害した様子もなく厨房を出ると結の隣に立った。結の百六十八センチの身長は女子の中では決して低い方ではない。けれど頭一つ分程高いメグルの隣に立つと、結は随分小さく見えた。
「確かに結の字じゃないな」
「当然。私は毛筆書写検定準一級だっつの」
メグルはいきり立つ結の頭をぽふぽふと叩いてから、カウンターの紙切れをつまんだ。そしてガタガタする丸い回転イスに腰掛け、しげしげとその文面を眺める。
「しかもこの文面!」
結も隣の回転イスに腰掛け、目の前に置かれた炒飯をレンゲで口へ運んだ。
「『ゾンビ始めました』って一体何さ。中華料理屋仲間じゃそれで何かが通じるとか?」
「そんな訳ないだろ。中華屋でゾンビなんか出てくるか」
「メグルが知らないだけで、もしかしたら出るかもよ、ゾンビ」
結はからかい半分に紙切れをメグルの顔の前に突き出す。
「つか、いつもながら絶品だね炒飯だけは」
「俺の炒飯とゾンビを同列で語るな」
不機嫌に呟き、メグルも成長期の男子に相応しい勢いで皿の炒飯を平らげていく。その潔い食べっぷりにしばし見入っていた結だったが、不意に視線を店の入口にしまわれている暖簾に遣ったかと思うと、
「――何なら、試してみる?」
ニヤリと笑った。最後の一口を頬張ったまま、メグルはすぐ隣の結の顔を見る。
「試すって、一体何をだ」
「これを店の扉に貼ってみる」
「……アホか」
妙にキラキラした瞳で結が提案した言葉を、メグルは速攻却下した。
「アホかって何さ。そもそもこの妙な紙切れは、この店にあったんだからな」
「俺はそんな紙切れが店に貼られているのを見た事が無い。きっと誰かのイタズラだ」
「その割にはしっかり四隅にテープが残ってるけど? これって店に貼ってた証拠だろ」
確かに紙の四隅には黄ばんだセロハンテープが残っていた。しかも文字の書かれた表面ではなく裏面に。それはつまりこの紙切れが壁ではなく、外から文字の見えるガラスに貼られていたという証拠だ。そして今まさに飛龍飯店のガラス戸には、同じような貼紙が一枚貼られていた。
『本日臨時休業させていただきます。店主』
そう書かれた紙は、昨日虫垂炎で病院に担ぎ込まれた父に代わり、メグルが自ら書いてガラス戸に貼ったものだった。
「……俺じゃねーぞ。俺はゾンビなんか始めてないからな」
「わかってるよ。メグルでも、メグルのおじさんとおばさんの字でもないのは見ればわかる。ちなみにパートの美代さんでもない」
最後の一口を食べ、結が事もなげに言う。
この文字オタクめ。メグルは心の中で呟く。結は自他が認める文字オタクで、それが高じてちょっとした筆跡鑑定の真似事をするのだ。
「一体誰が、何の為にこの貼紙を貼ったのか。メグルは知りたいと思わない?」
「それは、まあ……」とメグルが口ごもる。
「だったら貼ってみようよ!」
けれど畳み掛けるような結の言葉に、メグルは待ったをかけた。
「駄目だ。貼紙を見てそれを本気にした客が来たらどうする。そんな奴が絶対まともな人間のはずがないだろ。危険だ」
「危険ってメグル……頭大丈夫か? 本気でこの貼紙を見て、客が来ると思う?」
「……来るかもしれないだろ」
苦し紛れの答えに、結がニヤリと笑った。
「――じゃあ賭けようよ。この貼紙を店の表に貼って、客が来るか来ないか」
しまった、そうメグルが思った時にはもう、結は楽しそうにセロハンテープを持ち出し、新たに紙の四隅に貼り始めていた。
かくして飛龍飯店のガラス戸に『ゾンビ始めました』の貼紙が貼られる事となった。
テレビがお昼のバラエティ番組を流し始める頃になっても、客は誰も来なかった。暖簾がしまわれ、ガラス戸に臨時休業の貼紙のされた店に訪れる客はそうそういない。ただ時折ガラス戸の端に貼られた妙な貼紙に興味を引かれ、足を止める通行人もいるにはいたが、店の中まで入ってこようとする者はなかった。
「結局客は来ない。手掛りもなし」
カウンターに頬杖をついたまま退屈しのぎにテレビを見ていた結がつまらなそうに呟く。
「妥当な結果だな」
のん気にメグルが大きく伸びをした。
その直後、店のガラス戸が不意にガラリと開き、二人は弾かれたように顔を上げて入口を見た。戸口にはカジュアルなカーキ色のショートトレンチをきっちりと着込み、黒いサングラスをかけた男が一人立っていた。その顔の半分は大きなマスクで隠れている。
怪しい。実に怪しすぎる。
しばらく二人と怪しげな男は、お互いを探りあうように視線を上下させていたが、そこはさすが中華屋の息子だ、メグルが立ち上がると最初に口を開いた。
「……らっしゃい。何にします」
悲しいかなついいつもの調子で注文をきいてしまったメグルの尻を、結は背後から蹴り上げた。若干前のめりになったものの、何とかメグルはその蹴りに耐え、横目で結を睨んだ。結は知らん顔でテレビに視線を戻した。
「――君達だけ?」
男の怪しむような声に結の背中がぴくりと揺れ、同時にメグルの目が警戒の色を帯びる。その目付きの鋭さといったら、リアルⅤシネマだ。けれど男は特に何を気にするでもなく、次の瞬間にはごく軽い口調で言った。
「……まあいいか。ゾンビをひとつ」
一瞬我が耳を疑った。今、この男は何と言ったか? しばしの沈黙の後、メグルの顔が奇妙に強張った。その顔が笑いを堪えている時のものだとわかった瞬間、今度は結が堪えきれず吹き出してしまった。
この馬鹿、とメグルが隣を見ると、肩を微かに震わせるようにして結が必死に笑いを堪えている。幸い店の入口に立つ男からは結の背中が見えるだけで、笑っている事には気付いていないようだった。
『ホラ、どんなゾンビがいいか聞いて!』
結が半笑いの顔をメグルに向け、口パクでそう伝えてくる。何で俺が、と思いつつもメグルは男に「ご希望は」と尋ねた。しばらく男は黙ってメグルと結の背中を見ていたが、不意にマスクの奥のくぐもった声が言った。
「君達初めて見る顔だけど、ゾンビ始めてどれ位?」
ぶはっ!と誤魔化しようがない程の大きさで結が再び吹き出した。メグルは大いに焦ったが、その直後男がマスクの奥で「ブアックショイ!」と盛大なくしゃみをしたお陰で、結の声は相殺されたようだった。
「いや、ここの主人は急病で、俺は臨時だ」
メグルが急いでそう言うと、「そうか」と男は鼻をすすりながら、納得したのかしていないのかあっさりと引き下がる。メグルが安堵の吐息を吐いた隣で、結は小さくゴメン、と手を合わせる仕草をした。
男はしばし考える素振りをした後言った。
「――ああ、君がゾンビ?」
メグルと結は思わず顔を見合わせる。
「彼が店主の臨時なら、君の方がゾンビだよね? 二人しか店にいないみたいだし」
さも当然といった顔でそう言われ、二人は返答に困る。そこまで具体的に何かを考えていた訳ではなかった。
「うーん、どうせなら女の子の方が良かったんだけど。この際男の子でも……」
「ちょ! おっさんどこ見て男とか言ってんの!」
堪らず結は回転イスを反転させると、男に食って掛かった。男は黙って結をしげしげと眺めた。サングラスの奥のその無遠慮な視線は、結が何だか気まずさを感じる程だ。
それと同時にそろそろ潮時だ、と結は思った。いくら何でも本当のゾンビなど出せるはずはない。いずれどこかでネタばらしをしなければいけないのだ。イタズラの終着点として、このタイミングはそう悪くないのではないか、結はそう思った。どうせ男だって本気でゾンビが出てくるとは思っていないだろうし、彼にとってもこれはただの悪ふざけに違いない、と。
結は無言で隣に立つメグルを見た。いっそメグルが「実はちょっとしたイタズラでした」とばらしてくれてもいいとすら思った。
けれどメグルは結の予想と期待を裏切る、とんでもない事を言った。
「一応性別は女ですよ」
「へ? 何言ってんのメグル?」
「どこもかしこも肉付きが悪くて貧相ですけどね」
その一言に結は思わず顔面めがけて拳を突き出したが、メグルは難なくそれを避けた。
「えっ。彼、女の子なの?」
「そうっすよ、こいつ女ですよ」
「いやおかしいだろ『彼』が女の子って!」
「ゴメン、オジサン男の子だとばっかり」「おっさんのクセして照れるな気持ち悪い! っていうか、見れば女だってわかるだろ!」
確かに今日のファッションは少しまずかった。ロゴ入りのTシャツにパーカーを引っ掛け、ボーイフレンドジーンズにごついブーツ。メンズライクなのは意識してのコーディネイトだが、それでも胸を見れば男か女かどうかくらい判別がつくだろう、と結はわざと胸を張ってみせ、左手の親指でそれを指し示した。
「悪いね。ささやかすぎて気付けなかった」
「うがああああっ!!」
「落ち着け結。彼は事実を脚色なく言っただけだ。それに腹を立てるのは図星の証拠だ」
いきり立つ結を羽交い絞めにしながら、メグルは何気に仕返しを果たす。
「うーん、ちょっとイメージは違うけど。まあいいか。ところでゾンビ君、君は紙飛行機を折るのは上手いかい?」
「はああっ!?それが何か関係あんの!?」
「……そういや結。お前小学生の頃、全校紙飛行機大会優勝してたよな」
「古ッ!!その情報何年前だ小学生って!」
しかもその時使っていた紙飛行機は、実は結ではなく結の母親が折った傑作だったのだ、とは今更言えなかった。
「よしっ決めた! この子でお願いする!」
男はマスクの下の鼻息も荒く懐から財布を取り出すと、数枚の一万円札を近くのテーブルに置く。結はギョッとしてそれを見た。
「ここまで気に入られたら黙って送り出すしかないな。よし結、買われるからにはご主人様の為にゾンビとして存分に働いて来い!」
「オイコラ待て!!勝手に決めるなーっ!」
結の男らしい抗議の声を無視し、メグルは「ちょっと契約書取って来るんで」と店の奥へと引っ込んだ。勿論冗談のつもりだったのだ。そこら辺の紙に『ドッキリでした。スンマセン!』とネタバラシするつもりだった。
けれどメグルが油性マジックで広告の裏に文字を書付け戻って来た時には、既に飛龍飯店の店内から男と結の姿は消えていた。
ぎぃ~~こ、ぎぃ~~こ、ぎぃ~~こ……
「……ねえ、何で君、あっちの新しい方の自転車を選ばなかったの」
自転車の荷台から男が声を掛ける。
「あれはメグルの自転車。サドルが高くて足がつかないから危ないの!」
結はギコギコとペダルを踏み込む度に耳障りな音をたてる、飛龍飯店所有の出前用自転車を力いっぱい漕ぐ。後ろの荷台にはマスクとサングラスで顔を隠した男が跨っていた。二人が乗った自転車が脇を通り抜ける度、通行人から向けられる視線が痛い。
「まあ足のつかない自転車は怖いよな。……っていうか君、僕をどこへ連れてく気?」
男の台詞に、結ははっとしてペダルを漕ぐ足を止めた。メグルの態度に余りにも腹が立った結は、思わず男の腕を引っ張って店を飛び出し、出前用の自転車の荷台に男を座らせると怒りのままに走り出したのだった。
「どこって。おっさんが私を買ったんだから、おっさんが決めればいいじゃん!」
結が怒鳴った直後、微妙な沈黙が落ちる。
「…はっ! へ、変な意味じゃないから!」
慌てて結は言い添えた。
「――ゴメン、オジサン女の子にしか興味ないんだ……って痛い痛い! 肘でぐりぐりすんのやめて!」
実に申し訳なさそうに謝った男を、結は怒りのままに肘で小突き回した。
「うう、君はなかなか凶暴なゾンビだな」
ずれてしまったサングラスを元の位置に直しながら、男は荷台から降りた。
「……ちょっと聞くけど、この辺で美味しいスイーツの店は?」
「スイーツ? この先に、行列のできるロールケーキを売ってる店があるけど……」
突然変わった話題に戸惑いながらも結が答える。結の母親がその店のロールケーキが好きで、よく行列に並んで買って来るのだ。
「ふむ。もひとつ聞くけど。その近くに美味いラーメン屋は?」
結は少しの間考えた。この辺りで美味しい中華といえば飛龍飯店だ。けれど今は臨時休業中だし、男もそれはわかっているだろう。
「確か……ケーキ屋の何軒か隣に、そこそこ美味いラーメン屋があったよ」
飛龍飯店程ではないものの、よく客の入っているラーメン専門店の名を結は口にした。
「じゃ、決まりだ」
男はそう言うと、懐の財布から五千円札とどこかの店のレシートを取り出した。「何か書く物ない?」と尋ねられ、結はポケットから小さなペンを取り出す。文字オタクであるからには、いつどんな素晴らしい文字に出会えるかわからない。結は常にその小さなペンを持ち歩いていた。
結がペンを渡すと男はレシートの裏に何かを書き付け、五千円札と共に差し出す。
「……何これ?」
レシートの裏に書かれたものに視線を走らせ、結は男を見た。
「僕のケータイの番号」
「何の為に」
「電話する為だけど」
「だから何の為におっさんのケータイに電話しなきゃなんないのかって聞いてんの!」
結がイラッとした声を出すと、男は実に楽しげに言った。
「それはこれから、君がこの先のケーキ屋でロールケーキを買って、ラーメン屋で僕の分の席を確保できたらそれを知らせる為」
「はぁあっ!?何で私が!」
「君、僕に買われただろう、ゾンビとして」
結は言葉が出なかった。確かに男はメグルの前で一万円札を数枚机の上に置いていた。あの時はカッと頭に血が上っていたせいで深く考えなかったが、今思えばあれは結というゾンビを買う為の代金だったのだ。
「知ってる? ゾンビは元々、タダでこき使う為に生み出された働く死体だって事。だからホラ、ゾンビは文句言わず働く!」
「えっ、ちょ、ちょっと!」
「僕はそこのパチンコ屋で時間潰してるから。席取れた時点で電話して」
慌てる結を尻目に男はさっさと道の向こう側にある派手な電子掲示板の掲げられたパチンコ店に入って行く。結は後を追おうとしたが、さすがに年齢的にマズイと思い諦めた。
「あーもう! 買えばいいんだろ買えば!」
結はやけになって喚くと、とりあえず行列のできるケーキ店へと向かったのだった。
「……ケーキ屋で一時間四十分、ラーメン屋の暖簾をくぐるまでに五十分! あのおっさん、絶対追加料金払わせてやるからな!」
結はようやくラーメン屋の暖簾をくぐり、席待ちの長椅子にどさっと腰を下ろした。お昼のピークは過ぎていたが店内は人で満員だ。店の外にもいつもよりも長い行列ができている。ケーキの箱を持ったままずっと立ちっぱなしだった足は疲れてだるかったし、長時間屋外にいた身体は思いの外冷えていた。
結はポケットからスマホとレシートを出すと、ふと何かを思い出したように少しの間その数字の羅列を眺めた。下手くそな字だ。それからそこに書かれた番号に電話を掛ける。長いコール音の後、男の声が聞こえ、結は一瞬自分が何と名乗るべきか悩んだ。
「――ゾンビだけど」自分でも馬鹿馬鹿しいと思ったが、そう名乗った。
『やあ。無事にケーキは買えたかい?』
無駄に大きい男の声の後ろで、ちんじゃらじゃらと騒々しい音が聞こえてくる。
「当たり前だっつの。ラーメン屋あと三人待ち。さっさと来ないと食い逃げするから!」
それだけ言うと結は通話を切る。切る直前に『えー、もうすぐかかりそうなのに……』と聞こえたが無視した。そしてスマホをしまおうとして、それがマナーモードになっている事に気付く。結は通常モードに戻すと、着信のチェックをした。
「うわ……、メグルからだ」
店を出てから二時間半の間に三十回着信があった。画面にズラッと並ぶ「メグル」の文字に、結は少しだけ胸のすく思いがした。
――とその直後、手の中のスマホが鳴った。画面には「メグル」の文字。結は一瞬迷ったが電話に出た。
『……結かっ!?』
耳に当てると同時にメグルの大声がキーンと響いた。
「声がでかい! 鼓膜破れるだろ!」
思わずそう怒鳴り返した結に、メグルが電話の向こうで安堵の溜息をついた気配がした。
『今どこにいる!』
心なしか、メグルの声が僅かに上ずっている気がして結は耳を澄ませた。呼吸が乱れている。走っているのかもしれない。
『あいつに何かされてないだろうな!?』
切羽詰まったような、怒ったようなメグルの声。ああそうか、メグルは突然店からいなくなった自分を心配しているんだ、と結はようやく気が付いた。もしかしたらメグルは結を捜し回っているのかもしれない。そう思うと結は腹の中に溜った怒りが、すっと解けだすような気がした。
「……されてない。大丈夫」
気付けばそう答えていた。
『本当だな? 今から迎えに行くから、場所教え……うわっ、なに……っ!』
突然メグルの声が途切れたかと思うと、電話の向こうで人が揉み合うような雑音がした。
「メグル!?」
呼び掛けた直後、通話が切れた。結の心臓がどくんどくんと大きく脈打つ。一体メグルに何があったのだろう。
「あーいたいた。間に合ってよかった」
その時、パチンコ屋から急いで駆け付けたらしい男が呑気な顔で目の前に立つのを、結は蒼白な顔で見上げた。
「ん? どうした、そんな真剣な顔して」
「――メグルが襲われた……」
結の声は微かに震えていた。
「もう? あの人こういう事だけ早いな」
男が呟くのを結は信じられない思いで見た。
「何だよ『もう』って。どういう事……?」
こわごわ問い掛ける結に、男はサングラスとマスクを外しながら言った。
「彼は僕の仲間に捕まったって事。言っとくけど、君もちゃんと僕の言う事きかないと、彼と同じ目に合うかもねぇ?」
素顔を晒し男がニヤリと笑った。予想外に見栄えのする男の顔は、結に恐怖を感じさせた。男に仲間がいるなど思いもよらなかった。結は唇を噛んで必死に頭を働かせる。メグルが男の仲間に捕まってしまった今、下手に男を刺激するのは危険だと思った。
「――私に、何をさせるつもり?」
結はごくりと唾を飲み込む。
「簡単な事だよ。君はただ、僕の言う事をきいていればいい。簡単な事だろう?」
まるで二時間ドラマの犯人のような顔で笑う。結は手の中のレシートを握りしめた。
空を無数の紙飛行機が飛んでいる。
「……これ、いつまでやるつもり?」
高台にある開けた公園広場の一角で、結はもういくつ折ったかもわからなくなった紙飛行機を、それでもまだ折り続けながら言った。
「んー? この紙飛行機に気付いて、あそこの病院から人が出てくるまで」
男はのんびりとした口調で、また一つ紙飛行機を飛ばした。
「……逆風なんだから無理だろそれ」
高台から見下ろした先には、道路を挟んだ向こう側に一際大きな病院が建っていた。男は病院に向けて、結の折った紙飛行機を飛ばし続けている。
「それにしても君の折る紙飛行機。さっきから全然まっすぐ飛ばないよ。何か変に空中回転したと思ったら墜落してばっかりで」
再びマスクとサングラスで顔を覆った男が、不満げな声を上げた。
「仕方ないだろ、あの時優勝した紙飛行機は、お母さんが折った最高傑作だったんだよ!」
「お母さん?」と男が一瞬手を止めて結を振り返る。結は慌てて口を押えた。
「はは、お母さんか!」
男は楽しげに笑った。どうして男が笑ったのか結にはわからなかったが、どうやら怒ってはいないらしいことはわかった。
「――昔とても好きな女がいてね。その人は無駄に紙飛行機を折るのが上手かった」
何故男がそんな話をするのかわからず、結は男から再び折り紙に視線を落とした。
「その人は僕の先輩の恋人だったんだ。愛し合う二人を見ているのが苦しくて苦しくて。ある日僕は先輩の親友にそれを打ち明けた。その人はすごく顔の怖い人だったけど、僕の事を弟のようにかわいがってくれて、すごく親身になって相談に乗ってくれたよ」
また一つ紙飛行機が病院へ向けて飛び立つ。
「まあ結局僕は見事にフラれ、二人の幸せそうな姿を泣く泣く見送ったんだけどね。ちなみに二人の披露宴の三次会は、その強面の先輩の実家の中華料理屋だったってオチつき」
病院側から吹きつける向かい風のせいで、紙飛行機は円を描いて下の道路へ落ちていく。
「……あれ、あんたの字だよね」
それを目で追い、結は手元の折り紙を一枚取ると、またひとつ新しい紙飛行を折った。
「驚いたよ。二十年ぶりに懐かしい店を訪ねてみれば、昔自分が書いた貼紙がその店に貼ってあるんだから。でもよくわかったね?」
「レシート裏の携帯番号と癖が同じだった」
結が素っ気なく答えると、男はそうかと笑い、結の折った紙飛行機をそっと飛ばした。紙飛行機は上昇気流に乗って、ふわりと舞い上がった。そしてそのまま道路の上空を飛び越し、病院の敷地へと吸い込まれていく。
「結!」
不意にメグルの声がして、結は首を巡らせて声の出所を捜した。少し離れた病院の駐車場に、車から降りるメグルの姿を見つけた結は、思わず広場の手すりから身を乗り出した。更に結は、今しがたメグルが降りた車が、どうにも馴染のある物だと気付き驚いた。駐車場に車を停め、運転席から降りてくる男の、熊のような風体には見覚えがあった。
「え!?お、お父さん何で!?」
結の父親がこちらに気付き、笑った。
「何ガキみたいな遊びしてんだ、この野郎。俺の娘誘拐しやがって」
「濡れ衣ですよ、先輩。誘拐されたのは僕の方です。このゾンビさんが誘拐犯ですよ」
やけに親しげに会話を交わす二人を、結は戸惑いながら見比べる。
「僕が電話した。君が行列に並んでる間にね。メグル君のお父さんの具合を聞く為に電話したんだ。急病だって言うし、店は休みだし。昔散々相談に乗ってもらって世話になったんだから、お見舞い位行かないとね」
男は笑って片方の目を瞑った。
「で、君のお父さんに飛龍飯店に寄ったって言ったら、『うちの娘が居ただろう』って言われて。冗談のつもりで、強面の彼とイチャイチャしてたって言ったら、どうやら本気にしたみたいだねえ。多分、さっき彼を襲った犯人は、君のお父さん」
結の視線の先で、メグルがこちらに向かって走り出すのが見えた。
「でもまさか君が先輩の娘さんだなんて、ちっとも気付かなかったよ」
男はそう言うと、結の父親に向けて大きく手を振った。
「――彼もいい奴なんだろうな。あの強面の彼。飛龍飯店の息子さんなんだろ? あの妙に迫力のある顔は父親似だね」
結は頷いた。ようやく結にも全ての繋がりが見え始めてきた。
「何であんな紙書いたのか聞いていい?」
「はは、あれは三次会での自虐的な余興だよ。好きな人をかっさらわれて当時の僕の心は死んだも同じで。これから先ずっと死んだ心を抱えて生きてくんだ、って気持ちを一言で表したつもり。死んだのに生きてかなきゃならない。生きる屍。それってゾンビだろ?」
「何それ? ……じゃあその妖しげなマスクとサングラスは?」
「ん? 単純明快、花粉症だから」
「アホくさ!」
「さて、じゃあゾンビ君。もう一仕事つきあってくれるかな? あの病院に虫垂炎で入院中の、恐い顔をしたおじさんのお見舞いに。手土産は君が買ってくれだだろう?」
結はベンチに置かれたケーキの箱を見た。それから自ら折った紙飛行機を、青空に向けて思いっきり飛ばした。紙飛行機は上昇気流に乗って、どこまでも高く昇っていった。