恋心で舗装されている
侯爵家の跡取りである令嬢は、第五王子と婚約することになる。姉と婚約しているのに妹に恋をした愚かな第五王子と、姉の婚約者を次々に惑わせる妹の末路。
「グレース嬢、あなたとの婚約を解消させて欲しい」
そう頭を下げてきた婚約者に、何回目だろうかとグレースは内心で嘆息した。
十四歳で初めての婚約者が決まってから、これで五回目だ。面白くもない過去を数えて、グレースは吐き出しそうになった溜め息を堪えた。
うんざりとした気持ちを押し隠して、冷静に問う。
「理由をお聞かせ頂いてもよろしいでしょうか、シドニー様」
問いかけられた婚約者はびくりと肩を揺らして、死にそうな顔で白状した。
「あなたの妹君である、ケイシー嬢に恋をしてしまったんだ」
ほらね、とグレースは内心で舌を出した。
いつもこれだ。グレースが誰と婚約したって、グレースの婚約者はみんな妹のケイシーを好きになる。
別にケイシーが姉の婚約者を欲しがるだとか、姉の婚約者にすり寄るだとか、そんなことはしていない。そもそもケイシーには、公爵家の跡継ぎで仲の良い婚約者がいる。
ただ単に、男たちがみんなみんなケイシーを好きになるのだ。姉であるグレースから見ても『なるほど』と思うほど、ケイシーは可愛らしい妹だった。
ケイシーが生まれたその瞬間から、グレースの生家であるキャラック侯爵家はケイシーを中心に回るようになった。
ケイシーが幼い頃は体が弱くて手がかかったうえに、長じてからは非常に賢く、優しく、何よりも愛らしく育ったからだ。何かと不器用なグレースに比べて器用で世渡りの上手いケイシーは、誰からも愛されて、当たり前のようにグレースから両親の愛情を奪っていった。
両親はグレースも愛してくれているだろう。ケイシーはグレースから両親を奪ったつもりなどないだろう。けれど、どうしたって、グレースとケイシーの間には埋められない差があった。
ケイシーがグレースの持っているものを羨ましがれば、両親は簡単にケイシーに同じものを買い与えた。家族での旅行はいつだってケイシーの希望が最優先だった。グレースの誕生パーティーは国の祝祭と近いからと祝祭パーティーと合同で行われるのに、同じくらい近いはずのケイシーの誕生パーティーは別で祝われる。
そういう、何でもない、くだらない、些細な出来事がずっとずっと積み重ねり積み重なって、グレースはどうにもケイシーが苦手なのだった。そうして今回も、グレースの婚約者はケイシーに心を奪われている。
真っ青な顔で俯いたままの婚約者シドニーに、グレースはなるだけ柔らかい声をかけた。
「貴族同士の婚約なのですから、別段感情は伴わなくても良いかと存じますが」
「そういう考えもあるかも知れないけれど、わたしは良くないんだ」
真っ青な顔をしたまま、シドニーは言い返した。がばっと頭を下げる。
「わたしは婚約者に誠実に生きていきたい。あなたの妹君に想いを寄せたまま、あなたと家族になるような不誠実なことはできない」
あぁ、とグレースは内心で嘆息した。
両親の探してきた婚約者は、本当に誠実な、良い男だった。きっと、彼と家族になったら幸せになれただろう。
「妹のケイシーには婚約者がおりましてよ」
「もちろん、知っているとも。この想いを伝えるつもりはない。あなたにも妹君にも迷惑はかけない。侯爵家への婿入り予定だったから実家から放り出されるかも知れないけれど、心が落ち着くまで一人で生きていくよ」
いつだってそうだ。もしもシドニーが不誠実な男であったなら、きっとこのまま素知らぬ顔で婚約を継続していただろう。
両親が探してくる婚約者はいつだって優しくて穏やかで誠実で、それは両親からグレースへの愛情そのものだった。その愛情のために、グレースは五回も婚約を解消するハメになっているのだけれど。
昔から、無邪気にグレースから何もかも奪っていくケイシーのことが、グレースはどうしてもどうしても苦手だった。
「……承知致しました」
シドニーの心が決まってしまっているのであれば仕方ない。一つ頷いて、グレースは今の関係を清算したのだった。
後からことの次第を聞いたケイシーは、しばらく絶句して、シドニーに対して本気で怒っていた。グレースにも自尊心というものがあるから、シドニーが心を移した相手は妹ではなくて知らない女性という話にしたけれど。
「今までの皆さまもそうでしたけれど、殿方たちはお姉様の魅力を知らなさすぎますわ! 他の女性に目移りをなさるだなんて、だらしのないこと!」
昔から婚約者を一途に愛しているケイシーは、姉の婚約者が心を移した相手が自分であることも知らずに憤慨している。
そもそもケイシーは、シドニーとろくに話したこともなかったのだ。それなのに自分が想いを寄せられているなど、思ってもいないだろう。
昔からそうだった。どうしようもなく、みんなみんなケイシーを好きになる。グレースから何もかもを奪っていく。
だというのにケイシーは、慕わしげにグレースに笑いかけるのだ。
「気にする必要はありませんわよ、お姉様。きっと次にはもっともっと良い殿方と婚約できますから! ねえお父様お母様、きっとお姉様に相応しい素敵な殿方をお見付けくださいませね」
夕食のあとの歓談の席でぷんぷん怒りながら声を上げるケイシーに対して、両親は曖昧な笑みを返した。五回も婚約を解消される長女に対して、少しずつ焦りが出始めているのかも知れなかった。
十四歳のときに初めて婚約を結んでそのあと五回も破談になっているグレースに対して、ケイシーは十歳のときに公爵家の跡継ぎに見初められて婚約してからずっと仲の良い関係を続けている。グレースは侯爵家の跡取り娘だというのに、このままでは足元を見た縁談しか届かなくなるかも知れない。
両親が言葉もなくそっと視線を交わすのを、グレースは苦い思いで見ていた。
***
それから、グレースには思わぬ縁談が舞い込んだ。王家から第五王子との縁談を打診されたのだ。
王位から遠い側室腹の第五王子とはいえ、王族の婿入りだ。思わぬ僥倖に、侯爵家は上を下への大騒ぎになった。
誰よりも喜んでいたのは妹のケイシーだった。
「きっと王家もお姉様の素晴らしさに気づいたのです! お茶会の日は飛びきり着飾らなくてはいけませんね!」
ケイシーはそう張り切って、婚約者の公爵家から寄越されているケイシー専属の侍女たちまで総動員して姉のために顔合わせの準備を主導した。どうにも着飾ることが苦手なグレースは、ケイシーに振り回されてばかりだった。
お茶会当日にケイシーは自分の仕事ぶりに満足したように頷いて、グレースにぐっと拳を握って見せた。
「恋は戦争ですわ、お姉様! 必ず勝ち取りにいくのです!」
「ありがとう、ケイシー」
正直なところケイシーの熱意にちょっと疲れながらも、グレースは王宮で第五王子と顔を合わせることになった。
そこでグレースは、生まれて初めて恋をした。
幼い頃は病弱で、成長してからは留学している期間が長かったために、あまり国民に知られていない王子だった。だからグレースも、第五王子のことはあまり知らなかった。
見たこともないくらい美しい王子だった。
何よりも、両家の家族が揃った場だから隣にケイシーが立っているのに、最低限の挨拶以外はケイシーに一瞥もくれることなく、真っ直ぐにグレースだけを見つめてくれた。それは今までにないことで、だからグレースは天にも昇る気持ちというのを味わった。
差し伸べられる手は優しく、向けられる視線は熱を帯びていた。そんなに親しくされる覚えがなくて問いかければ、照れたように笑う。
「随分と昔のガーデンパーティーで、妹君が体調を崩されたのに誰よりも早く気づいて気遣われていたでしょう。優しい女性だな、というのがずっと印象に残っていたのです。わたしは第五王子ですから随分と自由にさせて貰っていて、あちこち学びに行かせて貰ったのは両親に感謝しておりますが、その間にあなたが婚約されてしまったと聞いたときには随分と悔しい思いをしたものです」
それを聞いて両親はほっとした顔をしたし、妹は感激したように涙ぐんで手で口元を覆っていた。
二人で散歩を促されたときも、両親と一緒に離れて行く妹を第五王子は一瞥もしなかった。今までの元婚約者たちは、どうしたって妹に視線を向けていたのに。
それから互いの意志を確認して、交流期間を置いて三か月後には婚約、半年後には婚約発表の運びとなった。妹はそれはもう張り切って、グレースが第五王子と出かけるたびにデートの準備を手伝った。
友人たちに聞いたオススメのデートコースまで教えてくれるケイシーに、グレースは戸惑って問うた。
「どうしてそこまで張り切っているの。今までだって婚約者とのデートくらいあったでしょう」
「お姉様、第五王子殿下はお姉様に恋をしておりますわ! 今までのお相手は政略の意味が強く出ておりましたけれど、これは恋愛結婚です!」
自信満々に、ケイシーは言い切った。
「恋というのはいつまでも同じ熱量が続くものではありませんから、燃え上がっている短い間にどれだけお互いを知り、好印象を与え、考えをすり合わせ、相手との信頼を積み上げるかが大切なのです! それが長く続く愛へと繋がるのですわ!」
公爵令息にそれはそれは愛されているケイシーは、愛されている自信でもって胸を張った。
その熱量に引きずられるように、グレースは今まで最低限で済ませていたスキンケアを丁寧にしたり、動きやすさを重視していた普段着をおしゃれなものに買い換えたりと色々と動き回った。正直なところグレースは今までとてもケイシーを好きにはなれなかったのだけれど、これからは好きになれそうだ、と思った。
そうしているうちに、不思議と周囲からの反応も変わっていった。今まで距離のあった女性の知人と話せるようになったり、男性から侮られることが減っていったのだ。
疑問を溢せば、当たり前のことを訊かれたようにケイシーが眉を上げた。
「だからお姉様は、ずっと昔からもっと自信を持つべきなのです。ご自分でご自分を大切になさらないお方というのは、周りからも『大切にしなくて良いのだな』と思われてしまいましてよ。お姉様はいまがお幸せでご自分を大切にしてらっしゃるから、周りの方たちも自然とそれに合わせたのよ。お姉様は元が素敵なのだから、着飾ればもっと素敵になるのは当たり前のことですわ」
複雑な感情を向けている妹からそう言われても全てを納得できたわけではなかったけれど、腑に落ちる部分もあった。
自然と俯きがちなグレースとは違って、いつでもケイシーは前を向いていた。周りの眼を気にして動き出しの遅いグレースとは違って、ケイシーには『自分は愛されている』という確信が先にあって、だから多少の失敗くらいは気にせず色々なことに積極的に取り組んでいた。
グレースからいつでも何もかもを簡単に奪っていくケイシーは、愛されている人間に特有の、強烈な魅力があるのだった。
昔からケイシーへの劣等感に苛まれていた自分が、恋を見つけたことでようやく顔を上げられたような気がして、グレースは少しだけ妹を好きになれる気がしたのだ。
花びらが落ちるのを数えるようにじりじりとした気持ちで待ち望んだ婚約発表で、グレースは貴族たちから祝われることになった。その姿を、誰よりも喜んでいたのは妹のケイシーだった。
けれど、その幸せは一瞬で崩れ去ることになる。婚約発表が終わったあとで息抜きに歩いていた廊下で、たまたまぼそぼそとした声が聞こえたのだ。
「本当に良かったのですか、殿下」
グレースの婚約者である第五王子と、その朋友で腹心である補佐官の二人が並んでいた。小さな声でぼそぼそと会話している。
何ごとか、と思ってグレースは思わず廊下の端に隠れた。はしたないと思いつつ、つい盗み聞きしてしまう。
そうして補佐官は、グレースにとっては致命的な一言を口にした。
「あなたが本当に愛しているのは妹君のケイシー嬢でしょう。紙一重で公爵家の跡継ぎにかっ攫われたときには、随分と荒れておりましたからね。それを知っているのに姉君のグレース嬢との婚約を押し進めるなどと、陛下も無体なことをなさる」
「陛下のお考えあってのことだ。この数代では報告がないが、キャラック侯爵家には稀に未来視の能力を持つ子どもが生まれることがある。万が一にも、キャラック侯爵家が足元を見られてろくでもない男に婿入りされるような事態になることは避けたかったんだよ」
第五王子が、聞いたことのない冷たい声で鼻を鳴らす。
「わたしは側室腹の第五王子で政治的な価値など軽いものだから、婿入りさせたところで王家に痛手はないしな。それでもわたしは王族なのだから、望まない結婚を受け入れるのも役割のうちだろう。愛のない結婚など王族や貴族には珍しくもない」
ちら、と補佐官を睨みつけて。
「何よりも同じことはお相手のグレース嬢にだって言えるのだから、二度とそんなことを言うなよ。グレース嬢に失礼だ」
「判っておりますとも。仲の良い婚約者同士を引き離せないと、六年もたった一人に片想いし続けた殿下の恋の終わりがこれでは、あまりに可哀想で」
「初恋を六年も引きずり続けた馬鹿男だと笑いたきゃ笑え」
ぼそぼそと話す二人に、一人の貴族当主が近づいて挨拶をしたがっている。二人はそれまでの声音をがらりと変えて、当主の挨拶を受けた。
そんな廊下の片隅で、グレースは震えていた。
気晴らしだからと護衛たちは遠ざけていたから、護衛は少し離れた位置にいて、二人の会話は聞こえていない。ほんとうに小さな、風に流されるような声だったのだ。
たった一人で、持て余した恋心を抱えて、グレースは震えていた。
***
「あらケイシー、どこに行くの?」
「クリフトン様とデートに行くのよ!」
侯爵家の廊下ですれ違ったときに問いかければ浮かれた調子で返されて、グレースは妹に微笑んだ。
「そう、相変わらずご婚約者様と仲が良いのね」
「それはお姉様もでしょう? 殿下から流行の観劇に誘われたと聞きましてよ」
相変わらず、妹は可愛かった。
ずっと可愛い。ずっとずっと可愛い。そうして、誰も彼もの心を奪っていく。
だから、魔が差したのだ。
「そういえば、いま話題になっているパティスリーは知っている? わたし、ずっと食べてみたくって」
「まぁ、じゃあ買ってきますわ! クリフトン様に行きたいとおねだりしましょう」
「良いのかしら? すごく話題なようだから、もしかしたら並ぶかも。メイドたちに頼もうかと思っていたのよ」
「大丈夫ですわ! クリフトン様とであれば、列に並ぶのも楽しいもの」
ごくごく善意で、ごくごく無邪気に、ケイシーはそう言って笑った。互いに軽く手を振って別れる。
グレースの脳裏には、数時間後のケイシーの光景が浮かんでいた。このあとケイシーは、訪れたパティスリーで、ナイフを振り回す暴漢から母娘で来店していた小さな女の子を庇って亡くなるのだ。
誰にも言ったことはないけれど、グレースは未来視の能力を持っている。
不安定で、弱くて、なんなら間違っていることもあるから、とても使えるようなものではない。けれど間違いなく、キャラック侯爵家の血統由来の未来視の能力だ。
本当に使いものにならない程度の力でしかなかったし、今までほとんど役に立ったことがない。けれど不思議と、この未来視は当たるだろうという確信があった。
不思議なくらい頭が冴えている。笑い出したいくらい愉快なのに、知らぬうちにグレースはぽたぽたと涙を零していた。
「わたしはもう、天国には行けないわね」
流れる涙をそのまま、グレースは窓に近寄った。侯爵家の正門の近くでは、ケイシーとその婚約者が仲良さげに寄り添いながら馬車に乗り込もうとしている。
その細い背中に、グレースは届かない声をかけた。
「ばいばい、わたしの可愛い妹」
恋なんてしなければ、地獄に落ちずに済んだのに。
これはわりと救いがなかったパターン。というか普通に、公爵家の跡継ぎと婚約している妹を○そうとするのは貴族としてもめちゃくちゃヤバい。恋を知って何もかも狂っちゃった姉のお話です。恋には狂えば狂うほど良い。そういう気持ちで生きております。
まぁそもそも誰かに聞かれかねない状況で迂闊なお話をした第五王子と補佐官が良くない。じゃあこのお話どうやって聞かせるの? って言えば、それはもうグレースが動物になるとかそういう特殊な状況しか思いつかなかったのでこういう形になりました。突っ込みどころは事前に自分で突っ込んでおくスタイル。
妹が本当にろくでもなかったパターンも一応候補に浮かんでいたのですけれど、『面白みがねーな』って思ったのでこういうお話になりました。そういうお話を書いている方たちが悪いわけではないですよ、そういうお話を自分で味付けしたときに自分にとって面白く書けるかなーって考えただけ。力量の都合です。
例えばカエルになった王子様は、壁に叩きつけられるかも知れないし、火の中に放り入れられるかも知れないし、皮を剥がれるかも知れないし、はたまたキスされるかも知れないですよね。そういう、類型を形にするような気分で書いております。
【追記20251129】
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