第1話 婚約? 何かの間違いです
「お兄さま、エレノアが参りました」
兄のアウグラウスから贈られたドレスを身につけ、エレノアは恭しく執務室の前で声を掛けた。少し置いてから、扉が開く。開けてくれた顔見知りの使用人に笑顔を向ける。
兄は資料がたくさん載った机から顔を上げる。母に似た涼やかな瞳が優しく弧を描く。それに微笑み返し、スカートの裾が邪魔にならず足を出しすぎない程度に掴みながら、右足を斜め後ろの内側に引き、左足の膝を軽く曲げる背筋を伸ばしたまま礼をする。
「エレノア・メディエンが参りました。お久しぶりでございます。お兄様におかれましては、ごきげんようございますか?」
兄は頬に肘をつきながらつまらなそうに、エレノアの挨拶を聞いていた。エレノアはその態度を見ると、兄の返事がある前にソファに座る。
「可愛い妹にその態度は失礼でしょ!!」
「俺には本性がバレているのだから、そんな挨拶しなくていいだろ」
兄もエレノアの前に座り、使用人からお茶をもらう。エレノアもお茶をもらい、嫌味を言いそうになるのを口に紅茶を口に含んだ。程よい暑さで、すっきりとした味わいが口の中に広がる。腹立たしかった気持ちがなくなる。目の前には、エレノアの大好きなチョコのケーキが置かれていた。
ちらっと見ると、どうぞと手を出されたので遠慮なくフォークを手にしケーキを頬張る。兄が声を出して笑っているのを、無視し、ケーキを堪能する。カカオの風味を残しながら、程よい甘さのケーキはエレノアのお気に入りだ。
「ケーキと可愛いドレス……。兄さんは私に何をさせたいの?」
「何って? 可愛い妹に贈り物をしては駄目なのか?」
「こんな刺繍をたくさん入れたドレスを何もなく贈りはしないでしょ?」
深いネイビーにネイビーが地味にならないように、スカートの裾には刺繍がされていてエレノアの好きな夜空を連想させるようだった。
「じゃあ、そのドレスのお礼をよろしく」
「贈り物って言ったくせに、このドレスを対価にするってこと? まあ、こんな素敵なドレスだから内容によってはいいわよ。何すればいいの? モンスターの討伐? 収集の手伝い? 護衛?」
つい先日もギルドの仕事で、討伐に出ていた。帰ってくるのは1週間ぶりで、帰宅を待っていたのかすぐに連絡があった。
兄は、にっこりと笑みを浮かべる。その笑いにエレノアは嫌な予感がする。
「良い縁談が来てるぞ」
「却下!!!!」
「まだ相手を言ってないだろ」
「結婚する気なんてないんだから、相手は関係ない!!!!」
予感が的中した。
エレノアは、結婚はしないと決めていた。
伯爵家の娘であれば、婚姻も立派な務めだが、母はもともとシャーレクタド国、現在のシャーレクタド領の護衛だった。貴族ではなかった。父と母はガインド国への功績で貴族の父と母が結婚することができた。治療の名門メディエン家でも三男だった父が伯爵を名乗り、政治に関われてるのも功績のおかげだ。
兄は、父から家督を継いだがエレノアがお家のためにするほどでもない。それに、幼少期に一部の貴族に馬鹿にされた。エレノアは父のことも母のことも好きだ。母に憧れて剣を習ったし父を尊敬して魔法も学ぶのも嫌いではなかった。
だが、貴族というものは好きになれなかった。母のことを馬鹿にしているのを知っていたからだ。母は貴族としての振る舞いは身に着けられなかった。エレノアも貴族としての振る舞いなど、どうでも良かったが振る舞いができる方が黙らせられることが分かった。それからは、必死に貴族としての振る舞いは身に着けある程度の社交はする。
だが、わざわざ結婚し貴族の縁を結ぶつもりはなかった。徐々に社交界から離れて、ギルドで生計を立てるつもりだ。だから、結婚するつもりはない。
じっと兄を睨むが、兄は気にせず口を開く。
「相手はエクリプリス・ガインド公爵だ」
ガインド? エクリプリス・ガインド公爵? エレノアは、衝撃から言われた名前を反芻し理解できた時は大声を上げていた。
「エクリプリス・ガインドって王弟じゃないの!!」
「令嬢が大声を上げていいのか?」
「兄さんが、兄さんの前で猫を被る意味がないって言ったんじゃない。何で、王弟から婚約が来るのよ? あれ? 兄さんの学友だっけ? お母さんの旧友の子でもあったよね?」
エクリプリス・ガインドは元王の腹違いの弟で兄の学友だった。母は旧シャークレクタド国の聖女で、母と幼馴染だ。幼少期に一度だけ会ったはずだ。綺麗な人だったが、悲しげな印象が残っている。
「学友で聖女ココは母さんの幼馴染だ。学校主催のパーティーで挨拶しただろ」
首を捻ると兄はため息をつく。
「色とりどりで大きめなマカロンを喜んで食べていたパーティーだ。スイーツが珍しいって喜んでいただろ」
「あのマカロンは美味しかったわ。マカロンの中にクリーム入ってるの最高だった……。留学生もいるから色々な国の料理があったパーティーあったね。あのパーティー?」
「食べ物しか覚えてないのか?あれは、エクリプリスのお披露目も兼ねてたんだよ」
「そうなんだ」
お前だけだぞ。食べ物に目を輝かせてた令嬢は……。兄がブツブツ言っているがエレノアは無視してケーキに口に運ぶ。
あのパーティーで食べたチョコケーキも美味しかった。異国の黒い、チョコのように黒いスイーツ。あれも美味しかった。