第7話 招かれざる客
窓の外にそびえ立つ山の端から太陽が顔を出し始め、六つの寝息が聞こえる安らかな夜は月と共に追い出される。まだ皆が深い眠りに落ちたばかりの静かな朝に、一人の少女がこっそりと襖を開け、寝室を抜け出した。
「死者数や討伐数に狂いはないだろうから…実際には数字に現れない“愚者の実力”を、拓哉がどう数値化したのかが気になるわ。そこを見誤っていなければ大丈夫そうね」
昨日の会議で拓哉にもらった資料に目を通しながら、水月は閑静な早朝の廊下に独り言を落とした。どうやら、なにか引っかかっていることがあるようだ。彼女はそのまま階段を上り、三階奥の自身の部屋へと向かう。
彼女の部屋は、とても十二歳の少女のものとは思えないほど大人びていた。
壁を埋め尽くす本棚には、数えきれない量の本がぎっしりと並んでいる。装飾棚には、歴代の組長が受け継いできた刀やら宝玉やら、歴史的価値のある貴重なものが輝いていた。
その後ろに、少し黄ばんだ大きな地図が貼られていた。どうやら裏世界の地図のようだ。一つの大きな大陸に五つの国があり、その中央に“皇領”が置かれている。そして、海を超えた先に島が一つ描かれていた。
地図の前に置かれた机の上に資料を並べた水月は、椅子に腰掛け、しばらく数枚の紙と睨めっこした。しかし、数十分経っても考えがまとまらない。意識せず椅子の背にもたれかかった彼女は、何かメモするものはないかとあたりを見渡し、ふと机の隅に畳まれている薄っぺらい機械の存在に気がついた。
「このパソコンとやらには、いつまで経っても慣れないわね…」
裏世界でも技術は発達しているため似たような機器は存在するが、稀子である水月は新しいことを覚えるのがとにかく遅い。故に彼女は未だにパソコンを使いこなせず、ただ所持しているだけになっていた。
そんな彼女の元に、一匹の真っ白な狐が寄ってきた。額には特徴的な模様が描かれており、その尾は普通の狐よりも長い。
「あら、鏡桜。早いのね?もしかして私があなたに頼みたいことがあるってわかったのかしら?」
鏡桜と呼ばれた狐は、椅子を引いた水月の膝上に飛び乗り、彼女に頬擦りをした。彼女がその狐に触れれば、額の模様が赤く光る。そう、この狐はただの狐ではなく、妖狐という妖の類なのだ。
妖狐は、妖術の中では特殊な妖だとされている。彼らは、術師との意思疎通が可能だからだ。且つそれは妖力のある者に限られる。故に、組内の連絡事項の伝達を行っているのはこの妖狐たちであった。
「鏡桜、父さんを起こしてきてくれない?やってもらいたいことがあるの」
撫でれば撫でるほどふわふわになるその毛を優しく整えていた水月がそう頼めば、鏡桜は水月の頬に自身の鼻をぐいっと押し当てた。
「ふふっ、ありがとう、鏡桜」
彼女の答えを汲み取った水月は、お返しにとその頬にそっと口付ける。言葉はなくとも、それぞれの気持ちを共有した彼女たちは、しばらくの間戯れたあと、それぞれの仕事に戻った。つい先ほどまで頭しか出ていなかった太陽は、今や力強く輝き、少女の長く美しい髪を照らしていた。
◆◇◆◇◆
やっと家族全員が目を覚ました昼、水月は二つの資料を手に、区宇魔と結と共に龍二の運転で会社へと向かった。
いつも昼は龍月組の組長としてではなく、会社員の子供として魔術で容姿を変え、出勤する。水月たち兄妹の特徴的な白い髪は裏世界の皇族の象徴であり、髪だけで正体に気づかれかねないからだ。
「水月、昨日はよく寝れたのか?かなり朝早くに起きてたみたいだけど」
黒く長い髪に、漆黒の瞳を持った子どもに扮した区宇魔は、同じく黒い髪を風にたなびかせている妹にそう問うた。
「ん〜?平気よ、最近はよく寝れているから」
「とか言いながら目に元気がないぞ?今日はちゃんと昼寝しろよ?」
妹のこととなれば口うるさい彼は、膝上で眠る弟の頭を撫でながら父親のようなことを口にした。結はたっぷり寝たはずなのに、車に乗り込むなり、またすぐに寝てしまったようだ。
「まぁ、資料作ったのは父さんだし…」
「水月は未だにパソコンが使えないからね。でも、まさか起きた途端にあの量の半紙を見せられるとは思っていなかったよ」
結局、水月はパソコンを使わず、使い慣れた筆と墨で考えをまとめたのだ。そして、水月に頼まれた鏡桜によって起こされた龍二が、彼女の机上に置かれていた約三十枚の紙を全てデータに書き起こしたのだった。
「多言語を自由に使える父さんはさすがだわ」
水月はにこっと微笑んで義父を褒めた。龍二は機嫌の良い娘を見て少し肩を竦めたが、特に何も言わなかった。それほど、彼女がまとめた資料が、的確に重要事項を捉えていたのだろう。
◆◇◆◇◆
数時間後___
会社の地下に着いた彼らは、階段を上って隠し扉を開け、人気のない裏路地に出た。どこから来たのかバレないように、皆と同じように本社の入り口に向かい、セキュリティゲートを突破する。
まだ眠そうな結の手を引き、エレベーターを目指して歩いていた時、区宇魔は少しの違和感を感じた。一人の見知らぬ女性が、水月の方へと向かってきていたのだ。
「ねぇ、そこのお嬢さん?」
水月が声の主の方を向いた時、そこには茶色がかったサングラスをかけたスタイルのよい女性が立っていた。一見普通の女性であったが、栗色の長い巻き髪を掻きあげた彼女と目があった水月は、思わずその目を見開いた。
「お手洗いに行きたいのだけれど、場所を教えてくださらない?」
愚者だ。長年愚者を討伐してきた者なら雰囲気でわかる。瞳の奥に覗く野心は、一枚の薄っぺらいガラスでは隠しきれない。
「えっと…ごめんなさい。母と待ち合わせているだけでして、社内のことはあまり…」
彼女は申し訳なさそうな顔で、咄嗟に思いついた嘘をならべた。だが、その場には明らかに張り詰めた空気が漂っている。
「あら…そうなの?」
「近くの公園にならあると思います。入口を出て右に曲がってください。最近できたばかりなので綺麗ですよ」
水月は、羽織の裏に隠した刀でその愚者を斬るわけでもなく、普通に接した。携帯を取り出すと、女性に公園の手洗い場の場所を教え、道のりまで丁寧に説明している。
それを見ていた区宇魔は、妹が女の正体に気づいていないのではないかと思い、慌てて水月の腕を引いて女から遠ざけた。
「すみません、僕たち急いでるので」
彼は笑顔で嘘を吐くと、その場から立ち去った。残された女は、しばらく彼らの方を見ていたが、意外なことに素直にビルから出ていった。それを確認した龍二は、即座に両手を組み、術語を唱える。
「結界術・強固堅牢」
彼の言葉と共に、一つの結界が張られた。安全を確認した水月は、安堵の息をひとつつくと同時に、その場に崩れ落ちた。
「水月!?」
区宇魔は慌てて妹を抱き止めた。愚者が去っていった入り口を捉えている水月の目は絶望に満ち溢れ、その体には全く力が入っていなかった。
「なんで…どうして…」
あの愚者は、会社に張られている結界も、入り口のセキュリティも突破し、水月たちがこの場に来るよりも前にロビーにいた。それが何よりの問題だった。
社内に愚者が出没したことは、内部の裏切りを意味する。そして水月が冷や汗をかいた理由はもうひとつあった。
会社の結界を操れるのは、幹部以上の組員だけだ。そして、幹部以上の者は組長が直々に任命するため、この件は組長の任命責任となる。組員を家族同然に思っていた水月にとって、初めての裏切りはかなりショックなものであった。
区宇魔は、衝撃のあまり涙すら出てこない様子の妹を、ただただ抱きしめてやることしかできなかった。真昼の都会に吹く夏の爽やかな風が、虚空を見つめ続ける水月の前髪を慈悲もなく乱した。