冬の夜
クリスマスがなんだっていうんだ。
隆之は心の中で吐き捨てる。
終業時刻の少し前から、そわそわと落ち着きをなくした周囲の空気は17:30を迎えた途端、一斉に動き始めた。
「お疲れ様です」の声と共にいそいそと出て行く同僚たちを見つめながら、隆之は伸ばした無精ひげを親指で擦る。ざりざりとするそれはあまり手触りのいいものではない。溜息をついて、隆之は再びパソコンのモニターへ視線を戻した。
来週に回しても指し触りのない仕事だが、そんなことはどうでもいい。
キーボードを機械的にパチパチと叩いている間に、幸福なオーラを放つ人々の姿は消え、社内は予定のない寂しい仕事人間のみが残っているばかりだ。
「水島さん、今晩予定ないんだったらご飯でもどうですか?」
時計の針が7の数字を回った頃、残っていた数名の顔見知りがそう誘いをかけてきた。中には同期入社の斉藤和江もいる。
「寂しい者同士でパーッとやりましょうよ」
和江が先月、恋人と別れたと言う話は噂で聞いていた。
直接、本人に聞くような間柄ではないが、同期というのはそれなりに繋がりがあり、知らなくていい余計な情報まで入ってくる。
例えば、彼女が現在隆之に少し興味を持っているらしいということも。
「悪いけど、今日は用事があるから」
「またまたそんな見え透いた嘘言って。用事があるなら、こんな時間まで残ってないでしょ」
「相手の仕事が終わるのを待ってるんだ」
キーボードを打つ手を止めて、軽く睨みつけると、和江は少し怯んだ様子を見せ、肩を竦めた。
「あっそ。それじゃ、私たちだけで行こ。 水島君って昔から付き合い悪いんだから」
和江はクルリと踵を返して、他の者を引き連れて出て行く。
隆之は「悪いな」と軽い謝罪を口にしながらも、これで彼女の興味の対象から外れただろう、とホッとしていた。
別に和江のことが気に入らないわけではない。
ただ、昔も今も、そして、きっとこれから先の未来も、自分が異性を好きになることはありえない。だから、下手な期待を持たせたくなかったのだ。
結局、22:00過ぎまで仕事をして、隆之は会社を後にした。
残業時には必ず寄る、24時間営業の弁当屋を目指して歩く。
夜の風は冷たく、纏っている厚手のコートでさえ切り刻んでしまいそうなほど鋭利に感じられる。身をちぢ込ませ歩くと、余計に孤独感が増した。
『……前みたいな関係に戻らないか?』
不意に体を叩きつけた突風が過去の記憶を蘇らせてくれる。
あの時、隆之が感じたのも、今全身に受けている風の鋭さに似ていた。
彼はとりわけ普通を装いながら隆之の答えを待っていて、隆之は彼の望む答えを口にした。
ただ一言『分かった』と。考えるよりも先に、そう答えていた。
自ら別れを切り出した癖に、彼はすんなりと別れを了解した隆之に少しだけ傷ついたような顔を見せた。
『お前のこと嫌いになったわけじゃないんだ』
言い訳めいた言葉に隆之は『分かってる』と頷いた。
彼はただ軌道を修正しただけだ。世間一般的に見て、間違っていると言われる恋愛に、これ以上、堕ちてしまわないように。なにもかもなかったことにして、ごく普通の、友人という関係に戻りたいのだと。彼の父親が倒れ、家業を継がなければならなくなったのもきっかけの一つだろう。
隆之は彼を責めなかった。
それは、こんな関係を続けても遅かれ早かれ別れが来ると予測していたからではない。一人よがりの気持ちを押し付けたところで、愛は成り立たないのだと分かっていたからだ。
愛しているの一言で突っ走れるような純粋な時代は、とっくの昔に過ぎ去っていた。
その日が彼との別離の日となった。1年前の話だ。
それから半年もしないうちに彼は結婚し、実家の家業を継ぐために九州へと去った。
今は携帯もパソコンのアドレスも知らない。知ろうとも思わない。ただ、今日みたいな日にふと思いだすだけだ。
クリスマスのイルミネーションに飾られた木々の狭間で、寒風吹き荒む中一人佇む隆之は、全ての事象から取り残されて唯、孤独だった。