あなたに愛する権利はありません!
ヘーゼル・バーキットは燃えるような赤毛を持つ、辺境伯家の跡取り娘だ。
国境に領地を持ち、強大な軍事力を誇るバーキット辺境伯家は上級貴族たちの中でも一目置かれる存在であり、そんな家系の跡取り娘のヘーゼルが初めて夜会に参加するとあって若い貴族たちはそわそわとした様子だった。
跡取り令嬢の元へと婿に行くことは、爵位を持たない男性貴族に取ってなにより望ましい未来で、誰もが普段よりも気合いの入った衣装をまとい、夜会は開催される。
しかし、注目の的であるヘーゼルは少し緊張はしていたものの、そんなことは気にも留めずにある人を探していた。
そわそわとこちらを見ている令息たちの視線を無視しながらも父と寄り添い、きょろきょろと視線を巡らせている。
バーキット辺境伯が目を光らせている中で、彼女と面識がないのに声をかけようという男は現れず、しかしいまだにヘーゼルの探し人は見つからない。
その様子に、向こう見ずの勇気を発揮した男がホールの中央あたりを移動しているヘーゼルに声をかけようとした時、美しいワルツの流れる様な音色にガシャンというグラスの割れるような音が重なった。
続いて怒鳴り声が響く。
「お前のような鬼畜の極みを私は見たことがないっ! なんてことだ、女性を辱めて! 婚約など破棄だ! それ以外にあり得ないだろ!」
音楽に体を揺らしていた貴族たちは、はたと立ち止まり彼らの方を窺うように確認する。
ヘーゼルも、バーキット辺境伯も同じように視線をやった。
人が一定の距離を保って当事者を避けていき、次第に王族主催の夜会で問題を起こした非常識な者たちを視界に入れることになった。
…………あれは……ニコラスッ!
ヘーゼルは探し人がその渦中にいたことに驚いた。
それも、文句を言われている側、相手を怒らせている側だ。
「レ、レイモンドッ、そんな、突然……」
「そういう話だったはずだ! そもそも、ひどい目に遭っているからと助けを求めてきたのは君からだったじゃないか、フレデリカ! いいんだもうっ怖がらなくて、これからは俺が一生守ってやる! こんな男、婚約破棄されて当然だっ!」
「それは、もちろんその通りですわっ、わたくしだってこんな人……ね? ……でも突然……」
「なんだ、ケネット公爵子息のことなどかばって、こいつはフレデリカのことを友人たちの前で貶し、その美しさで男にも女にも手を出し、その情愛を弄ぶ鬼畜なんだろう?!」
レイモンドと呼ばれた彼は、確認するようにフレデリカに語気強く語り掛ける。
その様子に彼の周りにいる一塊の貴族たちもその通りだと頷いている。
どうやらレイモンドの言った言葉は、彼らの中では誰でも知っている周知の事実らしく、だからこそ怒鳴っているレイモンドを止めようとする人間がいないらしい。
しかしヘーゼルの驚きは、初めて参加した夜会で貴族たちの痴情のもつれを突然、目にしたことではない。その驚きはまさしくその内容についてだった。
なんせケネット公爵子息こと、ニコラス……彼はヘーゼルの探し人で幼馴染だ。
……えぇ……ニコラス、たしかに美人になったとは思ったけど、そんなとんでもないことを王都でしていたんですか……?
彼は昔、王都に住まいをうつす前、領地が隣同士だったヘーゼルとしょっちゅう遊んでくれたのだ。
しかし、爵位を持たない男性貴族の宿命とも言うべきか、貴族が多く婚活が有利な王都のタウンハウスへと彼は向かうことになり、泣く泣く別れた。
そんな記憶があり、ヘーゼルはこの日を楽しみにしていたのだ。
たとえ彼に婚約者がいようとも、友人としてでもいい、彼とまた話をすること、新しく交流を持つことをとても楽しみにしてきた。
だというのに、久しぶりに顔を見たと思えばとんでもない行為を知ってしまった。
「そんな、誤解だっ。僕はそんなことをしていない。たしかに誰も信じてはくれないけれど……フレデリカ、お願い。本当のことを言ってよ」
さて、そんなふうに変わってしまった彼と果たしてヘーゼルは仲良くやれるのか、そんなことを考えようとしたところニコラスはとても心細そうな声で訴える。
……なんだ、認めてはいないのですね。なら、私はニコラスの方を信じますが……。
けれども周りの人間は簡単にニコラスの言い分を信じるつもりはないらしく話を振られたフレデリカへと視線をやった。
その視線を受けてフレデリカはすぐに、弾かれたように反応して、レイモンドの腕に縋りついた。
「いやぁ! もうやめて、そうやってわたくしを追い詰めないでくださいませ! まるで、わたくしが嘘を言っているみたいに!! こんなに追い詰められているのに!」
「おい、ケネット公爵子息、口を開くな。こんなに怯えているんだ。フレデリカが嘘を言っているわけがない。それに、お前は知らないだろうが、もうずいぶん前からお前の黒い噂は耳に届いているんだ。皆もそうだろう!」
彼女をかばうようにしてレイモンドがそう口にすると、同世代の貴族たちから「そうだ! 聞いたことがある!」「むしろやっとといった感じよ!」と声が上がる。
……あれ、ただ噂があるというだけで誰もそれを見たとも言っていないのに、ニコラスが劣勢です。
これは、それだけ信じ込ませるだけの、彼の言動があったのでしょうか?
なにか暴力的なことを言ったとか、フレデリカに強く当たっていたのを誰かが目撃していたとかそういう可能性があるのではないかと考える。
「そ、それはなにかの間違いで……っ、ともかく、酷いことなんてしていない。フレデリカ、お願い、僕に気に入らないところがあったなら……治すから……」
けれどそれにしてはニコラスは弱気だ。その様子はあまり、小さなころに見知った彼とあまり大差ないような印象を受けた。
「彼女のこの怯えようが嘘だっていうのか? ケネット公爵令息、それこそありえないだろう。女性というのはな、か弱い生き物なんだ。私たちが信じて守ってやらなければ」
「う、嘘だとは……」
レイモンドの様子に周りの貴族たちも色めき立って同意の声をあげる。
その言葉にニコラスは勢いを失って、ふらつくように一歩下がった。
……気が弱そうなのは変わっていませんが。実際それほど気は弱くなかった記憶がありますが……そこは変わっているのですね。
群衆の言葉に追い詰められている様子の彼に、変わったところもあるのかとヘーゼルは考える。
それにヘーゼルはこの問題の論点について詳しく知らないし、ニコラスがとんでもない男になった可能性も無くはないと思う。
けれども、なににせよ。ヘーゼルはニコラスと仲良くなりに来たのだ。
……それに、女はなんですって? か弱い生き物? そんなひとくくりにされては困りますね。
考えつつもカツカツとヒールの音を鳴らしてヘーゼルは、父のそばを離れて歩き出した。
「失礼」と声をかけて道を作り、遠巻きから大衆に混じって傍観者に徹していたヘーゼルは、当事者たちの間に入り燃えるような赤毛を揺らして、久しぶりに幼馴染の手を取った。
「か弱い生き物なんて嬉しいですね。それは私のような女にも適応される言葉ですか?」
「っ、え……あ……」
突然、手を取られてニコラスは顔をあげて瞳を瞬き、なにか言葉を探している。
しかし、彼とゆったり話をしている時間は今はないだろう。
レイモンドを見やると彼は「バーキット辺境伯令嬢……」と呟くように口にして、返答を考えている様子だった。
なんせヘーゼルは生まれ持って素晴らしい炎の魔法を持っている。そんな女に対してか弱いなどとは、よっぽどの男でなければ言えないだろう。
返答に迷った彼にヘーゼルは続けて言った。
「どういうお話か知りませんけれど、一概に決めつけるのは私のような例外がいるので難しいでしょう? それに、この夜会という場はこんなふうに声を荒らげて婚約破棄を宣言するような場なのですか?」
「それは……いいえ、ち、違いますが……」
ヘーゼルが周りの貴族たちへと視線を向けると、自分やその周りの人間以外も視線に入ったらしくレイモンドは途端に敬語になり勢いをなくす。
その様子にフレデリカは少しホッとしているらしかった。
「ならば、きちんと話し合いをするべきです……ああ、すみません。婚約は破棄でしたね。これほど大勢の証人もいますし決定事項ですね! ただ事の真偽についてはきちんとした検証や証拠を! 事件は人のうわさだけでは解決しませんからね。フレデリカさん」
「っ……」
彼女に視線を移し釘をさすとびくりと反応して、その様子にやっぱりどちらかと言えば彼女の方が黒に近いと直感する。
しかし下手にここで文句を言っても仕方がない、争いごとには明白な決着が必要だ。
そのためには期間を置く必要もある。
「それでは、失礼します。丁度、幼馴染も見つけたことですし。まぁ、ニコラスはとんでもない鬼畜ということらしいですが、気にしません。久しぶりですね。ついてきてくれますか?」
くるりと振り返って、ヘーゼルは半分ニコラスに問いかけるように言った。
しかし彼は否定する余力もない様子で「ああ……」と短く言ってヘーゼルについてくる。
随分と張り合いの無い様子に、よっぽど多くの人に疑われて、衆目の前でこんなことになったのが堪えているのだと思う。
…………よっぽどですね。よっぽど傷ついている。これが誤解でもなく、ニコラスの嘘でもなく、もし嵌められたのだとしたら?
そう考えると、カッと頭が沸騰したように怒りがわき出すが、ぐっとこらえてヘーゼルは彼を連れて初めての夜会を終えたのだった。
ヘーゼルは初めての夜会で幼馴染をお持ち帰りした。
もちろん貴族としては醜聞そのものであり、しり軽だとか淫乱だとか言われるかもしれない。
けれどもそもそも王都に友人などいないし、ヘーゼルを前にしてそんなことを口走る輩がいたら、決闘に発展するだけである。
それに父にニコラスを連れて帰ると言ったら、彼は「うちの娘は決断がはやいなぁ」とのほほんとしていた。
別に、なにかを決断したつもりはないのだ、ただ単純に彼とのこれからについて選択する機会が突然差し迫ってきたというだけである。
だから手を取った。ほかに誰も味方がいない様子だったから、たまたまヘーゼルが手を差し伸べた。
それに彼が婚約破棄されるのであれば丁度いい。
婚約者がいながらほかの女についていったなど彼の醜聞になりかねないだろうけれど、婚約破棄されたのなら久しぶりの再会に水を差すものなどない。
ヘーゼルはバーキット辺境伯家のタウンハウスへと向かう馬車の中で、元気な笑みを浮かべてニコラスに言った。
「さて、久しぶりですね! ニコラスッ、あなたに会いに来ましたよ!」
「……うん。久しぶり」
「驚きました。なんですか突然、王都ではあんなことが日常なのですか? 随分と殺伐とした場所ですね!」
「うん……そう」
「婚約破棄なんてそうそうするものじゃあないでしょう! それなのに日常なんですか?」
「うん」
「なんで?」
「流行?」
「流行ることがあるのですね。病ぐらい流行ってほしくないものですが」
「……」
「だとしても、人前であんなふうに取り乱すのはいけません。私たちは貴族ですもの。それを教えてくれたのはあなたでしょう! ニコラス。もっと冷静にあなたなら理論的に返すと思っていたのですよ! 私」
彼の声は暗いまま、背もたれに体を預けてガタゴトと揺れる馬車者に身を任せている。神秘的な銀髪が彼の目元を隠していた。
しかし目元が見えなくともどんな表情をしているかぐらいはヘーゼルにもわかる。
スッと通った鼻筋に、切れ長だけど大きな目、白磁の肌はまるで妖精の様だ。
暗い顔をしているけれど、やはりそばで見ると驚くべき美人であり、昔も可愛い人ではあったが、随分歪みなく成長したなと改めて彼を見つめながら思う。
……外見が素直に成長しただけあって、こう昔と違うとやっぱり違和感がありますね。
ぽつりとそう思う。
あまり会話に乗ってこないところも見ると、もしかしてヘーゼルのことなど覚えていなくて、ついさっき思い出したのかもしれない。
そう思ってしまうほどに彼の態度はそっけなかった。
「……もしかして、私はあなたのことをずっと覚えていましたが、あなたは違いましたか? 昔と比べる発言はそうだとすると不愉快ですよね!」
しかしそれを思い悩んで、今更黙るような性格をしていたら、そもそも群衆の前で糾弾されている彼の手を取るようなことはしていない。
ヘーゼルは少し考えてそう言った。
すると彼はやっとちらりとこちらに視線をやって、その瞳に移る感情は少しイラついているように見えた。
「いいや? 君は変わらないね。本当に久しぶりだね。見違えたなんて言いたいけれど、むしろ僕の方が君から見れば酷く変わったように見えるよね」
「多少は!」
「ああ~……なんで、あんなタイミングだったかな。いや、むしろ逆にいいか。だってほかのところから聞かされるより、真実を見ていた方が多少マシだよ」
「そうなんですか」
ニコラスは自身の手で顔を覆って、指の隙間からヘーゼルのことを見る。なんだかその様子に幼いころには感じなかった闇を感じて、ヘーゼルはキョトンとした。
「ねぇ、言っていい? 僕のことを話していい?」
「どうぞ」
「あのさ、ああ、もう。はぁ……もういいや。もう疲れた。久しぶりだね、ヘーゼル」
「はいっ! 久しぶりです!」
「ところで僕って王都の社交界で、男も女にも手を出して女性に酷いことをするとんでもない男ってことで軽蔑されていて友人の一人もいないし、大衆の前で糾弾されて、それをまったくの誤解だって主張しても誰一人も助けに現れないようなクズなんだけど」
「……」
ニコラスは手を外して、薄ら笑みを浮かべながら一息でそう言った。
そして言ってから、大きなため息をついて髪をかき上げて、ヘーゼルに怒っているみたいに目を細めて見つめた。
「もちろん、やってないよ。そんなこと、身に覚えもないし。ただ、王都ってそういう場所みたい。僕が跡取り令嬢と婚約したことが気にくわない男も、僕に気がある女も皆こぞって僕の悪いところをでっち上げる」
吐露するように彼は続ける。
「ほんの些細な失敗を、僕が悪魔のような行動でさも人を陥れたみたいな話にされて、当の婚約者すら味方じゃない」
彼の瞳には、どす黒い感情がともっていて深淵が広がっている。
「どんなふうに立ち回ったって、僕は目立つからいつだってやり玉に挙げられる。当事者も当事者以外にも噂は広まって、関係ない人たちまで僕のことを軽蔑するんだ。はぁ……ああ、もう本当に。どんなに苦労したか」
「……」
「なんて言っても、まぁ、意味なんてないんだけどね。誰も信じてくれないんだから。もういいよ。婚約も破棄になるよね。流石に。もういい、あーもう、本当に。もうどうでもいい……心底くだらない」
彼を形容するのにぴったりな言葉が思い浮かんでヘーゼルは瞳をぱちくりさせながら思った。
……ああ、えっと、荒んでる! ですね。
それから、にこっと笑みを浮かべた。
けれども彼はその笑みにも反応せずに「もうわかった」「もういい」「くだらない」と同じような言葉を繰り返していた。
その様子に、荒んでいてそれから、ヘーゼルのことを見ているようで見ていないのだと気が付いた。
先ほどのことで心が折れたかなにかして、そして今はヘーゼルどころではないのだろう。
たしかに彼は苦労して、味方がいない王都で必死に頑張ってきたのかもしれないし、その頑張りがすべて無駄になったのかもしれない。
けれども、だからと言って、失敗したからと言ってすべてが無駄だったわけなどない。
彼は頑張った。ニコラスがそう主張するのなら、信じる人間は今までの王都にはいなくとも、たった一人ここにいる。
「珍しく間違っていますよ!」
ヘーゼルは目を細めて彼に言った。否定の言葉に敏感なのか彼は、疑問符を頭に浮かべてヘーゼルをすぐに見やった。
「先ほどの言葉、多くは私が否定できるものではありません! でも一つだけ、間違っているところがありましたよ」
「……どこが?」
「あんな目に遭っていても、誰一人助けに来ない。のところです。私が参上しましたよ!」
「……君以外っていう意味だよ」
「そうでしたか! 申し訳ありません。でも、訂正しておきたかったのです! たった一人でも、あなたの方を信じる人間はここにいますよ! 少しは変わった様子ですが、大衆にどう思われるかよりもあなたとのよい関係を選んだ人間はここにいますよ!」
「……」
「私だけでは足りないでしょうが、こちらでニコラスはたくさん頑張ったのですね。お疲れ様です! あなたは随分美人になりましたから、嫉妬が多いのでしょう」
彼の目を見てねぎらうと、次第に闇に染まった空洞のような瞳がキラリとした光をはらんでやっとヘーゼルのことを認識したような気がする。
「それにしてもあんな目に遭うとは、不憫です! 不憫というか不条理です! やった人間にはそれ相応の罰が必要ですね。やはり人が多いと嘘やでっち上げなんかをする人をきちんと罰せないのでしょうか?」
「……それは……違うよ。田舎にいた時が平和だっただけ」
「そうですか? では平和になるといいですね。まずは、ニコラスをはめるようなことをした人間が罰されなければ増長するばかりですから! きっちりしなければ!」
「君は……まぁ、そういう血筋だもんね」
彼は、なにかを言おうとして言葉を呑み込んだ。それからヘーゼルのことを肯定する。
「ええ! 騎士の家系ですから!」
成人したばかりで女性であるが、ヘーゼルはすでに騎士の称号を持っているし、バーキット辺境伯家は騎士の名家だ。
もちろん主を守り、魔獣を狩り、平和を守るのも役目であるが、貴族たちの諍い事について調査し、仲裁をして規律を守らせる立場でもある。
そんな当人たちが、社交界で小さな小競り合いをして騙し騙されグレーなゾーンをうろつきながら立ち回っていくわけもない。
「騎士に……なったのだっけ。ヘーゼルは」
「はい! まだまだの腕前ですが」
「ヘーゼルは立派だね。……ごめん。情けないところを見せて……あんなところを見せて、君に比べて僕は情けないよ」
「いいえ!」
「なにも成せていないし、結局、もうどうでもよくなっただけ。合わせる顔もないのに、君に助けられて」
ニコラスは落ち込んだまま続けて言う。彼のきらりと光った瞳は、さらに煌めいて、潤んで、瞳に涙がたまっている様子だった。
…………。
「ありがとう。でも、ごめん。君に会えてうれしいのに、悔しくて恥ずかしいよ。ヘーゼル。また今度、お茶にでもさそって。庇てくれてありがとう」
目元を覆って、なぜだか突然別れの言葉を言い出す彼に、ヘーゼルも少し鼻の奥がつんとして、口をへの字に曲げた。
……このままニコラスともに、何故このような事態になったのか原因の究明と仕返しに乗り出す予定だったのに全然予想と違います。
それに、今度お茶に誘ってということは今日はこのまま、帰宅するつもりということでしょうか。
そしてまた以前のように、友人として関係を持つつもりだということなのかもしれない。
けれども、その距離感にヘーゼルは熱くなっていた気持ちを拒絶されたような悲しみがあった。
目の前に壁を置かれて、共にこれから王都でやっていこうと思っていた気持ちが突っ返されたような心地になる。
けれども、別にきっとそうではないのだろう。
ヘーゼルとやっていくのが嫌というわけではなく、先ほど言ったように、彼はもう、折れてしまったのだ。
「なにかと言われるかもしれないけれど、それは君のことだから大丈夫だよね。僕はちょっと、もう疲れたから。あんまり人の顔を見たくないから、社交界にはいないと思う」
「……」
「助けてもらったのに、無責任でごめんね」
これからどうするか、ではなくあきらめて何もしないつもりらしい。
彼が、そういう態度となると、ヘーゼルは立つ瀬がない。
あの場で手を取っただけでなんの助けにもなっていないへなちょこである。
なにも助けられてなどいない。彼がこんなに傷ついているのに、彼は明確にはめられて、彼を責め立てていた人々はグレーではなく真っ黒なのに、口を出す権利をヘーゼルは持っていない。
「……」
「……」
「ごめん、呆れて言葉も出ないよね」
「いいえ?」
突然の沈黙に耐えられなかったのかニコラスはちらりとこちらを見て言った。
しかしそれ以上言葉が出てこない。
難しいことを考えてもヘーゼルはあまり複雑な感情表現などできないし、繊細な心に寄りそいつつも自分の気持ちも伝えて意見を通すことなどできない。
むしろそういうことはニコラスの方が得意なはずなのだ。
「…………ただ、どうしたらいいかわからなくなっただけです」
だからこそ得意ではないのだから、間違わずに伝えるために、素直に意見を言うほかない。
妙な勘違いや誤解はこういうところから生まれるのだろうと思うから。
「あなたをはめた人は罰されるべきです。私は今、それをしたい」
「……う、うん?」
「とにかく、そうしたい。でも、ニコラスに一線を引かれて、私すごく部外者ですね」
「……」
「あなたの方に加担すると決めて、そのためならば……というかむしろこうして王都に来たのだってあなたに会いに来て、それも会ったとたんに示したのに。私はともかくあなたと関係を持ちたいと思っているのに」
「……」
「まずは、仕返しをして問題を解決してから出ないとあなたは人の顔も見たくなくて、でもそれをする気はなくてじゃあ、私はどうしようもなくて、手詰まりです。とても……とても! 困っています」
ふてくされた子供のような声でヘーゼルは言った。
その様子にニコラスはキョトンとした顔をして、それからふっと吐息を吐き出して、くすりと笑った。
「っ、はは、ふふっ」
「笑いごとではありません!」
「う、うん。そうだね。君はそうだったね。ああ、やっと思い出してきた気がする」
彼が目を細めて、少し表情が緩んだだけで気持ちがじわっと温かくなってこれが美人の力かとヘーゼルは心底真面目に思った。
馬車の中の明かりは小さなランタンだけで薄暗いけれど、そんなことなど気にならないほどに彼の笑顔は輝いている。
……胸が急に苦しいですね。
「もっといろいろ言葉を選んで、自分がやりたいことを通すようにしなきゃいけないって、僕、昔君に何度も言った気がする」
「ニコラス以外にはもう少し言葉を選んでいます」
「そうなんだ。昔の君なら眉間にしわを寄せて”無理です”なんて言っていたと思うし……君も、変わったところがたくさんあるんだね」
「ええ! 大人になりましたから!」
「そっか……でも、僕は役に立たないし、そういうことをしようってもう思うのも苦しい」
ため息のような言葉に、こんな様子の人に仕返しなんてたしかにさせられないと思うが、ヘーゼルは一人だって平気である。
ともかく罰したいのである。
もはや半分ぐらいは、怒りを発散したい気持ちであった。
「でも、君が困っているなら……嫌な思いもさせただろうし……一時的に縁を結ぼうか?」
「どういうことですか?」
「僕と婚約するってこと。結婚でもいいけどどちらにせよ、君の経歴に傷がつくよ」
「なぜ傷がつくのですか?」
ニコラスが続けて言った言葉にヘーゼルは、さらにわからなくなって勢いよく聞いた。
「終わったら、婚約破棄なり、離婚なりするよね。そういうこと」
「しなければ、傷はつきませんね。なら万事解決です!」
「どういう意味?」
「決まりましたね、これで私も正当にあなたを傷つけた罪で犯人を罰する権利を得たということです!」
「ヘーゼル?」
「結局父の言ったように決断をしたということになってしまいましたが、父にはもう話を通してありますから、問題ありません。あの時訂正せずにいて正解でした!」
ヘーゼルはニコニコしてそのままニコラスをバーキット辺境伯邸に連れ込んだ。
その後にやっと彼が限定的な間しかヘーゼルとの関係を持ちたくないと考えているのかという可能性に思い至り、確認をしたが、すでに先走って策略を考えた後であった。
今更、心配するヘーゼルに、ニコラスはまた可笑しくなって笑ったのだった。
作戦をたてはしたものの、犯人……というかニコラスの悪い噂を流した人物についてはすぐにはっきりとした。
というか、ニコラス自身、そのことについては理解していたのだそう。
しかし、なんとかうまく彼女と折り合いをつけようとしていた矢先の出来事があれなのだそうだ。
ニコラス自身、婚約者ということもあるし、悪者としてではなく誤解があったからすれ違っていたというふうに結末をもっていくために、あえて行動を起こさずにいた。
それは、ある種優しさからくる行動でもあったのだ。
それらのすべてを裏切られ、ついにニコラスの心は折れたらしい。
しかし彼女はまだニコラスを手放す気はないらしく、あんな場で婚約破棄を宣言して、ニコラスに酷いことをされたと証言しつつもニコラスと婚約破棄をせずにいた。
そのせいで、ヘーゼルとニコラスは未だに関係を結ぶことが出来ていない。
父の力を借りて強引に婚約解消に持ち込むことも出来なくはないが、それでは彼女の真意を確認することもできずに消化不良になってしまうだろう。
ということで、侮辱罪ということで王族に訴えを起こすことにしたと誘いをかけた。
幸い目撃者は多数だ、そして事の真偽を確認され、ニコラスからの婚約破棄はもちろん、虚偽であった場合にはそれ相応の慰謝料が発生する。
その旨を記載した書簡を送るとフレデリカはのこのことやってきた。
そして彼女はしおらしい態度でヘーゼルと向き合っていた。
「……あの時はただ、わたくしの指示なんかじゃなくてレイモンドが勝手に暴走してしまっただけですわ。どうかヘーゼルさん、このことは水に流してくださいとニコラスに伝えてくださいませ」
彼女は肩を落として、明らかに落ち込んでいるといった様子で口にする。
ヘーゼルは紅茶を一口飲んでそれから彼女に合わせて口を開いた。
「だから婚約破棄もしないし、これからも彼と一緒にやっていくつもりということですか?」
「……ええ、それは……はい」
躊躇しつつもフレデリカはきちんと返事をする。
あんなことがあったのに、こちらから連絡をするまでしれっとそうするつもりでいた彼女は随分と肝の据わった相手だと思ったが、どうにもこうして対面するとか弱い女性然としている。
そもそも、それらの行動が矛盾しているという点については彼女自身も気が付いているだろう。
「なぜでしょうか? 婚約破棄による慰謝料の支払いのめどが立たないからというのであれば、お貸ししますよ?」
……金利は目玉が飛び出るぐらいの額を請求しますがね!
彼女は視線を落としてそれから、フルフルと首を振る。
その様子にヘーゼルはじれったい気持ちになった。
か弱い女の子というのは少々面倒くさい。
「……」
「ではなぜ、ひどい目に遭わされているのに婚約破棄をしないのですか? それに、本当にひどい目に遭っているのなら彼が王族に侮辱罪で訴えを起こしたとしても問題がないはずです」
「……」
「彼の噂はあなたにとって事実なのでしょう?」
「……はい、それはもちろんですわ」
ヘーゼルの言葉にフレデリカはおずおずと返事をする。
「ではなぜでしょうか?」
再度質問すると彼女は決意したような顔をしてヘーゼルに必死さをアピールするように言った。
「ヘーゼルさんは疑ってらっしゃるのね。わたくしはそれでも、皆が話を聞いてくれるし、彼を捨て置く気はありませんの!」
「だから、何故ですか?」
「これでも愛しているのですわ。たとえどんなに世間体の悪い人でも、良い……むしろ彼を受け入れられるのはわたくししかいないのよ……」
「よくわかりませんが、それでも婿に欲しい人はいますよ! ニコラスは美人ですし」
彼女の言葉に、どうしてそんなに彼のことを悪く言っておいて愛しているなんて言えるのかわからずにヘーゼルは適当に返した。
「……それは、あなたが彼の本性を知らないからそう言えるのですわ」
すると彼女は少し声色を変えて、控えていた侍女から荷物を受け取り、それからドレスの袖を引き上げた。
「これは、そう。ニコラスが酷くお酒に酔った日のこと、彼は理不尽に怒り出しわたくしに乱暴を働きましたの! その痣がほらここにくっきりと……」
そう言って見せられた腕には、たしかに赤くうっ血しているような痣にも見えるものが残っている。
「…………?」
ヘーゼルはそれを見て首を傾げた。
その反応を見てフレデリカも疑問符を浮かべる。
……いや、これはおかしいって、むしろわからないのでしょうか。
彼女の反応に、ヘーゼルは少し呆れながらも聞いてみた。
「それはいつのことですか。随分前でしょう」
「そ、そうですわ! それでもくっきりと痕がここに!」
「痣はそれほど長く残らないですよ。それに残っているにしてもこんなに赤い状態では残らないと思います!」
基本的に打撲後はしばらくののちに、青や赤から黄色やオレンジに色を変える。随分前の出来事のはずなのにこれではつじつまが合わない。
「……そ、そんなの人それぞれでですわ……」
「いいえ、大体の人はそうなっています。ほかに証拠はないのですか?」
「もちろんありますわよ、これは友人からのニコラスが娼館に出入りしていたという文面の手紙ですわ」
手渡そうとしてくる彼女にヘーゼルは見るまでもないと手を振った。
そんなもの証拠にならないだろう。彼女の友人からの手紙だなんていくらでも偽装することが出来る。
せめて関係のない人間のものでなければ。
「その方がいるのならば別ですが手紙の内容となると本人に確認が取れないので意味がありません! 裁判でも証拠品扱いされませんよ」
「そ、そんなこと、関係ないじゃない! わたくしはあなたにせっかく真実を伝えてあげようとしているのに!」
「……まぁ、たしかに個人で有効な証拠を残そうというのは少々難しいですか」
彼女は自分の提示するものがヘーゼルに認められずに苛立ったように言った。
それに、少し厳しく判断しすぎかと思い直して問いかけた。
「申し訳ありません。ほかにもありませんか。それらを見て判断したいです」
「……仕方ありませんわね。これはわたくしの日記ですわ。これを少しでも読んでいただければ真実がわかるはずよ」
「! それはよかった。日記は証拠としては不十分ですが他の材料と組み合わせて審議を確認することが可能ですから」
最後の手段とばかりに出してきた小さな手帳を手に取ってヘーゼルは目を細めて喜んだ。
そしてヘーゼルが視線で合図を送ると、紐でくくられた書類つづりを持ってやってくる。
「これはニコラスから預かっているケネット公爵家での業務日誌だそうです! これで昼夜問わず遊びまわって、昼から飲酒をして乱暴な態度を取ったなどというでっち上げを論破することが出来ますね」
「え……は、はぁ?! ちょっと待って、そんなものどうして持ってっ! どういうことですの!」
「聞いての通りです。私は基本的にニコラスを信じているので、証拠が手に入って嬉しいのですよ!」
「なっ、いままで、わたくしの話を素直に聞いていたくせにっ、だ、騙したのね!」
「随分取り乱していますね! 私が見ればあなたのでっち上げがバレるということで間違いないようですね、フレデリカさん」
彼女は机を強くたたき、前のめりになってヘーゼルに食って掛かった。しかしその様子で、すでに中身を精査するまでもなく彼女は自白したも同然だった。
彼女は自分はこんなふうにたくさんの証拠を偽造して多くの人をだますべく工夫をしているというのに、ニコラスの側には潔白を証明するようなものがなにもないと思い込んでいたらしい。
「あなたなのですよね! ニコラスの悪い噂を流したのは。酷いことをされたと被害者らしく演じつつも、その裏でさらに友人の名前まで使って彼を悪役に仕立て上げた」
「言いがかりですわ、そんなことするわけが━━━━」
「ただ、レイモンドさんが婚約破棄だと宣言したこと、それについてはどうやら本当に想定外のことだったのですね? だって調べられればすぐ露見するような嘘で彼を貶めていたのだから、公で糾弾するはずもない」
「……っ」
「しかしあなたの行動はわかりましたが、意図はわかりません。どうしてこんなことをしたのですか?」
黙り込んだ彼女にヘーゼルは、手帳の金具をぱちんと外してそれからパラパラとめくる。
「妄想日記、そう思って見ると滑稽なものですね!」
「っ、や、やめなさいよ!!」
カラッとした笑みを浮かべて口にすると、彼女はバッと手を伸ばしてくる。
ヘーゼルはその手を掴み、ぐっと自身の方へと引き寄せた。
「っ、ちょ……っは、離して!」
「本当に乱暴をされるとどんな傷がつくのか、気になりませんか?」
「ひ、っひぃ」
彼女の偽物の傷跡の上から腕をきつく掴んで、それからぱっと手を離す。
反動でソファーに勢いよく沈みこんだフレデリカは、自分の腕を摩って小さくすくみ上った。
「教えてください。あなたのせいで私は、ニコラスと縁を結べていないのです。すべては彼の名前を使わないと出来ませんし、せっかくいい関係を構築できると思ったのに……」
ヘーゼルは未だに婚約を破棄しない彼女に苛立っている気持ちをぶつけて、静かにフレデリカを見つめた。
するとしばらくののちに、彼女は耐えかねたように口を開いた。
「っただ! ただ、あの男! わたくしよりも美しいから! それだけなのよ、それだけがいけなかったのよ!」
取り乱してフレデリカはつづける。
「せっかくわたくしが見初めてあげたというのに、次から次に女に群がられて、気持ち悪いったらないわ! それにあの人、男のくせに男性にまで好意を向けられてっ!」
「……」
「これは、わたくしの使命だと思いましたのよ! あの男の悪い部分を広めて幻滅させるぐらいしてやらないと! 調子に乗ってわたくしのことをないがしろにするじゃない!」
酷く上から目線な発言にヘーゼルは冷めた目線でフレデリカを見つめていた。
「ふらふらと他の女と遊ばれでもしたら本当に許せない! っていうかわたくしの話を聞いて面白可笑しく広めた方々も同罪ですわ! 皆、悪いのよ! なにもわたくしだけが悪いわけじゃないわっ!」
「……」
「わたくしはただ、釘を刺してあげただけですのよ! わたくしの物なんですものどう扱ったって自由でしょう?! ただあの男は素直に従っていればよかったのよぉっ!!」
心の底からの叫びに、ヘーゼルはやっとフレデリカがなにを想って婚約者の悪評を流し、最低の男なのだと言い続けたのかわかった。
……惚れているのに、憎たらしかったのですね。
彼があまりに魅力的すぎて、言い寄られている様子を見て、不安になって不満に変わり、それが憎しみになって歪んだ行動へと導いた。
たしかに、それを面白可笑しく助長させた周りの人間も悪いだろう。しかし諸悪の根源が言っていいことではないのは事実だ。
「…………その気持ちはわからなくはありません。ニコラスは魅力的な人ですから」
「なによ! わかったようなことを言って! あなただって彼に惚れただけのくせに! でも残念、今の婚約者はわたくしなのよ!」
「ええ、そうですね。だからこそ、その地位の為にもあなたにはきちんとしてもらわなければ困るのです、フレデリカさん」
こうして、ニコラスの代わりにヘーゼルはフレデリカから事情を聴いているが、まだヘーゼルは彼を傷つけた人間を正当に罰する権利をもらっていない。彼を傷つけた人はほかにもいるだろう。
彼らをきちんと罰する正当な権利がヘーゼルは欲しい。
それに、もう一つ、その婚約者という地位の特権的な権利がある。
それを振り回して彼女は、ニコラスのことを傷つけた。だからもうそれを彼女に渡しておくことなんて到底考えられない。
「そんな、歪んだ醜い愛情をニコラスに向けないでください。婚約者だからと言ってどんな愛情を向けてもいいというわけではないですし、なによりニコラスが望んでいませんから!」
「み、醜いですって!?」
「はい。少なくとも私にはそう見えますし、私ならそんなことはしません!」
「偉そうなことをっ!」
「偉そうというか実際に私の方が今は立場が上ですよ。あなたはこうして嘘を看破された以上、ニコラスに許してもらう以外に方法はありません」
元気のいい彼女にヘーゼルは淡々と続ける。
「訴えを起せばあなたは罪に問われる、婚約もその時に破棄されるでしょう!」
「そんなの、それさえ、手に入れればっ」
ビシッと言うと、フレデリカは一か八かといった様子でローテーブルを踏み台にしてとびかかるようにしてヘーゼルの方へとやってくる。
……捨て身にもほどがありますね!
やはり感情的になって、他人を害する人はどこまで言ってもそういう人ということだろうか。
「……」
フレデリカが書類つづりを手に取って、胸に抱きこみながらこちらに倒れてくる。
そして彼女のさらりと広がった髪に触れて、ヘーゼルは魔法を使った。
金色の髪がぶわりと燃え広がっていく、さらさらと灰になっていくが魔法の炎は精密に操作をすれば人を傷つけずに任意の物を燃やすことが出来る。
「っ、ひ……ぎゃ、ぎゃああああ!! 髪、髪がぁ! わたくしの美しい髪が!!」
「申し訳ありません。てっきり襲われたかと思い、魔法を発動してしまいました。身体に害は無いはずです!」
「はぁ!? みみみ、見なさいよ! こんなに短くっああ、ああ! どうしてくれますの!」
書類つづりを放り出して怒鳴りつける彼女に、ヘーゼルは立ち上がって灰を落とし平然として言った。
フレデリカの美しい金髪は火のついた場所から半分以上燃えてなくなり、短い部分は肩の上まで減っている。
「どうもこうも、罪人になればおのずと短く刈り上げるのですから問題ないですよ! 謝罪をするつもりもないようですから、私は全力であなたが罰金では済まないように努力するつもりです」
「え? ……な、なに言って……」
「罪には罰を、当然のことです。私はまだ正当にあなたを罰する権利を持っていませんが、ニコラスの好意でフライングで行使させてもらっています。嬉しい限りですね!」
「っ、……っ、ざ、罪人だなんて、そんな」
「どんな罪でも犯せば罪人ですよ! 自由は今のうちしか無いことを噛みしめて日々を送ってくださいね」
きちんとこちらの意思を表示すると彼女は、髪のことなどすっかり忘れて、顔面を蒼白にさせる。
幸い、彼女の実家はさほど地位の高い貴族ではない。
子供も彼女以外にいると聞く、一人監獄に入れられたところでなんの支障もないだろう。
そう考えて、ヘーゼルは応接室を後にする。彼女の思惑は知ることが出来たし、自身のこれからやることも口にした。
これでスッキリ、後は正当な罰を彼女に与えるだけでいい。
背後からヘーゼルに縋るように呼び止める声が聞こえてきたけれど、まったく無視してニコラスの元へと向かったのだった。
監獄送りだと意気込んでいたヘーゼルだったが拍子抜けしたことに、多額の慰謝料とともにニコラスの婚約は破棄され、フレデリカは社交界でもまったく姿を見ることが無くなった。
貴族にとって髪というのは富の象徴だったり、とても大切な意味を持つ。それを失った彼女が現れないのは当然とも思うが、彼女の実家からの書簡によればもう王都にもいないらしい。
跡取りの地位を譲り、実家の持つ領地のタウンハウスへと戻りそのまま失踪したのだとか。
まるでなにかから逃げるようだったと言うことなので、もしかするとヘーゼルは少し脅しが過ぎたのかもしれないなと反省した。
反省しながら、マドレーヌを焼いていた。
炎の加減ならヘーゼルはとっても得意なので窯のそばで、魔法を使いつつ、貝殻の型からぷっくりと膨らむ生地を眺める。
エプロンをつけたままにしようかそれとも脱いでしまおうかと考えていると、ダイニングの方から厨房をのぞき込むニコラスの姿があり、彼はヘーゼルを見つけるとぱっと表情を明るくする。
……相変わらず美人ですね!
彼が笑うと周りの空気までわっと華やぐような気がしてヘーゼルは反省など忘れて反射的にそう考えた。
「侍女に聞いたら、厨房にいるって聞いたから、驚いたよ。君、料理もするようになったんだね」
「……普段からではありません! それに料理はまだ少しハードルが高くて手を出していませんよ」
「なら、特別にってこと? 来客の用事でもあったっけ?」
「いいえ! 特にないですね!」
彼の言葉にヘーゼルは答えつつも、窯の温度が下がらないように気を配る。
彼とはフレデリカの件が落ち着いたのちに結婚し、現在はバーキット辺境伯邸のそばに別邸を建てて生活をしている。
彼女がきちんと非を認めて王都を去ったので、ニコラスの悪い噂は跡形もなく消え去り、結局、噂を面白おかしく広めていた貴族たちも手の平を返して、彼はすぐに多くの人に言い寄られる生活に戻った。
その代わり身の速さにも、面の皮の厚さにもニコラスは嫌な顔をしていたし、いい気分ではないけれど、ともかく彼をこれ以上固執して傷つけようという人間は表面的にはいなくなったらしい。
それだけは喜べることだった。
「……じゃあ、どうして急に?」
「お菓子を焼いているんです! これの扱いだけは私、得意ですから!」
目線でアピールすればニコラスも同じように中を覗き込む。
キレイに焼き色のついたマドレーヌをみてニコラスは「すごいね、ヘーゼルは」と短く言った。
もちろんそうして褒めてもらうことも一つの目的ではある。
しかし本来の目的はそれではない。
彼の言葉に笑みを浮かべつつも鉄板を窯から出してヘーゼルはミトン代わりの布切れをつかって貝殻を持ち、出来立てのマドレーヌを型から外して小皿に移す。
「美味しそうに焼けてる」
「そうでしょう! はい、どうぞ。焼きたてですよ!」
「……僕に?」
「はい! 焼きたてのマドレーヌはとってもおいしいですから!」
「…………」
一番最初にニコラスに渡すと、彼はそれを見つめて、また瞳をキラリとさせて、唇を小さくひき結んだ。
「感動するなら、せめて食べて感動してください!」
「情けないから、見ないで。あんまり君が優しいから、僕、最近こんなになってばかりだ」
「しめしめ、計画通りですね! 私は権利をきちんと正しく使えているようです!」
「なんの話?」
「こちらの話です、お気になさらず! さぁ、たくさんありますからね」
適当に話をごまかして、ヘーゼルも焼きたてのマドレーヌを口に含んだ。
ほっこりしていてもふもふしていて甘くてバターの香りが広がる良い出来栄えである。
こういう物を一番に渡すこと、あと少し面倒だが彼を思って刺繍をすること、見つけたら笑みを向けること。
そういうものがヘーゼルにとっての愛情である。
初めての夜会の日、彼に強請ってもらったものは、腹の立つ人々を罰する権利であった。
しかしそれに付属して、まっとうに彼を愛する権利も今はヘーゼルの手の中にある。
それを正しく使っていこうというのが当面のヘーゼルの目標である。
それを受け取って嬉しくて彼が感動するのなら、きっとうまくやれているのだろう。
「……す、すごくおいしい。驚くぐらい、美味しい……」
「でしょう! 秘密は温度にあるのです!」
「そっかぁ……」
はぁとため息をつきながらもくもくと食べ進める彼をニコニコしながらヘーゼルは見つめた。
正しく愛せて、彼が幸福そうで良かったと思うし、これからもそうしていきたいと思うが、何故、そうしたいと思うのかということについてはまだ、ヘーゼルの中には明確な答えがないのだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
下の☆☆☆☆☆で評価、またはブクマなどをしてくださると、とても励みになります!