(8-2)
固くこわばった姫の指を一本一本ほぐすように短刀を取り返し、俺は自分の喉に突きつけた。
「お市様、あなたの手を汚す必要はありません」
「いいえ、わたくしはなんとしてでも……兄を」
――兄?
信長のことか?
思わずこぼれた自分の言葉にお市様の目が大きく見開く。
俺たちは暗い牢屋の中で見つめ合ったまましばらく動けなかった。
提灯の揺れる明かり一つが俺たちの存在を浮かび上がらせていた。
「死ねと命じるのであれば、そういたしますよ」
不思議と恐怖は感じなかった。
ここで死ぬのもむしろ悪くないと凪いだ気持ちで心が満たされていく。
俺みたいな非モテ男子がこんなお嬢様を泣かせたなんて、令和に戻って話しても誰も信じないだろうな。
非モテ男子の武勇伝。
歴史の一ページにさえ残らない裏話。
だけど、そんな馬鹿みたいなことに命を賭ける。
それが男ってもんなんだな。
そういう想いを経験できただけでも、この時代に来た甲斐があったというものだ。
お市様は嗚咽を上げながら俺にしがみついてきた。
危うく短剣が喉に突き刺さりそうになるが、俺を殺そうとしたのではなさそうだった。
「お願いでございます。兄を……」
想いがあふれて声にならないのか、袖で口元をおさえて咳き込んでしまった。
「良かったら、話を聞かせてもらえませんか」
短刀をしまい体を起こした俺に、頬を濡らしながらお市様がうなずく。
俺たちは牢屋の奥の壁にもたれて並んで座った。
右側に座ったお市様が俺の肩に頭をのせる。
夜の闇よりも深く豊かな髪の毛から漂う香りが俺の鼻をくすぐる。
男の本能で肺の奥まで思い切り吸い込んでしまう。
俺は慣れない手つきでお市様の肩に右手を回し、最初は軽く触れる程度に置いた。
そのかすかな感触が合図となって、まるで大木にもたれかかるようにお市様が身を寄せてくる。
覚悟を決めて俺は華奢な体を抱き寄せた。
雨の音が激しくなる。
外に心結がいるはずだが気配を感じない。
忍びは雨に濡れることなど問題にしないのだろうか。
腕の中で、お市様は落ち着きを取り戻したようだったけど、俺の方は心臓バクバクで顔が破裂しそうなほど熱い。
こんなイケメンみたいな真似、令和でだってやったことがないのに。
お市様の濡れた頬を着物の袖口で拭ってやると、照れくさそうに首をかしげながらもおとなしくしている。
――夢みたいだな。
今この瞬間殺されたって、むしろその方が幸せってもんかもな。
戦国一の美女のぬくもりを感じながら、俺は牢屋にいることも、下剋上の世にいることも忘れてただひたすらに男の幸福をむさぼっていた。
涙が乾くと、俺の耳に吹き込むようにお市様がつぶやいた。
「あなたは兄に天下を取らせたいとおっしゃっていましたね」
「はい、軍師として、その一助になればと思っております」
「それはいけません」
「なぜですか」
一瞬言葉を詰まらせたお市様はあらためて俺の目を見つめると、意を決したように大きく息を吸い込んだ。
「兄はいずれこの世を滅ぼします」
――ああ。
心を刺し貫くような言葉なのに、不思議と心臓の鼓動が落ち着いていく。
俺はすんなりとお市様の言葉を受け入れていた。
史実でも、敵対する勢力に対して、苛烈な制裁を加えたことは事実だからな。
ただ、それだけの意味ではなさそうだった。
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