光武帝のつぶやき
光武帝のつぶやき:静かなる残照
洛陽の風は、かつての戦場の砂塵をすっかり洗い流したかのように清々しかった。 宮殿の奥深く、光武帝・劉秀は、豪華な椅子に深く腰掛けるのを好まず、いつも庭に面した縁側に腰を下ろしていた。
「……また、この季節が来たか。」
目の前には、丹精込めて手入れされた菜園がある。皇帝が自ら土を弄るなど、本来はあってはならないことだ。しかし、彼はこれが一番落ち着くのだという。 劉秀は、かつて言った。「仕官するなら執金吾、妻をめとらば陰麗華」と。 その願いは半分叶い、半分はそれ以上の、望まぬ形へと膨れ上がってしまった。
第一章 成功の重み
「陛下、洛陽の商人たちが感謝の品を献上したいと申しております。」
側近の馬成が、うやうやしく報告する。 劉秀は土のついた手を払い、困ったように笑った。
「感謝か……。私はただ、彼らが普通に商売ができるようにしただけだ。品などいらぬよ。それを売って、また新しい荷を仕入れる資金にさせなさい。」 馬成は戸惑う。
「しかし、それでは陛下の威厳が……。他国の使節も見ております。」 劉秀は、静かに空を見上げた。
「威厳で腹は膨らまぬ。民が『皇帝が誰であるか』を忘れて暮らせる世こそ、最高の治世だと思わないか?」
馬成は、返す言葉がなかった。この皇帝は、いつだってそうだ。力を見せつけることよりも、力が不要な世界を作ることに心血を注いでいる。
第二章 失われた景色
夕暮れ時、劉秀は妻である陰麗華を伴って庭を歩いていた。 二人の間に流れる時間は、かつて新野の地で過ごした若き日のそれと、本質的には変わっていない。
「麗華、覚えているか。あの頃、私たちはただ、明日の天気を心配していればよかった。」 麗華は優しく微笑み、夫の手を握った。
「ええ。でも、今は陛下のおかげで、天下の人々が明日の天気を心配するだけで済むようになりましたわ。」 劉秀は苦笑した。
「……ああなってしまったな。私は、君と二人で小さな畑を耕して一生を終えるつもりだった。それが、いつの間にか、この広大な大地すべてを背負うことになってしまった。」
天下を取るということは、自分自身の「小さな幸せ」を、千万人の「小さな幸せ」のために差し出すことだった。 劉秀は、時折、鏡に映る自分の顔を見る。そこにあるのは覇者の顔ではない。ただ、少し疲れ、それでも責任を果たそうとする一人の男の顔だった。
第三章 無言の剣
ある日、若き近衛兵が訓練中に劉秀に尋ねた。 「陛下は、なぜあの大戦乱を勝ち抜けたのですか? どのような最強の陣形を敷かれたのですか?」
劉秀は、足元に落ちていた枯れ枝を拾い、地面にひとつの円を描いた。
「陣形などではない。私はただ、敵を『殺すべき者』ではなく、『いつか共に畑を耕す者』だと思って接しただけだ。」 兵士は首を傾げた。
「戦をすれば、人は死にます。それでも……。」 「ああ。だからこそ、私は戦を『最短』で終わらせることにこだわった。勝つためではなく、終わらせるために剣を振るう。それが、私の戦いだ。」
光武帝の戦いには、血生臭い復讐劇がない。降伏した敵を許し、功臣たちを粛清せず、ただ静かに役割を与えた。 「柔よく剛を制す」——その真髄は、相手を屈服させることではなく、争う理由を消し去ることにあったのだ。
第四章 夜の独白
深夜、書斎の明かりの下で、劉秀は古い地図を眺めていた。 戦火に焼かれた村々が、今は新しい緑に覆われている。報告書には、収穫量が増えたこと、子供たちが学校に通い始めたことが記されている。
「……ふう。これで、あいつらにも顔向けができるか。」
あいつら——共に戦い、散っていった仲間たち。そして、敵として戦い、倒れていった者たち。 劉秀は、決して彼らの名を忘れない。
「私は英雄になりたかったわけではない。ただ、この静けさを守りたかっただけなのだ。」
皇帝という座は、あまりにも高く、孤独だ。 どれほど徳を積もうと、かつてのように市場で気さくに声をかけ合う友はもういない。誰もが彼を「陛下」と呼び、地面に額をこすりつける。
「……寂しいものだな。」
その呟きは、ろうそくの火を揺らした。
終章 静かなる完成
朝、劉秀は再び庭に立っていた。 東の空から昇る太陽が、帝都を黄金色に染めていく。 城門からは、荷を積んだ馬車の音が、かつての軍靴の音よりも力強く響いてくる。
「陛下、出発の時間でございます。」
趙広が呼びに来る。今日は、新しく完成した運河の視察だ。 劉秀は、最後にもう一度だけ、庭の隅に咲く名もなき花を見つめた。
「……ああ、これでよい。」
自分の名は、歴史の陰に隠れてもいい。 派手な伝説など残らなくていい。 ただ、この国に生きる人々が、自分のつぶやきと同じように、「ああ、これでよい」と思って眠りにつけるのなら。
光武帝・劉秀は、静かに歩き出した。 その背中は、誰よりも大きく、そして誰よりも穏やかだった。
長安の朝は、今日も、思ったよりも静かだった。
番外編 光武帝のつぶやき:友らと酌み交わす風
洛陽の喧騒を離れ、劉秀はわずかな供回りだけを連れて、なだらかな丘を登っていた。 そこには、かつて「雲台二十八将」と呼ばれ、共に戦場を駆け抜けた仲間たちの幾人かが眠っている。 皇帝の参拝という物々しさを嫌い、彼はあえて使い古した上着を羽織り、手に酒瓶と二つの素焼きの杯を提げていた。
遠き日の砂塵
劉秀は、一際手入れの行き届いた墓碑の前で足を止めた。 「……また来たぞ、馮異。」 「大樹将軍」と慕われた、寡黙で誠実な将の顔が脳裏をよぎる。手柄を誇らず、常に大樹の陰に退いていた彼らしい静かな墓所だ。 劉秀は地面に腰を下ろし、一つを墓前に、もう一つを自分の前に置いた。 「お前が死んだとき、私は自分の片腕をもがれた心地がした。だが、今ならわかる。お前は私に、休み方を教えようとして先に逝ったのではないかとな。」 酒を注ぐと、澄んだ音が静寂に溶けていった。
癒えぬ傷跡
風が吹き抜け、劉秀の白髪を揺らす。 彼は独り言のように続けた。 「覚えているか。昆陽の戦いの前夜、震える私に、お前は『天下の主となるお方は、そんな顔をなさらない』と笑ったな。あの時、私は本当は逃げ出したかったのだ。ただ、お前たちの期待に応えたくて、無理に背筋を伸ばしていただけなのだよ。」 皇帝という重責を担ってから、誰にも言えなかった本音。 墓前にいる時だけ、劉秀は「光武帝」という仮面を脱ぎ、ただの「劉秀」に戻ることができた。 「今では誰もが私を称える。だが、私は知っている。あの勝利は私の力ではない。お前たちが、死ぬ気で私という男を『皇帝』に仕立て上げてくれたのだということを。」
供養の形
劉秀は酒を一口含み、空を見上げた。 「先日、かつての敵将の息子を、小さな郡の役人に登用した。馬成は『甘すぎる』と反対したがね。だが、お前なら笑って許してくれるだろう? 憎しみで終わらせれば、また新しい戦火が生まれるだけだ。」 彼は墓石の周りに生えた小さな雑草を、慣れた手つきで一本ずつ抜いていく。 「私は、お前たちが守ってくれたこの国を、誰もが笑って土を弄れる国にしたい。それが、生き残ってしまった私の、唯一の弔いだ。」
残照の中の約束
日が傾き、丘全体が柔らかな茜色に包まれていく。 劉秀は立ち上がり、服についた土を払った。 「さて……。麗華が、夕餉に私の好きな野菜の羹を作って待っていると言っていた。そろそろ戻らねばな。」 彼は最後にもう一度、友の墓を愛おしそうに眺めた。 「次にここへ来る時は、もう少し良い知らせを持ってこよう。例えば……そうだな。国中の武器を溶かして、農具に変え終わったという知らせなど、どうだ?」
帰り道、彼の足取りは、来る時よりもいくぶん軽やかだった。 背後で揺れる木々の葉音は、まるで亡き戦友たちが「それでよいのです、陛下」と囁き、笑い合っているかのように響いていた。 洛陽へ向かう道すがら、劉秀は小さく鼻歌を歌った。 それはかつて、新野の田畑で、何も持たなかった若き日の彼らが口ずさんでいた、ささやかな労働の歌であった。
外伝 光武帝のつぶやき:古びた衣と妻の微笑
洛陽の宮殿、その一角にある私室には、皇帝の居所らしからぬ香りが漂っていた。 高価な沈香や白檀ではない。それは、天日に干された麻の匂いと、どこか懐かしい、煮炊きする野菜の匂いだった。
劉秀は、豪華な刺繍が施された重い礼服を乱暴に脱ぎ捨て、隅に置かれていた、端が少しほつれた薄汚れさえ見える「粗衣」に袖を通した。 「……ふう。これでようやく、呼吸ができる。」 彼が好んで着るのは、かつて一兵卒として、あるいは一介の農夫として過ごしていた頃とさして変わらぬ、染めの薄い地味な衣だった。
「陛下、またそのような恰好をなされて。女官たちが目を丸くしておりますよ。」 部屋に入ってきた陰麗華が、困ったような、それでいてすべてを見透かしたような柔らかな声で言った。 彼女の手には、湯気の立つ羹が握られている。
「麗華か。いいじゃないか、ここは私の家だ。家でまで、あの重苦しい『皇帝』を着ていたくはない。」 劉秀は縁側にどっかと座り込み、慣れた手つきで粗衣の帯を締め直した。 「だいたい、あの礼服の冠から垂れ下がっている玉は何だ。歩くたびにカチカチと鳴って、まるで見世物になった気分だ。視界も悪いし、肩は凝るし……。あんなものを常用して喜ぶのは、自分を神だと勘違いしている奴だけだ。」
麗華は、夫の隣に静かに腰を下ろした。 「家臣たちは、陛下のそのお姿を『民の飢えを我が身のことと案じ、質素を旨とされる聖天子の鑑』だと、涙を流して称賛しておりましたわ。今日も広間では、『陛下が飾らぬのは、民への慈愛の証左である』と。」
劉秀はそれを聞くと、露骨に嫌そうな顔をして、少し顔を赤らめた。 「……やめてくれ。馬成たちが外でそう言いふらしているのは知っているが、聞いているこちらが恥ずかしくなる。慈愛だの鑑だの、そんな大層なものじゃない。」
彼は、自分の膝に置いた、節くれ立った大きな手を見つめた。 「本当はな、ただ……落ち着かないだけなんだ。民が飢えて、満足な衣も着られずに土を掘っているという報告を毎日受けている。そんな時に、私だけが金糸銀糸を纏って、鏡の前でうっとりできると思うか? 照れくさくて、顔から火が出る思いだ。あんな光るものを着て民の前に出るのは、まるで泥棒が盗んだ宝を自慢しているようで、居心地が悪くて仕方がない。」
劉秀の言葉は、世間が言うような「演出された美徳」ではなかった。 それは、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも不器用な、一人の男としての「気恥ずかしさ」だった。 英雄として祭り上げられることへの、根源的な拒絶反応と言ってもよかった。
「陛下は、昔からそうでいらっしゃいましたね。新野の頃も、良い絹を贈っても『似合わない』と仰って、結局、小作の人たちに分けてしまわれて。」 「私には、これくらいの粗末な布が一番肌に合う。汗を吸うし、風も通す。何より、これを着ていれば、いつでも畑に飛び出していけるだろう?」
劉秀は、麗華が持ってきた羹を一口啜り、ふうと息をついた。 「……麗華。正直に言えば、疲れるよ。皆が私を『神』のように仰ぎ、一言一句を天の啓示のように記録する。私はただの劉秀だ。お前と笑い、喧嘩をし、明日の天気を心配していた、あの頃の男のままだ。なのに、この場所(玉座)に座っているだけで、私は私でなくなっていくような気がする。」
夜の静寂の中で、皇帝の弱音が漏れる。 それは、天下で唯一、この女性にだけ許された「愚痴」だった。
「だからこそ、その古びた衣が必要なのですわね。」 麗華は夫の肩にそっと頭を寄せた。 「その粗衣は、陛下が陛下であることを繋ぎ止める、命綱のようなもの。皆が何と言おうと、私はその『少し照れ屋な農夫』の陛下が一番好きですわ。」
劉秀は苦笑し、彼女の手を握り返した。 「……お前には敵わないな。だが、明日の朝議だけは、またあの重い礼服を着なければならないんだろう? 考えただけで、また肩が凝りそうだ。」
「ええ。ですが、その下にはこの麻の衣を着ておけばよろしいではありませんか。誰にも見えない、陛下だけの『本当の姿』を隠して。」
「それはいい。皮肉なものだな。皇帝の豪華な礼服は、実はただの着ぐるみに過ぎないというわけだ。」
劉秀は声を立てて笑った。 外では、近衛兵たちが厳重な警戒を続けている。天下の主を、一抹の隙もなく守るために。 しかし、その厳重な鎧の内側には、粗末な布を纏い、妻の作る温かい汁物に安らぎを感じる、一人の不器用な男がいた。
洛陽の夜は更けていく。 「演出」を嫌い、「照れ」を質素という名で包み隠した皇帝は、その夜、誰よりも深く、穏やかな眠りについた。
続・光武帝のつぶやき:沈黙を恐れる男
その日の朝議は、重苦しい沈黙で幕を閉じた。 原因は、地方から中央へ配属されたばかりの若い官吏が、劉秀の進める治水事業に対し、「予算の無駄であり、民をいたずらに労役に駆り出している」と、真っ向から批判したことだった。
側近たちは色を失い、広間は氷ついた。皇帝の英断に異を唱えることは、死に直結してもおかしくない時代である。だが、劉秀はただ「検討しよう」とだけ言い、その場を収めたのだった。
孤独な戦い
夜、劉秀は例によって豪華な礼服を脱ぎ捨て、着古した麻の衣に身を包んでいた。 「……全く、あやつは。私の顔があと少し怖かったら、腰を抜かしていただろうに。」 縁側に座り、自分で自分の肩を叩きながら、劉秀は隣で茶を淹れる陰麗華に愚痴をこぼした。
「陛下、あのような無礼、放っておいては示しがつきませぬ、と馬成様たちが息巻いておられましたよ。」 麗華が苦笑しながら茶を差し出す。劉秀はそれを一気に飲み干すと、ふてぶてしく畳に転がった。
「馬成たちも困ったものだ。私が怒っていないのに、周りが怒ってどうする。……麗華、私はな、あの大声で怒鳴り散らしていた若造を見て、少し安心したのだよ。」
恐怖が作る「壁」
劉秀は天井を見上げ、独白を続ける。 「一番恐ろしいのはな、誰も何も言わなくなることだ。私が右と言えば皆が右を向き、私が間違った穴に落ちようとしていても、誰も服の裾を引いてくれない。そんな国は、一晩で滅びる。」
彼はかつて、数多の野心家たちが「自分を神格化」し、周囲をイエスマンで固めた結果、足元から崩れ去っていく様を嫌というほど見てきた。
「皇帝という座は、座っているだけで耳を塞がれる呪いのようなものだ。皆、私の機嫌を損ねて首を飛ばされるのを恐れている。だからこそ、ああやって空気を読まずに、自分の信じる正論をぶつけてくる『馬鹿者』は、宝なのだよ。」
照れ隠しの寛容
「でも陛下。あの方は少し、言葉が過ぎましたわ。『陛下の机上の空論だ』とまで仰ったとか。」 麗華が少しいたずらっぽく指摘すると、劉秀は「うっ」と呻き、バツが悪そうに顔を背けた。
「……それは、まあ、正直に言えば少し傷ついたさ。私も人間だ、必死に考えた計画を『無駄』と言われれば腹も立つ。だがな、そこで私が怒れば、二度とあのような若者は現れない。私の周りには、綺麗な言葉を並べる人形だけが残るだろう。……そんな寂しい余生は御免だ。」
劉秀は起き上がり、また少し照れ臭そうに鼻を擦った。 「あいつは、言うべきことを言った。たとえそれが私の間違いでなかったとしても、『反対の意見がある』という事実を私に突きつけた。それでよいのだ。……まあ、あいつの言い方がもう少し可愛げがあれば、私の胃も痛まなくて済んだのだがな。」
最高の贅沢
「結局、陛下はあの方を処罰なさらないのですね?」 「処罰? まさか。明日、あやつを私の執務室に呼べ。……ああ、叱るんじゃないぞ。あやつが言っていた現地の状況を、もっと詳しく聞き出すためだ。直接話せば、あやつも少しは私の苦労を理解して、言葉を選べるようになるだろう。」
劉秀はそう言って、再び横になった。 「民が皇帝に物申せる世の中。それは、皇帝が一番『人間』でいられる世の中だということだ。……麗華、これこそが最高の贅沢だと思わないか?」
「ええ。ですが、明日お呼びになる時は、せめてその粗衣ではなく、もう少し皇帝らしい格好で威厳を見せて差し上げてくださいませ。相手が緊張しすぎて、また失言してしまいますわ。」
「断る。あの若造には、私がただの、少し疲れたおじさんであることを教えてやるのだ。その方が、面白い話が聞けそうだろう?」
暗がりのなか、劉秀の小さな笑い声が響く。 長安の夜風は、今日も、彼の着古した衣を優しく揺らしていた。
続・光武帝のつぶやき:失敗のあとの静寂
その日の夜、劉秀は私室に戻るなり、冠を投げ出すようにして机に置いた。 「……疲れた。今日は、あの大広間のピリピリした空気を抜くのに、半日かかったよ。」 いつものように麻の粗衣に着替えながら、彼は大きく溜息をついた。
ことの始まりは、北方の前線からの伝令が三日も遅れたこと、そしてそれに重なるようにして、後方からの兵糧の補給先が間違って隣の郡に届いてしまったという、二重の失態だった。 報告を受けた官吏たちは、平伏して震えていた。前王朝や群雄たちの時代なら、首が飛んでもおかしくない不手際である。
震える背中を見て
「陛下、馬成様たちが驚いておられましたよ。あのような重大な手違いに対し、陛下が『ほう、それで次はどうするのだ?』と、茶でも飲むような顔で仰ったと。」 麗華が、少し心配そうに夫の顔を覗き込む。
劉秀は、縁側の柱にもたれかかって苦笑した。 「……あいつら、私が怒鳴るのを待っていたんだな。だがな、麗華。あそこで私が『馬鹿者!』と一喝して、誰かの首をはねたとしよう。それで兵糧が魔法のように目的地へ移動するのか? 遅れた伝令が過去に戻って、三日前に着くのか?」
彼は、自分の大きく節くれ立った手を見つめた。 「答えは否だ。私が怒れば怒るほど、彼らは『次はどうすればミスを防げるか』を考えるのをやめて、『次はどうすれば陛下にバレずに済むか』を考え始める。……それが、一番怖いのだ。」
恐怖という名の毒
劉秀は、かつて戦場で見た光景を思い出していた。 恐怖で支配された軍隊は、一見すると規律正しいが、一度綻びが出れば脆い。兵たちは処罰を恐れて不利な情報を隠し、将は面子を守るために嘘の報告を上げる。その「小さな嘘」の積み重ねが、やがて万の兵を死に追いやる。
「恐怖で人を動かすのは、一番安上がりで、一番質の悪いやり方だ。恐怖は、人の思考を止めてしまう毒なんだよ。私は、毒で満ちた国を治めたくはない。」
「ですから、あの方々に『再発防止の策を三日以内に持て』とだけ仰ったのですね。」
「ああ。叱る時間があるなら、知恵を絞る時間に使わせた方がいい。……だがな、麗華。正直に言えば、私も内心は『何をやっているんだ!』と叫びたかったんだぞ。補給の手違いのせいで、前線の兵たちが一晩ひもじい思いをしたかと思うと、胸が締め付けられるようだった。」
皇帝の忍耐、男の愚痴
劉秀は、麗華が差し出した白湯を啜り、少し顔を赤らめた。 「……あそこで黙っているのは、実はかなりの重労働なんだ。怒鳴ってしまった方が、どれだけ楽か。怒りは外に放り出せば消えるが、こらえると腹の中に溜まる。見てくれ、この粗衣の下で、私の腹は煮えくり返っていたんだ。」
麗華は、夫の背中を優しく撫でた。 「陛下がその怒りを飲み込んでくださるから、この国の人々は安心して息ができるのです。陛下が『怖くない皇帝』でいてくださることが、どれほど尊いことか。」
「……ふん。おかげで私は、家臣たちから『仏の劉秀』なんて呼ばれて、また変な神話を作られ始めている。本当は、ただ胃を痛めながら我慢しているだけの、気の小さい男だというのに。お前にこうして愚痴をこぼさなければ、今頃私は、宮殿の柱でも齧っていただろうな。」
劉秀はそう言って、ようやく肩の力を抜いた。 「明日の朝、あいつらがどんな解決策を持ってくるか楽しみだ。もし、ろくでもない策だったら……その時は、少しだけ、本当に少しだけ、大きな声を出してもいいかな?」
「ええ、その時は、私が後ろから袖を引いて差し上げますわ。」
二人の穏やかな笑い声が、夜の帳に溶けていく。 「恐怖政治」を、自らの「忍耐」と「照れ」で未然に防ぎ続ける皇帝。 その背中は、どんな豪華な鎧よりも、古びた麻の衣がよく似合っていた。
続・光武帝のつぶやき:黄金の粟飯と贅沢の苦み
その日の夕餉も、皇帝の食卓としてはあまりに寂しいものだった。 並んでいるのは、よく炊かれた粟飯、季節の野菜を茹でて塩を振ったもの、それにわずかな漬物と薄い汁物だけである。
劉秀は、その粟飯を美味そうに口に運び、満足げに喉を鳴らした。 「……やはり、これだ。これが一番胃に落ち着く。」
「陛下。また厨房に命じて、献立を減らさせましたね?」 向かい側に座る陰麗華が、ため息をつきながら自分の膳から一切れの肉を劉秀の器に移した。
習慣という名の絆
「減らしたのではない。本来の姿に戻しただけだ。」 劉秀は、麗華から贈られた肉を大事そうに噛み締めながら答えた。 「天下を平定したとはいえ、辺境では今も兵たちが野宿をし、これと同じ、あるいはこれ以下の食事で国を守っている。私だけが、出所もわからぬ贅沢な山海の珍味を食らってみろ。舌が肥えて、民の飢えを感じ取れなくなってしまう。」
これは、民に見せるための芝居ではない。 戦場を駆け抜け、泥水を啜り、仲間と一つの鍋を囲んできた劉秀にとって、贅沢な食事は「不自然なもの」として体に馴染まなくなっていたのだ。
麗華の優しい抵抗
「そのお心掛けは立派ですが……。」 麗華は、夫の痩せた頬を心配そうに見つめた。 「陛下はもう、戦場を駆ける若者ではありません。この広大な大地を差配するには、相応の『精』が必要なのです。少しは脂の乗った魚や、滋味深い肉を召し上がらなければ、お体が持ちませんわ。」
彼女は、厨房に密かに作らせておいた、鶏の出汁でじっくり煮込んだ羹を差し出した。 「これは私のわがままです。陛下に、一日でも長く健やかでいてほしいという、妻としての欲なのです。さあ、召し上がってください。」
皇帝の本音と「口に合わない」愚痴
劉秀は、麗華の真っ直ぐな瞳に根負けし、渋々といった様子でその豪華な羹を口にした。 ひと口、ふた口と運び、ふぅと息をつく。
「……麗華。お前の気持ちは嬉しい。だがな、正直に言わせてくれ。」 劉秀は、箸を置いて少し顔を顰めた。 「この『贅沢な味』というやつは、どうにも私の口に合わんのだよ。舌の上で脂が踊り、香辛料が鼻を突く。食えば食うほど、自分がどこか遠くの、知らない人間になっていくような気がするんだ。」
「まあ。私の精一杯の心尽くしが、お口に合いませんか?」
「味の良し悪しを言っているのではない。」 劉秀は困ったように頭を掻いた。 「なんというか……気恥ずかしいのだ。豪華な皿を並べられると、自分が特別な人間だと勘違いさせられているようで、居心地が悪い。それなら、この少しパサついた粟飯を、よく噛んで味わっている方がずっといい。土の味がして、自分がまだ、あの新野の野に立っている人間だと実感できるからな。」
彼は、麗華にだけ聞こえるような小さな声で、さらに愚痴を続けた。 「厨房の奴らも、良かれと思って凝った料理を出すが、私に言わせれば、野菜は焼くだけ、肉は煮るだけで十分だ。素材を殺してまで飾り立てるのが『宮廷料理』なら、私は一生、田舎者で構わない。」
結び
麗華は、夫の不器用すぎるこだわりを聞き、ついに吹き出した。 「わかりました。では、明日は『精のつく、土の味がする料理』を厨房に研究させましょう。陛下が、照れずに召し上がれるように。」
「ああ、頼む。……だが、今日だけは、このお前の羹も最後までいただこう。せっかくの『精』を無駄にしたら、またお前に説教されてしまうからな。」
劉秀は、豪華な羹を、まるでお薬でも飲むかのような真面目な顔で飲み干した。 贅沢を拒み、泥臭い「日常」を愛し続ける皇帝。 その偏屈なまでの質素さは、彼がかつての戦友や、今を生きる民と同じ地平に立ち続けようとする、彼なりの祈りでもあった。
洛陽の夜、皇帝の食卓は今夜も驚くほど静かで、そしてどこか温かかった。
続・光武帝のつぶやき:名前という名の鎖
その日の夕暮れ、地方の厩舎を視察して戻った劉秀は、いつになくぐったりとした様子で縁側に腰を下ろした。 「……ああ、肩が凝る。今日は一日中、驚いた顔ばかり見ていた気がするよ。」
麗華が冷やした手拭いを持ってくると、劉秀はそれを顔に乗せて、長いため息をついた。 「陛下、また何かなさいましたね? 随行した官吏たちが、移動の最中ずっと信じられないものを見たという顔で、ひそひそと話しておりましたよ。」
偶然の再会
劉秀は手拭いをずらし、片目だけで麗華を見た。 「……別に大したことじゃない。ただ、厩舎の隅で馬の足を洗っていた男に見覚えがあってな。『おお、趙じゃないか。また太ったな、息災か』と声をかけただけだ。そうしたら、その趙という男は腰を抜かして泣き出すし、周りの官吏たちは幽霊でも見たような顔で固まってしまった。……心外だよ、私はただ、知っている顔を見つけたから挨拶をしただけなのに。」
「趙、とお呼びになったのですか。……もしや、十年前の河北の戦の折、陛下の馬を引いていたあの御方?」
「そうだ。あの雪の中、私の馬が足を滑らせないよう、一晩中寝ずに蹄の泥を落としてくれていた男だ。あの時の必死な顔を忘れるはずがないだろう。……だが、それを口にした途端、周りの空気が変わった。『陛下は一介の馬飼いの名まで記憶しておられる、なんと恐るべき慈愛、なんと深い観察眼か』とな。……勘弁してくれ、ただ記憶力がいいだけなんだよ、私は。」
最高の「忠誠」の対価
劉秀は起き上がり、また少し照れくさそうに頭を掻いた。 「麗華、お前も知っているだろう。私は、一度見た顔や聞いた名前を忘れるのが苦手なんだ。それは特技でもなんでもない、ただの性質だ。なのに、それを皇帝がやると、途端に『至高の演出』だと思われてしまう。」
「ですが陛下。その趙様は、おそらく一生、陛下の恩を忘れないでしょう。そしてそれを見た他の者たちも、『陛下は自分たちのことを見ていてくださる』と、死に物狂いで働くようになりますわ。」
劉秀は、苦り切ったような顔で愚痴をこぼした。 「それが怖いのだよ。名もなき下役の名を呼ぶだけで、彼らは私のために命を捨てようとする。たった一度、名を呼んだだけで、最強の軍隊が出来上がってしまう。……こんなに『安上がり』で『効率の良い』人心掌握が他にあるか? 私はただ、旧友に会ったような心地で声をかけただけなのに、結果として彼らを重い忠誠の鎖で縛り付けてしまったような気がして、申し訳なくなるんだ。」
策略家に見られる悲哀
「陛下は、ご自分が無意識に『最強の皇帝』を演じていることに、無自覚すぎますわ。」
「演出なものか! 本心だよ。」 劉秀は、麗華にだけ聞こえるような声で、ボソリと付け加えた。 「……本当はな、趙に声をかけたのは、あの大層な理屈を並べる地方官たちの話を聞くのが退屈だったからだ。知っている顔を見つけて、逃げ出したかっただけなんだよ。なのに、それが『下々の者まで慈しむ聖天子の振る舞い』として記録されてしまう。……これじゃあ、うかつに人の名前も呼べやしない。」
劉秀はまた手拭いを顔に乗せ、闇の中に沈んでいった。 「明日からは、少し物忘れの激しい皇帝のふりでもしてみるか。……いや、無理だな。きっとまた、『陛下はあえて忘れたふりをして、我々を試しておられる』なんて、裏の裏を読まれるのがオチだ。」
本人はただ、共に苦労した仲間を愛おしんでいるだけなのに、その一言が天下を動かす最強の武器になってしまう。 「徳」という名の重荷を背負った皇帝の独白は、今夜も静かに、妻にだけ届けられた。
体を優先する瞬間
続・光武帝のつぶやき:雨音と、冷える膝
その日の洛陽は、朝から容赦のない土砂降りだった。 宮殿の大広間では、新しい税制を巡って官僚たちが白熱した議論を戦わせていたが、劉秀は所在なげに外の景色を眺めていた。そして議論が佳境に入ろうとした矢先、彼は唐突に手を挙げた。
「……よし、今日の会議はここまでだ。続きは晴れた日にやろう。皆、さっさと帰れ。」
居並ぶ重臣たちは呆気に取られた。国家の根幹に関わる議論を、空模様ひとつで打ち切るなど前代未聞である。 「陛下、しかしこの件は早急に……」 「早急も何も、雨の音で声が聞き取りにくい。解散だ。門が閉まる前に、馬を労わって帰るがいい。」
有無を言わさぬ口調で追い払い、劉秀は足早に私室へと引き上げた。
理屈より先に体が動く
「……全く、あいつらは。あんな湿気た場所でいつまでも喋って、節々が痛むとは思わんのか。」 私室に戻るなり、劉秀はいつもの粗衣に着替え、自分の膝をさすりながら愚痴をこぼした。
「陛下、お疲れ様でございました。重臣の方々、困り果てておられましたよ。『陛下は雨の日は天意を伺うために瞑想に入られるのだ』と、勝手に神聖な解釈をして納得されていましたが。」 麗華が、温めた酒と、乾いた布を持って現れる。
「瞑想なものか。ただの、雨宿りだよ。」 劉秀は布を奪い取るようにして、雨に濡れてもいない足を拭き始めた。 「あいつらはいい。宮殿の立派な屋根の下で、分厚い靴を履いていられるからな。だが、あの広間の外で立っている近衛兵や、馬を引いている下役はどうだ? 議論が長引けば長引くほど、彼らは泥濘の中で冷えていく。風邪を引けば、その家族が困る。理屈をこねる前に、まず『体が冷えていないか』を考えるのが筋だろう。」
兵士の体温、皇帝の感覚
劉秀の思考は、常に「頭」ではなく「体」に直結していた。 どれほど高尚な政治理論よりも、一人の兵士が雨の中で震えているという事実の方が、彼にとっては重大な問題だった。
「麗華、私はな、雨が降るとどうしても思い出してしまうんだ。河北で敵に追われ、冷たい雨に打たれながら逃げたあの夜のことをな。空腹で、手足の感覚がなくなり、ただ『温かい場所へ帰りたい』とだけ願っていたあの感覚を。」
彼は、麗華が注いだ酒を一口飲み、少し寂しそうに笑った。 「天下を取って、乾いた服を着られるようになっても、雨の音を聞くと肌が覚えていて、落ち着かないのだよ。あんなところで長話をするのは、私にとっても、あいつらにとっても、身体に対する虐待だ。国家の未来を語る前に、まず自分の足元の冷えを解消しろと言いたい。」
優しさの「言い訳」
「ですが陛下。それをそのまま仰ればよろしいのに。『体が冷えるから帰れ』と。」
「……言えるか、そんなこと。」 劉秀は露骨に顔を赤らめ、酒杯を見つめた。 「皇帝が『雨で膝が痛むから会議をやめる』なんて言ってみろ。末代までの恥だ。だから『声が聞き取りにくい』だの『馬を労われ』だの、それらしい理屈を並べているんじゃないか。……ああ、全く。私はいつから、こんなに格好をつけなければならない立場になったんだ?」
麗華は、夫のそんな「格好のつけ方」が、誰よりも他人の肉体の痛みに敏感であることの裏返しだと知っていた。
「陛下は、思考よりも先に、誰かの体が震えていることに気づいてしまうのです。それは知略ではなく、陛下がかつて彼らと同じように震えていたからこそ持てる、本当の強さですわ。」
「強さじゃない、ただの臆病だよ。雨の日に誰かが倒れるのを見るのが、怖いだけだ。」
劉秀はそう言い捨てて、温かい酒を喉に流し込んだ。 外では、依然として激しい雨が降り続いていたが、劉秀の命令によって、宮殿からは次々と家臣たちが家路へと急いでいた。
「ああ……これでようやく、静かに雨の音が聞ける。」
粗末な衣を纏い、温かい酒を分け合う二人。 「身体」を何よりも優先する皇帝の夜は、土砂降りの雨音に包まれながら、どこまでも穏やかに更けていった。
続・光武帝のつぶやき:神ならぬ身の、重い一言
その日の朝議は、国境付近の複雑な土地所有権と、複数の異民族が絡む交易権という、頭の痛くなるような難題で紛糾していた。官僚たちが積み上げた膨大な木簡を前に、誰もが「英明なる陛下」が、一刀両断に鮮やかな解決策を提示することを期待し、固唾を呑んで見守っていた。
だが、劉秀はしばらくそれらを眺めた後、事も無げにこう言い放った。 「……すまぬが、今の私には、これの何が問題なのかさえ、さっぱり分からぬ。今日のところは持ち帰れ。皆で明日まで議論し、私が理解できるよう、もっと分かりやすく整理し直してこい。」
広間は、文字通り水を打ったような静寂に包まれた。 「全知全能の天子」が、自ら「分からない」と口にすることなど、普通はあってはならないことだったからだ。
「全知」という虚飾の拒絶
「……ああ、頭が痛い。あいつら、私が何でも知っていると思い込みおって。」 私室に戻った劉秀は、いつものように重い冠を放り出し、着古した麻の衣に手を通した。
「陛下、お疲れ様でございました。官吏たちは皆、呆然としておりましたよ。『陛下はあえて知らない振りをすることで、我々の真実を見極める試練を与えられたのだ』と、震えながら解釈し直しておりましたが。」 麗華が、少し呆れたように笑いながら、熱い茶を差し出す。
劉秀は茶を啜り、大きな溜息をついた。 「試練だと? 買い被りすぎだ。私はただ、本当に分からなかっただけなんだよ。あんな複雑な土地の境界線や、聞いたこともない部族のしきたりを、一度聞いただけで理解できるはずがないだろう。私は神ではない、ただの人間なのだからな。」
沈黙より怖い「知ったかぶり」
「ですが、陛下。皇帝というものは、たとえ分からずとも『うむ、よきに計らえ』と頷くか、あるいは威厳を持って断じるのが、これまでの習わしではございませんか?」
「それが一番危ないのだ、麗華。」 劉秀は、少し真剣な目をして妻を見つめた。 「分からないことを分かった振りをし、適当な裁定を下してみろ。その一言で、現場の人間がどれほど血を流し、どれほど不当に土地を奪われるか。私の見栄一つで、民の生活が壊されることほど、恐ろしいことはない。」
彼は、かつて対峙した「王莽」という男を思い出す。理想を追い、全知全能を気取って理論だけで国を動かそうとした結果、現実から乖離し、国を大混乱に陥れた先人だ。
「皇帝が『知らない』と言うのをやめた時、国は嘘で塗り固められる。部下は私を騙そうとし、私は自分の無知を隠すために権力を使う。……そんな地獄はもう、こりごりなのだよ。私は、天下で一番の物知りになりたいわけではない。天下で一番、間違いを犯さない男でありたいだけなのだ。」
皇帝の「弱さ」という強さ
劉秀は、縁側に寝転がり、夜空を見上げた。 「……とはいえ、大広間で『分からん』と言った瞬間の、あの白けた空気には参ったよ。陛下の威厳が、ガラガラと音を立てて崩れていくのが聞こえた気がした。お前もそう思うだろう? 情けない皇帝だと。」
「いいえ。私は、自分の限界を認められる陛下を、誰よりも誇らしく思いますわ。明日になれば、官吏たちは必死になって知恵を絞り、より良い案を持ってくるでしょう。陛下が『知らない』と仰ったことで、国中の知恵が動き始めたのですから。」
「お前はいつも、私の弱音を綺麗に包んでくれるな。」 劉秀は照れ隠しに鼻を擦った。 「……さて。明日の朝までに、私も少しは勉強しておかないとな。あいつらに『陛下はやはり全てお見通しだったのだ』なんて、また勘違いされるのは癪だが……本当に何も知らないままだと、今度こそ馬鹿だと思われてしまう。」
劉秀は、渋々といった様子で、机の上に積まれた難しい報告書に手を伸ばした。 「全知全能」を演じることを拒み、一人の人間として悩み、学ぶことを選ぶ皇帝。 その夜、彼の部屋の灯火は、どの官僚の部屋よりも遅くまで揺れていた。
続・光武帝のつぶやき:夜の闇と、曇る鏡
その夜、宮殿の回廊には慌ただしい足音が響いていた。 地方での小さな小競り合いに関する報告書を携えた近衛兵が、皇帝の私室の前で拝跪した。 「陛下! 辺境より緊急の知らせがございます。直ちにご決裁を……」
だが、部屋の中から返ってきたのは、いつになく冷淡で、それでいてひどく眠そうな声だった。 「……緊急か? 城門が破られたのか? それとも、大規模な反乱が起きたのか?」 「いえ……境界線を巡る豪族同士の諍いですが、放置すれば火種に……」 「ならば、その報告書はそこに置いておけ。私はもう寝る。続きは明日、太陽が昇ってからだ。」
近衛兵は呆然とした。かつて戦場を不眠不休で駆け抜けた「戦神」ともあろうお方が、これしきの報告を翌朝に回すなど、誰もが耳を疑う光栄だった。
夜の決断、朝の後悔
「……ああ、危ない危ない。あと少しで、部屋に入れてしまうところだった。」 劉秀は粗衣の襟を合わせながら、部屋の奥でくすくすと笑っている麗華に向かって、わざとらしく肩をすくめた。
「陛下、あの方はひどく驚いておられましたよ。『陛下は一刻を争う事態よりも、天下の静寂を守ることを優先された。なんと深い泰然自若の境地か』と、無理やり感動して帰っていきましたが。」
「泰然自若なものか。ただの自己防衛だよ、麗華。」 劉秀は、麗華が用意してくれた寝台の端に腰を下ろし、自分の眉間を指で揉みほぐした。 「いいか。夜というのは、人の心を惑わせる毒のようなものだ。暗闇の中で文字を読み、疲れた頭で考えれば、どんな小さな諍いも大乱の兆しに見え、どんな些細な失礼も許しがたい反逆に見えてしまう。……夜に下した決断で、翌朝後悔しなかった試しがない。」
曇った鏡、澄んだ水
劉秀は、かつて自分が戦場で行った苛烈な処置や、夜通しの軍議でつい口走った荒い言葉を、今でも苦い記憶として抱えていた。
「皇帝の言葉は、一度発せられれば取り返しがつかぬ矢だ。疲れ果て、判断力が鈍った状態で放った矢が、誰の胸を貫くか分かったものではない。……私の判断力なんて、太陽の光がなければすぐに曇ってしまう、安物の鏡のようなものなんだよ。」
彼は、麗華にだけ聞こえるような小さな声で愚痴を続けた。 「あいつらは私が『不眠不休の英雄』だと信じ込んでいるが、冗談じゃない。睡眠が足りなければ怒りっぽくなるし、腹が減れば思考が止まる。私はただの、血の通った人間なんだ。夜は寝て、朝起きて、しっかり飯を食った後に考えなければ、正しいことなんて一つも言えやしない。」
最高の「保守」
「ですが陛下。世の人は、夜も休まず働くことが忠義であり、王の道であると説きますわ。」
「それは、自分の間違いを認められない者の言い分だ。」 劉秀は、麗華に手を引かれるままに横になった。 「自分の判断力が衰えていることを認め、それを避ける。それもまた、国を守るための戦いなのだ。……あやつには悪いことをしたが、明日、私が最高の体調で、最高の『甘い裁定』を下してやれば、それが一番の恩返しになるだろう。」
劉秀は、満足げに目を閉じた。 「夜は寝るものだ。そして、明日の自分を信じて待つものだ。……皇帝が夜更かしをして胃を悪くするより、ぐっすり眠って機嫌よく笑っている方が、天下の民も安心すると思わないか?」
「ええ。そうして自分を律する陛下こそ、誰よりも『全能』に近いお方ですわ。」
「よせ。……寝るぞ。明日の朝、あの報告書を読んだ瞬間に『やっぱり夜に決めておけばよかった!』なんて思わないことを、今はただ祈るばかりだ。」
自分の弱さと、肉体の限界を誰よりも理解し、それを制度として運用する。 「全知全能」という幻想を、自らの「眠り」によって打ち砕く皇帝。 その寝息は、闇に包まれた洛陽の夜を、優しく、そして確実に守っていた。
続・光武帝のつぶやき:余白の小言、墨の重み
その夜、劉秀は書斎で筆を置き、凝り固まった首を左右に振った。 机の上には、各地へ送られる予定の勅令や書簡が積まれている。それらはいずれも、皇帝の威厳を示す派手な大文字や、仰々しい朱書きが踊るものではなかった。 ただ、紙の端の、何でもない余白の部分に、細い筆先でちょこちょこと「メモ」のような文字が書き込まれている。
「……ふう。これでようやく、全員に話が通じるだろうか。」
「陛下、またそのような書き方をなされて。書記官たちが泣いておりましたよ。『陛下の文字が小さすぎて、写本を作る際に目を細めすぎて涙が出てくる』と。」 陰麗華が、からかうような目をして夜食を運んできた。
書体という名の威圧
「仕方ないだろう。大きく書けば書くほど、それは『命令』ではなく『呪縛』になる。」 劉秀は、書き終えたばかりの書簡を麗華に見せた。 「見てみろ。私がここで大きな朱文字で『断じて許さぬ!』とでも書けば、受け取った地方官は震え上がり、まともな思考を止めてしまうだろう。権威を誇示するような太い文字は、相手の知恵を奪う。私はあいつらの首根っこを掴みたいわけではなく、頭を使って動いてほしいのだよ。」
劉秀の書体は、皇帝という立場からすれば驚くほど細く、そして読みやすいものだった。 それは、自らの力を誇示する「書道」ではなく、相手に意図を伝える「通信」としての文字だった。
相手別のトーン調整
「でも、陛下。こちらの武官への書簡はたったの三行、あちらの文官への書簡は余白が埋まるほど書き込んでいらっしゃいますね。これでは不公平だと、また文句が出るのではありませんか?」
「それが分かっていないのだ、あいつらは。」 劉秀は、麗華が持ってきた茶を啜り、一気に愚痴を吐き出した。 「いいか。あの猛将・呉漢のような奴に、長々と理屈を書いてみろ。『陛下は何が言いたいのか分からん』と、三行目で読むのをやめてしまうぞ。奴らには『ここを攻めろ』『これ以上はやるな』。それだけでいい。逆に、理屈っぽい文官どもに簡潔に命令を出すと、『陛下は私を嫌っておられるのか』『裏に何か意図があるのか』と、勝手に深読みして疑心暗鬼に陥る。」
劉秀は、文官向けの書簡に添えた「最近、お前の故郷の蜜柑が美味いと聞いたぞ」という、政治とは何の関係もない一言を指さした。
「こうやって一言添えてやるだけで、奴らは『陛下は私を見ていてくださる』と安心して、十倍の効率で働くようになる。……全く、相手によって言い方を変えるのは、これ以上の重労働はない。私は皇帝であって、近所の世話焼きの親父ではないのだぞ。」
「柔」という名の戦略
「ですが陛下。そのきめ細やかなお心遣いが、あの荒くれ者たちを一つにまとめているのですわ。陛下が書簡の言葉をわざと柔らかくされるのも、相手を萎縮させないためなのでしょう?」
「……まあ、半分はそうだ。だがもう半分は、単なる照れだよ。」 劉秀は、顔を赤らめてそっぽを向いた。 「『朕』だの『天命』だのという仰々しい言葉を使って、上から目線で語りかけるのが、どうにも気恥ずかしくていけない。まるで自分が、昔話に出てくるお高く止まった悪党にでもなった気分だ。……だから、ついつい筆が軽くなる。それをあいつらが『柔よく剛を制す、究極の統治術』だなんて持ち上げるから、ますます書きづらくなって困るんだ。」
劉秀は、再び筆を手に取ったが、その手は少し迷うように動いた。 「次は誰への書簡だったか……ああ、あの頑固な老臣か。こいつには『体を大事にしろ』と書くよりも、『お前が倒れると私が困る』と書いた方が、意固地に働くだろうな。……ああ、面倒だ。本当に、皇帝という仕事は気が抜けない。」
陰麗華は、夫が余白に丁寧に書き込む「小さな言葉」が、どれほど多くの人々の心を救い、繋ぎ止めているかを知っていた。 皇帝の威厳を「書体」で誇示せず、ただ「言葉」で心を寄り添わせる。 その不器用な優しさが、今日も紙の余白に、小さな墨の跡を残していた。
劉秀が死期を悟った陰麗華に最後のつぶやき
「先に逝くのは、私の方だろう」
ある静かな夜、いつものように縁側で粗衣を纏い、麗華の淹れた茶を飲んでいた劉秀が、ふと漏らした言葉があります。
「麗華。どうやら、先に席を立つのは私のようだな。」
劉秀は自分の枯れ枝のような手を見つめ、少し寂しそうに笑いました。 「本当は、お前を一人残していくのは忍びない。だが、私が先に逝ってお前のために『向こう側』の地均しをしておくのも、私の役目かもしれん。……あちらでも、お前が来るまで菜園でも作りながら待っているよ。」
麗華は、夫の言葉を遮るようにその手を握りしめ、静かに答えました。 「陛下は、私がいなければ自分の衣の綻びにも気づかないお方ですもの。どうぞ、先に行って場所を見つけておいてくださいませ。私が後から行って、また陛下のお背中の土を払って差し上げますわ。」
「……そうか。ならば、あまり長くは待たせないでくれよ。お前がいないと、私はまた馬成たちの説教を独りで聞く羽目になるからな。」
劉秀はそう言って、悪戯っぽく微笑みました。 彼が最期まで「皇帝」ではなく「一人の夫」として安らかに旅立てたのは、間違いなく、その愚痴をすべて受け止めてくれた彼女がいたからでした。
光武帝(劉秀): 紀元57年没(享年62歳)
陰麗華(光烈皇后): 紀元64年没(享年60歳)
劉秀が亡くなった際、息子の明帝(劉荘)が即位しましたが、陰麗華は皇太后として息子を支え、穏やかな晩年を過ごしたと伝えられています。




