第8章 兄と妹、そして軍師が生まれる(8-1)
夜が更けて雨が降り出したころ、牢屋の外で誰かの話し声が聞こえた。
女の声だ。
お市様かと思って居住まいを正したら、提灯を持って姿を現したのは知らない女性だった。
「お市様付きの侍女で心結と申します」
まさかの令和ネームだ。
俺と同じ高校生くらいの年頃で、髪の色は黒だがギャルっぽい目をしている。
言葉遣いは丁寧だが、令和の記憶を思い浮かべてなんとなく苦手意識を感じてしまう。
「お市様があなたに話があるそうで、人払いをさせました」
心結は懐から匕首をのぞかせた。
「私は伊賀の忍び。お市様をお守りするのが役目です。あなたが我が姫様に危害を加える場合は躊躇なく首を掻きます。切られたことにも気づかないうちに命を失うでしょう。私がつねにそばにいることをお忘れなきよう」
いきなり物騒なことを言われて股間がゾワリとした。
「危害とは?」
「おのれの胸に手を当ててみれば分かること。男はみな同じ獣」
藤吉郎なら狭い場所で二人きりになった途端迷わず手を出すんだろうけど、女子と手をつないだことすらない令和の非モテボッチ陰キャ男子だった俺にはそんな勇気はない。
一応釘を刺しに来たんだろうが、俺を見てそんな心配どころか可能性のかけらすらないことを一目で悟ったらしく、厳しい警告を発したにもかかわらず忍びの目には蔑みの色がこもっていた。
俺は隠し持っていた短刀を差し出した。
「これのことを言っているのなら、持っていてくれ」
――期待外れの軟弱者が。
そう聞こえた気がしたが、俺がたずね返す前に心結は格子から手を差し入れることなく立ち上がった。
いつの間にか彼女のすぐ隣にお市様がいた。
自ら鍵を外し、中に入ってくる。
湿っぽかった牢屋にいい香りが漂う。
「服を取り上げられたのですか?」
和服姿の俺を見てお市様の眉尻が下がる。
着こなしが下手かな。
「いえ、河尻という武将が南蛮の服を着てみたいから交換してくれと頼まれまして」
「そうでしたか。無理矢理取り上げられたのなら申し訳なく思いましたので」
「ご心配ありがとうございます。閉じ込められてはおりますが、握り飯ももらいましたし、良くしてもらっております」
俺の言葉に、お市様は安心したようなぎこちない笑みを浮かべた。
「あなた様にお話ししたいことがございます」
そう言いながら俺のすぐ隣に向かい合って座り、俺の胸に手を当てる。
――え?
いきなり頬が触れ合いそうな距離で思わずのけぞってしまった。
なおも、距離を詰めてくる。
ちょ、え?
非モテ男子の情けなさで女子との距離感に押され、体勢を崩したその時だった。
お市様が、俺の脇に置いていた今川の短刀をつかむと、鞘から抜いてブルブルと震える切っ先を突き出した。
「な、何を……」
「わたくしがあなたを殺します」
決意を自分に言い聞かせるように荒い息をおさえながら俺にのしかかってくる。
いい香りに押し倒されながら、俺は抵抗しなかった。
だが、着物ごしに固い刃の感触を感じるものの、胸に突き刺さることはなかった。
俺は桶狭間で本多忠勝を刺してしまったときの感触を思い起こしていた。
人を刺すのは難しいものだ。
体中の力を一点に集中させ、一気に突かないと刃が布に滑って、刺さるどころか切り傷さえつかない。
何度も失敗を重ねるたびに震えが大きくなる。
非力な姫は自らでは事を成し遂げられないと悟ったのか、俺を見つめる清らかな目に涙があふれ出す。
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