(8-5)
混乱している俺の腕を揺すってお市様が現実――いや、その現実こそが夢なのか――に引き戻そうとする。
「お願いでございます。あなた様はここから逃げてください。いえ、わたくしも一緒に連れていってくださいまし」
「えっ、お市様を」
「兄がああなってしまった以上、もう元のうつけには戻れないでしょう。わたくしは兄の愛玩動物としてこの城に囚われ、あの苛烈な兄のために奉仕しながら生きていかなければならないのです。お願いでございます。わたくしを……わたくしを救ってくださいまし」
雨の音が大きくなる。
俺たちの間を沈黙が隔てていた。
覚悟を決めた俺は息を深く吸い込んだ。
「分かりました、お市様」
「では……」
俺の腕をつかむお市様の手に力がこもる。
「はい。逃げるわけには参りません」
「えっ……」
木の実をはめ込んだような光のない目が俺を見つめている。
俺はお市様の頬に手を当てた。
「世のため人のため、俺は織田信長を再び封じ込めなければなりません」
微笑みかけると、お市様も応じてくれた。
「安心してください。これ以上お市様が苦しむことのないように、俺が全力でお守りいたします」
「必ずですよ」と、お市様が俺を見上げて目を閉じる。
――ん?
これって、もしかして。
え、嘘だろ。
このタイミングで?
令和の非モテボッチ陰キャ男子にとって、めちゃくちゃ高いハードルが待ち構えていた。
いや、無理っす。
そりゃ、夢みたいだけど、夢でいいです。
キ、キ、キ……スとか、ありえないって。
しかも、相手は戦国一の美女だぞ。
俺ごときがありえないじゃん。
なのに、お市様はじっと目を閉じて俺を見上げている。
いいのか?
本当にいいのか?
俺でいいのか?
――いや。
戦国一の軍師になるなら、これくらいのことでビビったらダメだ。
この先どんな困難が起きても、俺はお市様のために戦い抜かなければならないんだ。
誓いの印、覚悟の証、男としての下剋上。
やるかやらないか、やれるのか。
迷うな。
堂々と前に進むしか答えはないんだ。
覚悟を決めろよ、男なら。
俺はお市様の背中に手を回し、静かに抱き寄せ、唇を触れ合わせた。
俺の知らなかった感触に一気に引きずり込まれ、俺は思春期男子の本能のままに快楽をむさぼっていた。
と、その時だった。
「姫様、人が参ります」
心結が格子の向こうから囁いた。
慌てて顔を離したものの、抱き合っているところを見られてしまった。
手裏剣が発射されそうな目で俺を見下ろす忍びが格子戸を開ける。
「さ、お早く」
名残惜しそうに俺の手をつかんだままのお市様を引き剥がすように心結が立ち上がらせる。
傘を差した別の侍女が連れ出し、お市様は俺に顔を見せることなく去っていってしまった。
格子戸の鍵をかけながら忍びが俺に囁く。
「これからはわたくしがあなた様の影となって動きます」
「渋々といったところか?」
皮肉のつもりだったが、伝わらなかったようだ。
「わたくしの主人はあくまでもお市様です。その主人が契りを交わした以上、その相手に使えるのも私の任務です。ただし、たとえあなた様でも、お市様を裏切り苦しめることがあれば躊躇なく殺します。ですが、お市様のためになるのであればそこに迷いはありません」
「たとえば俺が伊賀と敵対することになったらどうするんだ?」
困らせたつもりだったが、即座に答えが返ってきた。
「我ら伊賀者は一度仕えた主には命を捧げる覚悟ができております。伊賀に義理立てすることはございません。頭領の百地様からは次に伊賀に戻るときは敵だと思えと仰せつかっております。では……」
人の気配を察知したらしく心結は暗闇の中に消えてしまった。
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